九沢地区の散歩コースをご紹介します。九沢地域は、鳩川を挟んで西側が上九沢、
東側が下九沢になっています。ゆっくり散策してみませんか。
大沢の歴史と触れ合ってみてください。大沢公民館を起点・終点:相模原北公園で
昼食をとって約2時間半程度のコースです。
☆本文中、詳細な地図をGoogleマップで紹介しています。
大沢公民館を出発!六地蔵方向に向かって歩き、上九沢バス停(コンビニ店)
向かいの交差点を入ると、すぐに大沢幼稚園、南山禅師顕彰碑、梅宗寺入口があります。

(1)梅宗寺
⇒ [Googleマップ]
禅宗曹洞宗・山号を巨福山とし、根小屋功雲寺末寺
慶長年間(1569~1615年)梅宗庵が結ばれ、享保8年(1723年)
に梅宗寺と号しました。(安土桃山時代の末期開基)
焼失:明治17年3月、本堂・庫裏・鐘楼など全焼。
再建:本堂は明治28年、平成14年に再建。庫裏は明治29年再建後、昭和58年再建。

(2)持ち上げ観音
境内にあります。
・願事を念じながら観音像を持ち上げる。
・軽く感じたら祈願成就。
・重く感じたら願いを考え直す必要あり。
と伝えられています。
(3)観音堂

上九沢梅宗寺の境内に観音堂があります。昔から近隣近在の信仰を集めています。
観音堂は寺伝によると、宝永7年(1710)に創建されたといわれます。その後、
宝暦5年(1755)に再建立され、昭和16年(1941)に改修されたようです。
平成24年(2012)10月、この観音堂は全面的に再建され、落慶法要が営なまれました。
この観音堂の本尊は木造の聖観世音菩薩です。さらに、堂内には百番観音像として西国33番、
板東33番および秩父34番による百基の浮彫石塔が納められています。その中で、
西国壱番の石像には天明5年(1785)とあります。また、西国20番は千手観音で、
「白子観音」と呼ばれ安産の守り本尊です。

昭和30年頃までは8の付く日が縁日で、出店が並び大変にぎわったそうです。
現在、毎月18日が「観音様の日」で、堂内の百番観音像が拝観可能です。
(参考文献)
①相模原市、『相模原の文化財』。
②服部比呂美・山口千惠子、「梅宗寺百観音石塔調査報告書」、
『相模原市史ノート第6号』、2009
(4)白子観音
西国20番目に白子観音があり、安産の仏として知られています。
(5)南山禅師顕彰碑
梅宗寺の入口・大沢幼稚園の隣にあります。
この碑は南山禅師の遺徳を称えるため会が発足し、市内外の450余名の会員の浄財で
昭和37年12月4日に建碑されたものです。
顕彰碑は根府川石に郷土の彫刻家・笹野恵三氏の手による南山のブロンズ像が配され、
表面に碑文が刻まれています。左には、「天下山水あり、おのおの一方の美をほしいままにす、
衆美松島に帰し天下山水無し」とあり、禅師晩年の詩文です。
【生い立ち】
宝暦6年(1756)上九沢村の名主笹野政右衛門の次男として生れ、上大島の長徳寺で
9歳の時出家しました。南山は幼少より聡明で才能を伸ばすには、当時の農民としては、
僧侶の世界しかないので父の配慮によるものと想像されます。11歳の時に江戸に出て、
東禅寺で修行しました。
明和5年2月14日、仙台藩主伊達重村公が、父宗村の十三回忌法要のため、東禅寺に
詣でた折、南山は重村公にお茶の給仕をしたが、誤って茶碗をくつがえし、公の袴の裾を
汚してしまいました。重村公は怒って手打ちにいたすと刀に擬したが、南山は従容として
首を差しのべました。南山の悪びれない胆力に感じ、かえってこれを許し将来仙台に
迎えることを約束。以来勉学にはげみ諸国を周遊して禅を極めました。
寛政5年38歳の時重村公より、約束通り仙台瑞鳳寺14世の住職として迎えられました。
文化6年54歳の折、京都妙心寺に入山し、朝廷より紫衣(しい)を賜りました。
帰藩後瑞鳳寺・覚範寺の両寺の住職、また伊達公からは顧問格として推重され、
その学徳はあまねく人々に尊敬されました。南山は、天保10年11月8日瑞鳳寺支院・
雄心院にて84歳で天寿を全うし、遺骨は、遺命により松島湾に風葬されたそうです。
梅宗寺墓地を過ぎ、内出地区方向(北西)へ歩くと、上中地区に入ります。

(1)大矢平次左衛門金親公の墓
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上九沢上中地区から北公園に方向に下九沢に抜ける市道があります。坂を少し下ると
鳩川のほとりの竹林の中に、城山合戦の落ち武者、大矢平次左衛門金親公の墓があります。
天正18年(1590)豊臣秀吉小田原攻めの際におきた、城山合戦の落ち武者と
伝えられています。城方の一門の武将であった金親公は、落城のみぎり数人の供を従え
城をのがれて相模川沿いに葉山島を経て川を馬で渡り上大島の「合いの坂]まで来たところ、
待ち伏せていた武田方の軍勢に矢を射かけられ、左目を射抜かれたそうです。
敵の囲みを逃れて、鳩川のほとりまで来て、しばらくは、穴の中に潜んでいたといい、
いまでもその跡があります。
その後、家来とともに世を捨て、百姓になり土着しました。現在の大谷一族は、その後裔
(こうえい)であると伝えられます。碑の裏側には、慶長元年の文字が読めます。
明治維新人名簿調べの際、大矢を大谷と当時の役場で読み違えたため現在にいたっている
と伝えられています。
【ぼた餅刀の由来】
平次左衛門金親公は、とくに甘い物が大好物で、死ぬ時一族を枕辺に呼び寄せ、遺言しました。
「予が愛用していた太刀は余の分身と思え、命日には必ずぼた餅を供えるべし」。
大谷一族は4百年の間、命日には太刀を飾り、ぼた餅を供えて供養しました。
(2)旧笹野家住宅主屋及び長屋門【国登録有形文化財(建造物)】
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平成27年11月17日付け文部科学省告示にて旧笹野家住宅主屋
及び長屋門が国登録有形文化財(建造物)に登録されました!
※現在、非公開で中には入れません。
【旧笹野家住宅主屋】
旧笹野家住宅は、養蚕などを手がけた旧名主の住宅です。近村(江戸末期建築)から
移築(明治2年)した主屋は養蚕農家の特徴を備え、規模形式とも充実した近世民家建築です。
左右に土間を配する長屋門とともに旧家の歴史的景観を形成する住宅です。
【旧笹野家住宅長屋門】
この門は、桁行6.5間(約11.8m)、梁行2間(約3.6m)、軒高12尺
(約3.6m)で、中規模の長屋門です。材質は主に杉を用い、戸口の柱及び扉に
欅材が使われています。軒はセガイという形式で、市内では19世紀に一般化したものです。
屋根は現在トタン葺ですが、当初は茅葺だったと思われます。
注意:外からの見学はできますが、屋敷内に立ち入ることはできません。
(1)八坂神社
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上九沢自治会館横
金毘羅様 御神輿が祭られています。
(2)八坂神社のけやき

相模原市保存樹木
樹種 欅(けやき)
樹齢 約450年
樹高 約35m
樹周り 5m80cm
指定番号 121号
平成14年1月現在

(1)おしゃもじ様
上九沢のある私宅内におしゃもじ様と呼ばれる。石仏があります。建立は、明和七年。
子育て地蔵のようであったが、信仰の変化によって名が変わっていったようです。
子供が病気になったとき願を掛けて奉納してあるおしゃもじを借りてきてご飯を食べさせ、
治るとお礼に新しいおしゃもじを奉納する習わしでした。それから、だれ言うとなく
「おしゃもじ様」と呼ばれるようになりました。

(1)内出の石仏
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内出信号の東側に並んでいる古い石仏では、念仏塔に元禄十一年(1698)とあります。珍しいのは、地神塔で安政二年(1855)の造立です。地神は百姓の神様と言われている所から、内出宮本講中の造立と思われます。
幾度の道路拡幅工事にともない、今の場所に移転したようです。

(2)ちょっと一休み
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県道上溝城山線を、内出信号から北公園方向に向かって歩く途中に、
道端で微笑ましいモニュメントを見つけました。
この石の彫刻は、「ゆめ」という題がつけられていました。
ある会社の入り口にあります。 ちょっと一息ですね。

(1)相模原市立北総合体育館
グリーンの屋根が印象的な北総合体育館は、本格的な弓道場を備えるほか、
一周230メートルのジョギングができる屋内コースや卓球剣道場などがあり
気軽にスポーツが楽しめます。
また、散策やスポーツでお腹がすいたら、軽食を取ることが出来きるレストラン
があります。館内には幼児のための遊具コーナーも備えています。
※詳しくは、大沢散歩・相模原北公園のページをご覧ください。
(2)相模原北公園
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相模原北公園は、下九沢地区に、残された樹林を保全しながら公園全体に植物園的な
雰囲気を持たせるとともに、スポーツ・レクリエーションの場として利用できる総合公園です。
緑豊かな園内は、早春の梅、初夏のアジサイなど、花の名所として市民のみなさんに
親しまれています。
※詳しくは、大沢散歩・相模原北公園のページをご覧ください。

(3)日之森神社
相模原北公園の入り口にある「北公園南側」という信号(交差点)から六地蔵方面に50m程行ったところに、「日之森神社」があります。
昔、内出の先(現)県営大島団地の入り口道路の所、鳩川の源流近くに天王森の神社がありましたが、道路整備に伴い(現)六地蔵の所に移転されました。
それまでの祭りでは、宵宮の日は天王森の神社から神輿と山車がだされ、ここ、日之森神社に泊まり、翌日下九沢団地の所まで巡行して戻りました。日之森神社は祭りのメイン会場でした。当時の道路は砂利道で、山車、神輿を担いでの運行は大変な苦労でしたが、それを吹き飛ばす程エネルギッシュな祭りでした。日之森神社境内は夜店でいっぱいになり子どもたちは店の前でおもちゃを選んで買ってもらう楽しい日でした。
現在は、交通の関係から北公園の入り口の道路を使って祭り・露店が行われており、ここ日之森神社は提灯飾りのみで、喧騒を離れた静かな場所として祭りの夜を演出しています。
北公園の東端から切り通しの「はけ坂」を下ると六地蔵のところに出ます。

(1)下九沢の六地蔵
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現在安置されているところは、その昔橋本と大島方面にも通じる四辻で甲州、山梨県の
商人が久保沢を経て横浜に生糸を運ぶ重要街道でした。この四辻には、六地蔵のほか、
観音菩薩やその他の石仏があつまっているところから、村人の信仰の歴史を石仏に
表しているのではないかと推測されます。建立は、明和2年(1765)江戸時代中期の
代表作的な形とみられます。形態としては、一つの舟形石に六体並べて 彫ったもの、
丸彫のもの、下九沢の六地蔵のように舟形自然石に六体別々に彫ったものもあり、
様々な形をしています。
この周辺が、六地蔵と呼ばれる地名になったように、昔から近郷近在で大変に
信仰が厚く、建立は下中村講中によるものです。
【六地蔵のいわれ】
昔から地蔵とは、さいの河原(地獄と極楽と分かれるところ)で、衆生を救い、
極楽へ行けるよう働いてくれると信ぜられ、広く一般庶民に信仰されました。
仏道には、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道・声聞道・縁覚道・
菩薩道・仏道と十の教えがあり地獄から天までの六道を巡りながら教えを広め
衆生を救うことからその分身を六地蔵として信仰するようになったそうです。
下九沢の六地蔵がどうしてできたか明らかでないが、宝暦から明和にかけての
世相は、幕府の農村政策の失敗がもとで、各地で農民の不満が爆発し、特に
明和2年には、関東で二十万人の農民一揆が起こり極度に疲労した農民を救うために、
信仰に生きがいを求め祈願したのではないかと推測されます。
【下九沢六地蔵の徳本念仏塔】 向かって左側にある天然石が徳本上人供養塔です。
相模原市登録有形民俗文化財
登録年月日 平成16年4月1日
徳本は江戸時代後期に念仏を広めて歩いた僧で、村の念仏講中は徳本の独特の書を求め、
念仏塔を建てました。
相模原市教育委員会
※徳本上人については、史跡めぐり・大島編の長徳寺もご覧ください。
(2)下九沢・八坂神社
⇒ [Googleマップ]
六地蔵のところから、北公園の裏手方向に20m程行ったところに、下九沢八坂神社があります。


【芭蕉の句碑】
「秋深し 隣は何を する人ぞ」 芭蕉
裏側には、建立した西狐(さいこ・下九沢の俳人)が、
「ものうきも 是におさまれ 虫の声」
と自分で詠んでいます。
※西瓜については、史跡めぐり・大島編の長徳寺もご覧ください。
(3)子守観音
赤ん坊を抱いた珍しい観音様のお話。詳しくは、
⇒「大沢のむかしばなし」をご覧ください。
六地蔵から東(方向)に200m程のところ、県道上溝城山線の路地を入ったところにあります。
(1)下九沢の分水池
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昭和22年、相模ダムが竣工。沼本の取水堤から津久井隧道で津久井分水池へ、
さらに相模隧道で下九沢分水池へ通水され(この隧道は鉄道の企画とおなじ)、
ここで横浜と川崎の両市の専用隧道へ分水されます。(この隧道は相模隧道より小規模)。
この両隧道上の題字は、当時の両市長の筆になるものです。
分水池は、直径52m、短径35mの長円形で中央に内径16m、外形に29m、
深さ3.5メートルの二重円槽に入り濾過して外周水路に落下し、隧道に分流します。
当施設は、横浜・川崎両市の等分負担による共有施設です。
着工:昭和16年12月
完成:昭和24年8月
費用:5,414,429円54銭
【余談】
下九沢分水池までの隧道工事に砂利層まで掘削してしまったため、工事の道に当たった
付近の井戸水が枯れてしまいました。特に上大島では軒並み被害を受けました。
横浜水道では、とりあえず県営水道局から水を買い、管で上大島の各戸へ供給しました。
物資不足の折、鉄管のかわりに竹の節をくり抜き代用したという、笑えぬ実話が残っています。
昭和20年5月横浜市は、大空襲を受け、当局は戦災復旧工事を優先させるため工事は
中断されました。戦争中は掘削した分水池へはけ口がないため、水がたまり子どもたちの
格好な遊び場になったそうです。また、米軍艦載機の機関銃掃射をうけたこともあったそうです。
※当工事に伴う応急策工事としての大島臨時水ポンプ場(現・渓松園)については、
史跡めぐり・大島編をご覧ください。
参考文献:
・おおさわ風土記 笹野邦一
おおさわ風土記刊行委員会
・大沢公民館報及び大沢公民館ホームページ
※平成20年12月 大沢ウォッチング資料として大沢の九沢地区に関する、
以上の資料をまとめる。(大沢公民館広報委員)