郷土の文化と史跡を紹介しています

●史跡めぐり(塚場・宮下・作の口編)

 塚場・宮下・作の口地区の散歩コースをご紹介します。この地域は、鳩川の東側に沿って 上溝地区までに至ります。ゆっくり散策してみませんか。大沢の歴史と触れ合ってみてください。 大沢公民館を起点・終点:自然のなかで昼食をとって約3時間程度のコースです。

 ☆本文中、詳細な地図をGoogleマップで紹介しています。


1.九沢学舎跡

 現在の大型ドラッグストア店舗付近になります。
九沢学舎跡
(1)九沢学舎跡  ⇒ [Googleマップ]

 所在 塚場 1738番地
 明治13年3月に創立。九沢小学校は、内出学舎と九明学舎が統合し現在の大沢団地前に33坪の 学舎が落成しました。建築費は、当時のお金で580円でした。明治35年4月、大島小学校と 九沢小学校とが、合併し大沢小学校になりました。
 ・詳しくは大沢散歩の大島編をご覧ください。


このページの先頭へ

2.子育て地蔵(塚場の疱瘡神)

小川石油スタンド坂上・通称「新道坂」と「神明坂」の分岐点に石仏が2体あります。
子育て地蔵
(1)子育て地蔵(塚場の疱瘡神)  ⇒ [Googleマップ]

 地元では、この石仏を子育て地蔵とか疱瘡神とよんでいます。台座がもう一つあるので以前は 三体あったと思われます。この建立の年代は、風化のために年号不詳。
 その昔、疱瘡(天然痘)を防ぐため、種痘が良くつくようにお地蔵さまにお願いしました。 また、風邪の流行の季節ともなると願を掛ける親たちでにぎわったそうです。全快すると供物として、 さん俵(俵の頭の押え)に半紙に赤飯を載せ真中に赤白の弊束をたてて、四隅に紐をつるし 真中で縛ります。その他に、子どもの好きな飴玉やだんご、果物を奉納しました。はしかや風邪の 季節にもなると、たくさんの供物で、その様は川に浮かんだ帆かけ船の様であったといいます。 いつの間にか、子育て地蔵との名がついたということです。


坂を下り小川石油スタンド、塚場信号を過ぎ、県道脇に塚場自治会館があります。

(2)日枝神社跡(塚場自治会館裏)  ⇒ [Googleマップ]
日枝神社
 祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)・大巳貫神(おおなむちのかみ)
 御嶽神社裏に日枝神社があります。この神社は山王社ともよばれ、内出(塚場)の鎮守で、 現在の自治会館の場所にありました。明治43年、政府通達による神社統合で御嶽神社に 合祀されました。神社前に馬持中の燈籠があります。
 塚場自治会館の裏地の北側に日枝神社祠跡があります。この日枝神社の歴史を残すために 有志にて建碑したものです。碑には、次のように記載されています。
 「当地は日枝神社祠跡で、その起源はあきらかではないが、天保三年編述された 『新編相模国風土記稿』の一節に、金泉寺持の山王社と記されている。明治四十一年当地より、 御嶽神社に遷座(せんざ)す。古来日枝神社は山王権現といわれ、天台信仰に結ばれ村に 鎮守の神として尊敬された。=途中省略=」◎山王信仰・・・近江の国「滋賀県」比叡山の 東麓に鎮座する日吉神社のことで、山王の名は、平安時代からです。


このページの先頭へ

3.瘡守稲荷

塚場自治会館から道を挟んで下九沢派出所があります。下九沢派出所脇道を奥に入った場所に、 瘡守稲荷大明神があります。
瘡守稲荷
(1)瘡守稲荷  ⇒ [Googleマップ]

 創立 寛政1789~1800年ころと推察されます。
(中にある願書から、天保6年1835年が存在。)
 この瘡守稲荷設置には、役所が正式に認めた公文書が残されて、保存されています。
 幕末から現在に至るまで、大変信仰が厚く参詣の人がお参りしていました。主に病気平癒や 家内安全、入学祈願などまであり、まず土のだんごを年の数だけ供え(年配の方は端数だけ)、 目的が叶えられると、米のだんごを上げたそうです。戦争中になると、出征兵士の武運長久を 祈願するものも多くありました。


県道方向に戻り、塚場自治会館を下った左側のあたりに出ます。
夜泣き地蔵
(2)夜泣き地蔵  ⇒ [Googleマップ]

 塚場自治会館を下り左側のあたり、古川さん宅地内に石仏が3体並んでいます。最近新しい 祠が建てられました。石仏の年代は、風化されてしまい不明です。いずれにしても江戸時代中期の 頃と推定されます。
 昔は夜泣きする子が多く、家人が困りお地蔵さまに夜泣きが 治りますように願を掛け日参すると、ご利益があり自然に治ったそうです。お礼として、 子どもが好む色ものの前垂れを奉納しました。夜泣き地蔵とは、子どもの成長と幸せを 祈った子育て地蔵のひとつで、村人たちの信仰が厚かったそうです。


このページの先頭へ

4.塚場の庚申塔

九沢橋信号の交差点で、三角に囲まれたところに庚申塔があります。
庚申塔
(1)塚場の庚申塔  ⇒ [Googleマップ]

 塚場のシンボルは、大きな石塔の庚申塔です。県道小野相模原線並びに上溝城山線改修 拡幅工事のために現在地に移されました。元の場所は、八木屋商店前にあり、その昔武州 (東京都)大山街道と甲州(山梨県)久保沢街道の交差地点にありました。
 昭和5年ころ、県道拡幅工事のため北側に移された際に、古刀を発掘したという実話が あります。永禄12年北条勢と武田勢が戦った三増峠(みませとうげ)の古戦場がありますが、 その時この付近でも小さな合戦があり、討ち死にした侍を村人が葬った塚との伝説もあります。
 庚申塔の建立は、安永4年9月(1775年)のことですが、塚はそれ以前からありました。 祭神は、庚申で60年に一回廻ってくる、かのえ申のことをいいます。両脇に2体の石仏が ありますが、1体は出羽三山供養塔です。寛政7年に下九沢村と田名村葛輪(くずわ)の 講中が建てたもので、あとの1体は風化して分かりません。昭和5年の移転の際に御神楽を 奉納し、昭和46年1月26日の移転の時も自治会では地鎮祭を行い御神楽を奉納しました。


秋葉山供養塔 (2)秋葉山供養塔  ⇒ [Googleマップ]

 九沢橋信号を作の口方向に少し行った路地を入り、塚場の東内出にある私邸に秋葉山の 献燈があります。1m60㎝もある大きな燈籠があります。正面には「奉納秋葉山大権現石檠」 とあり、寛政6年(1794年)の造立です。
 一般に秋葉山供養塔は、火防の神として信仰を受け正式には秋葉山大権現と呼んでいます。 この大権現は静岡県周智郡春野町にあり、山上近くに秋葉寺があります。その本堂に祀られて いる三尺坊は、火防鎮護の神として知られ、毎年12月15・16日に行われる秋葉の火祭りは、 近郷近在庶民の信仰の祭りとなっています。
 大沢には、秋葉山供養塔が5基建立されています。そのなかで特に古清水にある私邸の供養塔は、 今でも住民が交替でお燈明を上げて火防を祈願しています。
 塚場には、昔から家々を廻る横23㎝・楯37cm位の煤けた真っ黒の木の箱があり、 その箱が火防の神又は秋葉山と呼ばれていました。おそらく寛政年間のものと推察されます。


このページの先頭へ

5.御嶽神社(蔵王大権現)

 九沢橋信号を作の口方向に少し行った路地を入り、200m程奥に入ったところに 御嶽神社があります。
御嶽神社
(1)御嶽神社(蔵王大権現)  ⇒ [Googleマップ]

 御嶽神社(蔵王大権現)
 下九沢1336番地
 創 建 応永年間 (約600年前)
 祭 神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
 御神体 木造本地仏 釈迦
 由 来 金泉寺を開山した原秀が、金泉寺の鬼門に御嶽神社を勧請。
 例 祭 8月26日

大杉跡 (2)御嶽神社の大杉(御神木)

 樹高 40m
 幹回り 5m70㎝
 昭和33年相模原市 天然記念物第1号の指定を受ける。
 社を一回りすると、北の端に大きな杉の切り株が目につきます。これが有名なかつての 御神木で、天保年間(1830~42年)に編述された「新編相模国風土記稿」にも紹介 されました。
 昔より、神域はうっそうとした森でありましたが、ひと際群を抜いてそびえ、 近隣のどこからでも見えて、御嶽神社が鎮座した応永年間(1394~1428年)より 600年あまり下九沢村のシンボルとして氏子から崇敬され、大切に保存されて来ましたが、 急に樹勢が衰え枯死となり、47年4月伐採の運命となりました。
獅子舞の碑
(3)獅子舞の碑

 昭和40年、獅子保存会と獅子連、獅子舞永久保存会を祈念して、建碑。
 衣装と道具は、獅子舞保存会で保管されています。
 御嶽の獅子舞は、1821年文政4年8月、時の名主榎本重蔵氏より獅子世話人 (小川中三郎以下5名)が伝授の写しをもらって正式に始まったとされています。 当時は伝授書がないと正式には舞ってはいけない規則にとなっているところから、 文政4年より更に10年から20年前の初めころではないかと推察されます。

 この獅子舞は、神奈川県の指定重要文化財・無形文化財(郷土芸能)となっています。
 詳しくは⇒ ⇒「郷土の文化」をご覧ください。

(4)蔵王池の燈籠(とうろう)

 御嶽神社の一番古い燈籠は蔵王池のところにある燈籠です。
 高さ1m80㎝。表の真ん中に、奉納蔵王大権現。右側に、宝暦8年(1787年・ 南山禅師が生まれた頃)。左側に、7月吉日。横には内出三組若衆中(現在の塚場)念仏講中、 願主順西とあります。
 ≪順西とは、金泉寺に関係がある法師か、あるいは住職ではと思われます。≫
大燈籠
(5)拝殿前の大燈籠

 高さ3メートル。胴部分真中に御神塔。右横に寛政十戊午歳。左横に七月吉日。 下台座に若者講中。横に内出三組とあります。
 本体傘部分がかなり傷んでいますが、安政の大地震か関東大震災でたおれたのではないかと 推測されます。この燈籠は、御嶽神社のシンボル的なもので下九沢村氏子の象徴的のものでした。

 《七月吉日の造立年月日・・・当時の蔵王権現の祭礼は、旧暦で7月21日でした。》
 《寛政年代・・江戸幕府の老中松平定信による寛政の改革が行われ、下九沢村作ノ口では、 近藤内蔵之助長裕が小泉茂兵衛の所に逗留し、天然理心流の道場を開いた時代でした。》

馬持中の燈籠

(6)馬持中(うまもちちゅう)の燈籠

 高さ2m。正面土台に、奉献。台座に馬持中。胴右側に、慶応元丑(うし)年。 左に蔵王大権現、愛暑甘露日とあります。
 なお、寄進者は内出を中心に 山谷・寺下・田名分であり、その中に「山本作左衛門の名が読めます。


このページの先頭へ

6.金泉寺

 御嶽神社から県道に戻る方向に、金泉寺があります。
金泉寺
(1)金泉寺  ⇒ [Googleマップ]

 宗派: 真言宗 新義派
 所在: 下九沢(宮下)652番地
 由来: 山号を九沢山と号し、高尾山薬王院末寺
 脇立本尊: 日光菩薩
 由緒: 弘安3年武蔵野国、滝口小次郎創建。金泉庵と称す。
 開山: 応永9年2月 原秀(当時の住職)
 再建: 嘉永4年


山本作左衛門の碑
(2)山本作左衛門の碑

 所在: 金泉寺境内
 建碑: 明治23年金泉寺前県道に建碑。
 移設: 県道拡張にともない現地に移設。
 来歴: 山本作左衛門は、自由民権派(当時の自由党・党首は板垣退助)の県会議員で、 明治13年国会開設言書を、県下九郡559ケ村22,550名の筆頭総代として、 元老員議長大木喬仼に提出しました。


(3)山本作左衛門の墓

 所在: 宮下の私宅
 辞世の句:「惜しむべき ものはあれど 玉の緒の 絶えて のちの名こそ 惜しけり」
      「いくたびか 思いなおして 惜しむなん 国にもかけぬ 命なりせば」
 18歳で家を継ぎ名主となり、29歳で県会議員となる。39歳で病没。


宮下の弁才天
(4)宮下の弁才天

 金泉寺の県道を隔てたすぐ下、鳩側のほとりのある私邸に弁才天を祀った祠があります。 この場所は昔から宮下、塚場、上溝、山谷地区住民の貴重な生活用水源地として知られ、 今でも清水が湧き出て当時の生活を思わせます。この弁才天は、江の島の弁才天を勧請 (かんじょう)したものといわれています。


このページの先頭へ

7.宮下地区

 県道上溝城山線の路地を入ったところにあります。


(1)子持ち石の由来

 或る日、知人に招かれて門人数人を従え江の島にへ旅をした時のことです。この島に、 子持ち石を祀った石塚があり、子宝に恵まれない人は、塚にお参りすると子宝を得られる とのことで、島はもとより近郷で大層信仰が厚かったそうです。この子持ち石塚の分身を、 剣の極意で切り取って、持ち帰ったのが、小泉家に秘蔵される子持石と伝えられます。
 その後、この子持ち石を抱くと子宝に授かるとの風評がたち、近郷近在で希望者が相次ぎ 幕末から非常に信仰がありました。しかし当主が家人に対し、必見無用と厳しい家訓にしたため、 信者が抱きに来ても、家人は部屋に入れず代々石を見たことがありませんでした。 それから200年後の或る日、当主立ち会いのもとに検分を行ったところ、石の直径は 15センチぐらいでずっしりとした真っ黒いまん丸い形をしていて、小さい二重の座布団の上に 30センチ四方の桐の箱に納められていました。海辺より持ち帰ったために、塩分をいつも 持っていて、信者がその湿気を払う程、ご利益があったそうです。
芭蕉の句碑
(2)芭蕉の句碑  ⇒ [Googleマップ]

 下九沢 小泉氏の敷地内  建碑 小泉茂兵衛 《利角》と呼ばれる俳人     「陽炎や 柴古の原の うす曇」

(3)近藤道場の跡と子持石  ⇒ [Googleマップ]
近藤道場の跡
 国道129号、陸橋下の作の口に屋号を黒門と呼ばれる旧家がありました。 この家に代々子持ち石が秘蔵されていました。
寛政の初めころ当主の6代前に天然理心流開祖近藤内蔵之助の高弟で、小泉茂兵衛幸隆という 剣の達人がいて道場を開き近在の若者たちに剣術を教えていました。茂兵衛は下九沢村の 名主を務め、苗字帯刀を許される豪農で、八王子千人同心の組頭を合わせ務め、 俳句の道にも通じ、利角と称して句碑を建立しました。



このページの先頭へ

8.照手姫の碑

 県道上溝城山線の路地を入ったところにあります。

照手姫の碑
(1)照手姫の碑  ⇒ [Googleマップ]
所在: 下九沢394番地(現在の横山1丁目)
由来: 照手姫は、小栗判官満重の説話の主で、小野小町と並んで絶世の美人であった。
碑文には、次の詞が刻まれています。
《この地は、姥川の水源地として、常に清水こんこんと湧きいずる泉であった。里、 俗称するところによれば、かつては、横山将監(しょうげん)の娘照手姫の産湯に使い、 長じては、朝な夕なにその玉の肌を磨いたともいう・・・》
照手姫伝承地
(2)照手姫伝説伝承地の立札
・相模原市登録史跡
・照手姫伝説伝承地
・照手姫は、歌舞伎などで広く知られた「小栗判官物」のヒロインです。市域では、 横山段丘崖を中心に、自然豊かな姥沢地区のほか、姥川源流地や日金沢、横山台の榎神社 (照手姫をまつる)、下溝の古山地区とその周辺に、その伝承が残されています。
・登録年月日 平成13年4月1日
・相模原市教育員会


このページの先頭へ

9.岩倉の手玉石

 県道上溝城山線コンビニ店の道路反対側の路地を入ったところにあります。

手玉石
(1)岩倉の手玉石  ⇒ [Googleマップ]
 四ッ谷児童館の所に、十王堂というお堂があり、その前に長方形の大きな石があります。 これを岩倉の手玉石といいます。
 この石の由来は、むかし近くに「岩倉」という お相撲さんが住んでおり、たいそう力持ちで、この石を手玉にとったいわれています。
 なお、作の口交差点のガソリンスタンド裏側に、力士岩倉の墓石があります。

十王堂


(2)十王堂
 安産地蔵尊が祀られています。


このページの先頭へ

10.四ツ谷地区

 県道上溝城山線の路地を入ったところにあります。

(1)育みの里  ⇒ [Googleマップ]
育みの里
 相模原市上溝四ツ谷土地区画整理事業
 完成記念
 「育みの里」
 相模原市長 舘盛静光書
 (当時)

(2)子育て地蔵と夜泣き地蔵
地蔵尊
地蔵尊のいわれ
此に安置されている二体の地蔵尊は、子育て地蔵尊と夜泣き地蔵尊(俗称 泣き地蔵)です。
子供の夜泣きに悩む両親が、よだれ掛に子供の名前を書き奉納すると。夜泣きがやんで健康に 育つと信じられております。
左、子育て地蔵 建立 正徳2年(1712年)
  施主 相州山谷村 七人衆
右、夜泣き地蔵 建立 明和四年(1767年)
  願主 武州江戸駒込浅木田町 川元仁兵衛
区画整理事業を期に老朽化した社殿を数米西側に移設し、この地の子供達の心身健やかな 成長を願い新築建立した。
平成九年二月吉日
上溝四ツ谷土地区画整理組合
地蔵尊
【四ッ谷の子育て地蔵】
 神奈川新聞平成8年8月3日版の報道に、四ッ谷地区の区画整理に伴い子育て地蔵と 夜泣き地蔵の移転の記事が掲載されました。
 地蔵は2体ありどちらが子育てか、夜泣きか分かりませんでした。新しい祠が完成し 移転する際に調べてみると、首が欠損した方が、正徳2年(1712年)山谷村七人衆 建立とあり、もう一体は明和4年(1767年)願主武州江戸駒込浅木田町川元仁兵衛と ありました。山谷村の方が子育て地蔵で、あとの一体は子を幼くしてなくした両親が 子どもを思い出して夜泣き地蔵を建立したのではと推測しています。平成9年3月9日の 区画整理事業の完成式で報告披露されました。首が欠損していた地蔵も見つかり 修復されています。


このページの先頭へ

参考文献:
 ・おおさわ風土記    笹野邦一
             おおさわ風土記刊行委員会
 ・大沢公民館報及び大沢公民館ホームページ

 ※平成21年4月 大沢ウォッチング資料として大沢の九沢地区に関する、 以上の資料をまとめる。(大沢公民館広報委員)


このページの先頭へ