大沼の文化と歴史

大沼の文化と歴史
文化財調査普及員

①新しくなった「大沼観音堂」

建物の老朽化にともない、新しく建て替えられた大沼観音堂は、平成19年11月、淵野辺龍像寺住職により新築完成法要が行われました。今までのイメージを一新する立派なお堂が建てられ、地域の神仏に対する信仰の厚さを物語る建物です。
お堂の中には、千手観音が祀られています。昔は、治病、夫婦円満の観音様として大沼の人々の信仰を集め、嫁に出るときは、必ず観音様にお参りをしてから嫁いで行ったそうです。
お堂の存在は、嘉永元年(1848)の宗門改め帳(戸籍)に観音堂が記されていますが、創建ははっきりしません。それ以前の天保年間(1830~)の凶作と疱瘡の大流行による死者の供養のため建てられたのではないかと思われます。

それ以来と思われる念仏、和さん、御詠歌が今でもお堂の中で、毎月1回女性が集まり行われています。旧市内では、非常に貴重なものとして注目されています。お堂は、それだけではなく集落の集会所やお十夜祭りの会場として、また青年団の催事や出会いの場所などに利用されてきました。
旧観音堂 新観音堂
千手観音 念仏を唱える

②大沼稲荷の初午祭

お稲荷さまは白狐に跨った女神です。

大沼には、新田開発の頃(享保年間1734~)に創建されたと伝えられるお稲荷さまが祀られています。

祭神は、旧市内では珍しい愛知県の豊川稲荷から分霊されたダキニ真天という女の神さまです。
今年も初午(新しい年の初めての午の日)の2月12日に「初午祭」がしめやかに行われました。

新田開発の守り神から豊作の神、そして講が結成された嘉永年間には、生業になっていた炭焼きや養蚕の商売繁盛の神となり集落の人々の厚い信仰を集めてきました。
嘉永6年(1853)に、講中から幟2本が寄進された記録(中里家文書)が残されています。昭和の初め頃まで続いていた講には、大沼独特の風習が語り継がれています。

講は、初午の日に開かれ主な家7軒が交代でお宿を務めました。ご馳走が振舞われることから、この日の来るのが待ち遠しく「お日待ち講」と呼ばれ村人にとって楽しみな行事の一つになっていました。この講の会食には、前年大沼に婿入りした若者を必ず招待したそうです。大盛りにしためしを差し出して、「それ喰え、やれ喰え」と囃し立て、その食べっぷりで婿の根性の品定めをしたそうです。中には、涙を流しながら食べる婿もいたそうで、「こいつは村の役にたつ奴だ」とか「ダメだ」とか、酒の肴になったのかもしれません・・・。

普段は、福参りの風習(男女でお参りすると結ばれる)もなくなりひっそりとしていますが、地域の守護神として人々を見守っています。また境内には、庚神さま(健康長寿の神さま)と地神さま(豊作の神さま)が祀られていて、訪れる人を静かに待っています。
地域の守護神大沼稲荷 お参り
所在地 相模原市東大沼3丁目26番地
大沼通りを座間方面に向かって左側
大沼神社の60m先

③大沼神社の例大祭

楽しさいっぱい伝統の秋まつり
今年も、9月の最終日曜日(28日)爽やかな天候の下、盛大に開催されました。

大沼神社は、今から272年前の元文元年(1736)弁財天社として新田への入植者によって祀られたと記されています。(新田取立村々百姓国域帳・中里家文書)

まつりは、多方面(21地区)から入植してきた人々にとって、集落の結集をはかる場として欠かせない神事であり、また楽しみな行事として行われてきました。忙しい農作業の手を休め、ご馳走を作り、身体を休め、飲食を共にすることによって、家族の絆を深め、また集落の形成にも大きな役割を果たしてきました。神輿は重さ1トンもある豪華なもので、囃子連が乗った屋台(山車)と共に、地域の安全を願って大勢の氏子や子供たちと共にパトカーを先導に町内を巡行します。参道や境内には、昼間から屋台が立ち並び、おいしそうな匂いが立ちこめ、どの店にも行列ができ大変な賑わいとなります。夜7時を過ぎる頃、神楽殿に股旅舞踊劇団が登場し、芝居や舞踊が演じられ、さらに地元の囃子連が出演するなど、楽しい芸能奉納が行われ、まつりを十分に堪能することができます。

楽しい祭りと幸運が授かるといわれる「大沼神社」に、あなたも出かけてみませんか。大沼神社には、新田開発の頃(享保年間1734~)に創建されたと伝えられる、お稲荷さまが祀られています。

秋の例大祭開催日 毎年9月最終日曜日
大沼神社所在地 東大沼2丁目9番地

神輿を担ぐ地域の人々 囃子連の乗った山車の風景
股旅歌舞団による踊り 演劇も行われる

④その1子育て地蔵

260年前、大沼十字路の辻に建てられました。
かつて、集落の路傍に立てられていた地蔵さまは、相次ぐ道路拡張や宅地化によって行き場を失ったため、昭和37年に小さなお堂を作って4体をそこに納めました。今もこのお堂の中に、真新しい赤い帽子や衣をつけて静かに時を刻んでいます。その中から、今回は、お堂の中の一番古い時代に造られた、子育て地蔵尊を紹介します。

寛永2年(1749年)造立 地蔵尊丸彫り立像 右手宝珠 左手錫杖 台座 念仏供養
山茫明暗 高さ110cm 横幅23cm 厚さ18cm
子育て地蔵尊 一番古い地蔵尊

≪子育て地蔵尊が建てられた時代の検証≫
地蔵はなぜ造られたのか

1.大沼新田に入植が始まってから約10年が経っていたこの時期、入植した農家の次男や三男は、結婚して、ちょうど子育ての最中だった。しかし土地は痩せ水利も悪く、農産物(麦・粟・稗など)の収量が悪いため生活は困窮し、子どもを丈夫に育てるのは難しい環境にあった。

2.延享4年(1747年)末頃から全国で風邪が流行し、死者が多数出ている。大沼の集落にも当然影響はあったと思われる。

3.台座に、山茫明暗の文字が見える。(今では風化して判読できないが、昭和58年の調査では確認されている)山に光が射して、暗く悲しい不幸なことが転じ、早く明るく幸せが来るようにとの思いが刻まれている。

4.正面台座には念仏供養の文字が刻まれている。亡くなった子どもたちの霊を供養するため、村中の女性が集まり念仏を唱えた。そして子どもたちの供養のために、お金を出し合って造ったのだろう。(現存する女性の念仏グループのルーツは、この時と推測される。

5.建てられた場所が集落の中心である。大沼十字路(大沼交差点)の東側の角に建てられた。集落で一番人々の行きかう場所である。地蔵さまを身近において願いをいつでも掛けられるように、都合の良い場所が選ばれたのであろう。

≪子孫の反映を願って≫
生まれた子どもが強く、丈夫に育つようにと願う、母親の強い願いが込められている地蔵さまです。

所在地 相模原市西大沼5-2 大沼観音堂境内
大沼交差点から大沼通りを座間方面へ 徒歩5分

⑤大沼の歴史散歩

歩いて確かめよう!
新田開拓時代の面影を求めて
大沼は、江戸時代の中期に開拓が始まり、享保19年(1734年)から入植があり、次第に集落が形成されていきました(大沼中里家文書)
地域は、時代を経て、大きな変貌をとげてきましたが、幸いなことにその時代の面影が今も数多く残されています。
享保20年(1735年)に新田集落の守り神として創建された大沼弁財天(現大沼神社)を起点に、大沼の昔をたどる散歩コースを設定しました。
山桜や新緑、紅葉などを楽しめる季節がベストです。ぜひ訪れてみてください。

≪散策コース≫
大沼神社 ⇒ 大沼稲荷社⇒ 大沼通り・入植した人々の家並み⇒ (大沼十字路)⇒ 地蔵堂・観音堂⇒ 坂下西(地神・丸石神)⇒ 庚申塚(道祖神)⇒ 薪炭林(木もれびの森)⇒ 検地を受けた時から耕作されている畑地⇒ 道者みち(大山道)

★行程★ 約5キロ ★所要時間★ 約2時間(休憩含む)

≪大沼神社≫
相模原市東大沼2-10 JR淵野辺駅から徒歩約25分
山桜・4月上旬から中旬が見ごろ
新緑・4月上旬からが見ごろ
紅葉・11月下旬からが見ごろ

≪散策ガイドのご案内≫
大沼の文化と歴史をご案内いたします。ご希望の方は、大沼公民館にお問い合わせください。
お申し込みは5名以上の団体に限らせていただきます。なお、案内人の都合により、日程等ご希望にそえない場合もありますので、ご了承ください。

春の大沼神社 畑地

秋の大沼稲荷社 道者みち

⑥大沼神社のどんど焼き

毎年1月14日に神社の境内で行われている伝統の行事
神社境内で行われている伝統行事のどんど焼きについて、その儀式や風習などをご紹介します。

1)最初に神社境内のやや中央に青竹を3~4本立て、その周りに正月に使った神社の太いしめ縄やお飾り、更に神社に納められた家庭のしめ飾りや御札、お守りなどが積み上げられます。
2)境内の隅から道祖神が運ばれ、そばに置かれます。(昔は火の中に入れられたそうです)
3)祭壇が作られ、お神酒、おだんご、野菜、果物が供えられ、準備が整うと、氏子総代長を先頭に、氏子役員が一人ずつ順番に拝礼を行います。
4)最後に四隅と道祖神が、お神酒と塩で清められ、ここで儀式は終わります。

点火は午後2時ちょうど。枯れ木に火が移り、勢いよく燃え上がってくると、参加者にお神酒が振舞われ、総代長の音頭で「家内安全、健康長寿、商売繁盛」を願って乾杯が行われます。火の勢いが収まってくると、いよいよだんご焼きが始まります。

先が三つ又になった竿とだんごを持った氏子さんたちが大勢集まり、和やかな談笑が始まります。竿の先からだんごが火の中に落ちても気付かないほど。大沼では、だんごを焼くと、そのまま家に持ち帰り家族中で食べる習わしがあります。これは「風邪を引かない、病気をしない」と信じられているからです。竿も持ち帰り、かまど(台所)に立てかけておきます。これは「火事にならない」と言われているからです。どんどの火は、勢いがよければよいほど「商売繁盛」になるとも言われています。

昔は、小正月の子どものまつりとして行われていたどんど焼き。江戸時代に創建された大沼神社のどんど焼きが、いつ頃から始まったのかは、残念ながら地元の誰に聞いても分かりません。

道祖神が運ばれてきました
氏子役員の拝礼  だんごを焼く

⑦大沼観音堂のお十夜祭

娯楽の乏しい時代、地域の大切な行事の一つだった
平成22年11月19日(金)晴れ
この日は朝早くからお堂の扉が開かれ、世話人の男性は法要の準備に取り掛かり、念仏講の女性は堂内を清掃し、祭壇に収穫した野菜や果物を供える。祭壇に灯明が灯されるとご本尊(千手観音)のお姿が輝いて見えた。
準備が終わると、世話人はお堂の裏にある無縁仏の墓にお参りを済ませ、法要の手順などを確認しながら僧侶の到着を待った。
午前10時、淵野辺龍像寺のご住職到着。 全員(この日は38名)が堂内に集まると御仏と先祖に感謝を表す法要が始まった。法要は約1時間で終わり世話人は直会(なおらい)のため席を移した。女性は堂内に残り直ぐに念仏講を開く。この日は10人の女性が円座になり、講のリーダーの川井さんの合図により独特の調子で念仏、和讃、ご詠歌が次々に唱えられた。
念仏は約1時間で終わり、そのあと供物を下げてお茶になり、やがてお開きとなった。

昔のお十夜祭の様子を世話人代表の中里さんからお聞きしました。
『昔は十夜法要のあと、双盤念仏をやっていた。男女合わせて20人くらいいたかな・・・
「ジャーン、ジャーン」という双盤の大きな音に誘われるように子どもたちが集まって来た。お菓子やみかんを配ったので村中の子どもが集まった。
この日は露店も出たので大人たちも農作業を早めに切り上げてお十夜祭を楽しんだ。娯楽の乏しい時代、地域の大切な行事の一つだった。
戦争が激しくなると双盤を軍に供出することになり、それ以来双盤念仏は中止となりその後再開していない・・・。

現在では祭りの形は無くなりましたが、今でも「お十夜祭」と呼ばれて続けられている。大沼の文化遺産として貴重な行事になっている。』

お十夜祭 毎年11月19日 午前10時より
大沼観音堂所在地 相模原市南区西大沼5-2
大沼交差点から座間方面へ向かい約50m先の右側

十夜法要 念仏講

⑧地名になった大沼という沼のおはなし

むかし大沼という名前の沼がありました。
それはいったいどんな沼で、どこにあったのか・・・今ではまったくその面影もないのでわからないのも当然です。これからその沼のお話をしましょう。

■名前がまだなかった沼やくぼ地に名前がつけられた
この地域には昔、やや大きな沼と小さな沼のほか、池や水溜りがたくさんありました。
今から300年くらい前の新田開拓絵図には、まだ名前が付けられていない沼の絵が描かれています。
実際に開墾が始まった頃、やや大きな沼には大沼、小さな沼には小沼、そのほかの池や水溜りには、丸屋池、すり鉢くぼ、水くぼ、長くぼ、くぼ畑などの名前が大沼に住み始めた人々によって付けられました。
これらの沼やくぼ地の名前がその地域の地名として残ったのです。
大沼の地名は、沼の名前から付けられました。
■大沼はどこに
大沼神社の裏一帯、テニスコートや住宅、大沼公民館の裏あたりまでひろがっていました。
昭和38年ごろの大沼
大正10年の測量図 大沼と小沼
現在の大沼の住宅地図
住宅の外側の道路が囲むように沼の丸い形を残している
■沼の様子は
・大きさの記録
江戸時代開墾が終わって、幕府の役人により、検地を受けた時に記録された面積検地水帳(宝永4年、1704)によれば2町8反3畝4歩と記録されています。
この時は沼でなく池と書いてあり、水が少なかったことか分かります。
これは沼の大きさでなく、水が溜まっていた部分の面積と思われます。
沼が埋め立てられた昭和40年の時の面積、大沼神社の境内にある水田記念碑によれば7町1反15歩(71、896m2)と碑に刻まれている。
これは、東京ドームの約1.5倍の面積になります。
水田記念碑 水田記念碑

・深さは
記録がないので、沼の様子を知っている人に聞きました。
沼の周りには、葦(よし)が生えていて、沼には水鳥や、鯉や鮒、ドジョウ、カエル、小さな昆虫などがたくさんいたそうです。
大雨が降ると沼の水が増え、大人の腰の当たりの深さになり、渇水(しばらく雨が降らないとき)の時は、深いところで膝の下くらいになったそうです。

■沼が埋め立てられたのはいつか
終戦後(太平洋戦争)の一時期、沼に田んぼを作っていましたが、食料難も解消して来たので作らなくなり、利用価値がなくなったので、沼の土地を持っていた人達が協議し、一括して昭和40年(1965)不動産業者に売却することにしました。
翌年から沼の埋め立て工事が始まり、この年ついに大沼は消えていきました。
その後、沼の跡には、住宅やテニスコートなどが建てられ現在に至っています。

■沼に残された伝説、民話
大沼には、多くの伝説や民話が残されています。本や資料に残されているものに、下記のものがあります。図書館などにありますのでそれを参照して下さい。
・ 淵辺義博の大蛇退治 (淵野辺の境川近くにも同じ伝説がある)
・ 日本武尊(ヤマトタケル)の火攻め (静岡県焼津市にも同じ伝説がある)
・ でいらぼっちの足跡 (淵野辺の鹿沼、菖蒲沼にも同じ民話がある)

このほか、大沼の地域独特のものがあります。
大沼に戻った鯉、大沼の蛇の渡り、大沼神社境内に住む白蛇、神社のご神木起立、小沼に住む大蛇 、むじな坂のだまし、すり鉢くぼの親子きつね・・・など
これらは本や資料はなく、地域の人々によって伝えられています。

⑨大沼の講について
江戸時代中期、新田開発が行われた大沼の開墾地に木曾(町田市)や海老名、津久井青野原など合計24の地域から入植がありました。
多方面からなる人々の心を一つにして良好な集落の形成に大いに貢献をした大沼の講について紹介をします。

1、大沼に存在した講
・ 現在も存続の講
念仏講、秋葉講、御嶽講、武相講
・ 昭和年代までに存続した講
稲荷講、双盤講、恵比寿講、愛宕講
・ 過去に存在した講
地神講、庚申講、富士講、巳待ち講、馬頭観音講
念仏講(大沼観音堂) 

2、講の様子
講の経験者から聞き取りました。
・ 講は家族単位で加入し家族で参加した
・ 会場は主な家が順番に、また観音堂や神社の社務所、製紙工場などでも開かれた
・ 信仰儀礼が終わると必ず共同飲食し懇親した。これで皆んなが仲良くなって行った
・ 秋葉講は籤で順番を決め3~4人が信仰する静岡県の秋葉神社へ参拝、ついでに3~4日かけて観光もして帰った 豊川稲荷から伊勢神宮まで足をのばしたこともある
・ 稲荷講は講が終わっても雑談や将棋を指したりして帰らず翌日の昼まで居たので「いなおり講」とも呼ばれていた講の様々なエピソードは今でも語り継がれています。

講によって信頼関係が築かれ農作業、土窯搗き、屋根葺き、冠婚葬祭などの相互扶助が行われるようになり、講が大沼の集落に一体感を生んで来た様子がよく分かります。

{講}とは、同一神仏を信仰するグループの結社。
大沼の講には上記の信仰系の講のほか、金銭の融通を目的とした頼母子講や無尽講なども存在した。

土窯搗き保存会
土窯搗き唄保存会