郷土の文化と史跡を紹介しています

●史跡めぐり(常盤・古清水)編

 常盤・古清水地区の散歩コースをご紹介します。距離はおよそ2万歩、お弁当を持って、 ゆっくり散策してみませんか。大沢の歴史と触れ合ってみてください。大沢公民館を起点・終点: 自然のなかで昼食をとって約2時間半程度のコースです。

 ☆本文中、詳細な地図をGoogleマップで紹介しています。


1.日々神社

日々神社
(1)日々神社  ⇒ [Googleマップ]

所在地:大島2248
創 立:年季不詳
 保元2年、寛文5年、元禄11年、明治7年4月に再興されました。


淤能基呂(おのころ)の松跡
(2)淤能基呂(おのころ)の松

 源頼朝が平家に追われ伊豆に流された保元2年、10歳の時に植えたとも言われ、 昭和41年9月26日台風で倒木し、その跡が保存されています。


保存樹木・くすのき
(3)地名「常盤」の由来

 淤能基呂の松の別名を常盤木(ときわぎ・常緑樹)といい、明治時代の地区の先覚者が 常盤木のように、すくすくと伸びていつまでも青々と若々しく発展するようにと地区全体を 「常盤」と命名したことから、字として呼ばれるようになったと伝えられています。


(4)名木(神社境内)

 くすの木(登録番号:107号)樹齢100年以上(右写真)
 たぶの木(登録番号:106号)樹齢約800年


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2.古清水地区

古清水の石棒
(1)古清水の石棒  ⇒ [Googleマップ]

 八坂神社の脇、講中の稲荷様の中に二体並んで祭られています。
この石棒には、次のような話があります。
 当麻街道へ、横浜水道の水道管敷設工事がおこなわれた昭和5年10月頃、田名清水原の 野崎金吾氏の土地から出土したそうです。その形容は市内でも最大級のものと推察されます。 調べてみると、古代(縄文時代)の石棒である。石棒には、陰石と陽石があり、男女を表します。 地母神にもとづく信仰で、竪穴式住居跡にはしばしば発見されます。
わざわいを防ぐための魔除けとして、まじないが行われたと伝えられます。江戸時代に入ると 村々の辻に悪魔を払う意味で、道祖神として祀られ、また旅人の道しるべとしても利用されて、 国土安全・五穀豊穣・家内安全を祈願しました。この石棒は大沢小学校から古清水など点々と 移されましたが、現在の場所に安置されました。その他にもこの近在には石棒が、 私邸にて保存されています。


秋葉山供養塔
(2)古清水の秋葉山供養塔  ⇒ [Googleマップ]

 大沢には、秋葉山供養塔が5基建立されています。そのなかで特に古清水にある私邸の 供養塔は、今でも住民が交替でお燈明を上げて火防を祈願しています。 塚場には、昔から家々を廻る横23㎝・楯37cm位の煤けた真っ黒の木の箱があり、 その箱が火防の神又は秋葉山と呼ばれていました。おそらく寛政年間のものと推察されます。


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3.清岩寺

清岩寺
(1)清岩寺  ⇒ [Googleマップ]

 宗派:禅宗 臨済宗 白雲山と称す。
 大本山:鎌倉 建長寺末寺
 本尊:弥陀如来
 由緒:花園天皇 文保元年開山 仏燈大光国師


やつぼ
(2)古清水上組のヤツボ  ⇒ [Googleマップ]

「幻の古清水上組のヤツボを再発見!」
 昔から相模原は水が少なく貴重でした。大島地区(北は上大島堺松から、南は古清水まで) や隣接する田名地区(堀之内・滝・陽原・半在家・望地)では、水道がない時代に井戸水や ヤツボという相模川に面した段丘崖から湧き出す水を溜めた壺状のヤツボを生活用水として 活用していました。
 『昭和51年文化財展資料』によると、昭和51年頃には、大島11件、田名7件の全体で 約18ケ所のヤツボが伝承されていました。水道が普及してからも地域の人々は、 これら自然に湧き出すヤツボの水を大切に守り、洗い物などに使用してきました。 (上のヤツボでは野菜を洗い、下のヤツボでは洗濯などもしたと言います)
ヤツボ  しかし、時代の流れの中でこれらのヤツボは埋められ、コンクリートでふさがれ、 いつしか忘れさられました。ところが、ヤツボの水は雨水がテフラ層や段丘礫層で ろ過されるので清らかで、水温も16℃前後と冬 温かく、夏 冷たく感じられる ところから今でも残っている場所があります。この内、「水場のヤツボ」と 「中ノ郷のヤツボ」は平成18年に相模原市登録史跡の文化財になりました。 また、弁天様が祀られた洞窟状の山口(H)宅ヤツボでは、夏にはスイカやビールを 冷やしたり、ポンプで上に揚げて畑の水まきや靴を洗うのに使用されています。 また、田名地区においてヤツボの水を池とし魚を育てている家を見ました。
階段入口付近  今回、再発見した"古清水上組のヤツボ"ですが、『昭和51年文化財展資料』 では"山口(K)氏宅下"と呼称され、『相模川水の旅』」では"平本家の 裏"と記載しています。再発見出来たのは、偶然にこの神沢の坂から清岩寺にかけて 道路工事があり、斜面緑地の竹藪が取り除かれた2010年6~7月頃に一瞬、上の道路から このヤツボが見られました。ヤツボの位置は斜面緑地の中央より上方にあり、幅 約5m ・奥行 約4mと規模的には一番大きく、石の囲いをはじめ保存状態も良好です。 深さ約40cmで、透明度も高く、夏の水温は約16℃です。魚やカエルなどは棲んで いませんでした。現在、今年育った竹に覆われ、再びヤツボの姿が見えにくくなり、 幻のヤツボとなりました。
階段中央から下側 《ヤツボの語源》
 『柳田國男全集20』地名の研究を要約すると、「関東の「何ヶ谷戸」である。~谷を ヤツというのはもちろん、アイヌ語のヤチすなわち湿地が起こりで、現に常陸でも祖洳 (そじょ)の地をヤチ・ヤチッボ、あるいはヤチッペなどと呼び(茨城県方言集覧)、 会津でも下湿の地をヤチと言い(新編風土記)、江戸附近では草茂り水ある所をヤといい (俚言集覧)、佐渡でも低地水多き所をヤチ(谷地)またはフケと呼び(佐渡方言集)~。 従って、ヤトもまたヤツからの再転訛か~。」(注1)より、一つ目は茨城県のヤチッボと 発音が似ているところから、祖洳(そじょ)の地つまり湿地から来ているのかと思います。 二つ目はヤチ(湿地・谷地)のツボ(壷)が縮まってヤツボになったのかと推測します。 ちなみに、"水場のヤツボ"にある御神水と書かれた石碑に"水場ヶ谷"と付記されています。 ここは、その昔 谷だったわけです。   以上
(引用文献)注1.柳田國男著『柳田國男全集20』筑摩書房、1990年7月、234~235頁。
(参考文献)  ・相模原博物館編『大島地区の自然と文化』平成11年3月。
        ・文化財展実行委員会編『昭和51年文化財展資料』昭和51年11月。
        ・川とみず文化研究会編『相模川水の旅』1996年7月。

※当ホームページ22年9月~11月掲載 こぼれ話 担当(駿河)記事より


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4.神澤不動尊

神沢不動尊
(1)神澤不動尊  ⇒ [Googleマップ]

 創建:不動尊は上大島長徳寺・三森五堂のなかにあり、 天文5年庚(かのえ)申(さる)1536年
 焼失:昭和53年7月31日不審火
 再建:寛政2年1790年・昭和56年3月

 不動明王は、病気平癒、安産、災害を未然に防ぎ人々に幸福をもたらす仏として広く 庶民より信仰され、不動講として講中も生まれました。3月28日が不動様の縁日で、 当日は余興もあり大変にぎわう一日でした。
 境内の二基ある石燈籠は胴の部分が60センチで、献燈者は、右左共に大貫又右衛門の 名が読めます。この人は、大島村または長徳寺の有力な大檀家であったと想像されます。 また、倶利伽羅不動造立も同じ人物「大貫又右衛門」によります。
神沢の芭蕉句碑

【句碑】
 自然石に芭蕉の句が刻まれています。「しばらくは 花の上なる 月夜哉」
【弁才天】
 池の辺には、弁才天が祀られていて、江の島の弁才天を勧請したと伝えられます。


倶利伽羅不動
(2)倶利伽羅不動

 倶利伽羅不動は、非常に珍しく市内では、常盤と古清水の2箇所のみです。倶利伽羅竜が、 剣にまとう形が不動明王の象徴であるところから、この名が起こったといわれ、造立の目的は、 滝口や清水の湧出する水辺に水神として祀られました。特に農村では、水車小屋や田んぼの 水量を守るため非常に信仰が厚く、その像容は、剣に四足をからめて巻きつき、 まさに飲もうとするいかめしいものです。

 神澤不動尊のお堂に安置されている倶利迦羅不動は、元は弁天池にあったようです。


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5.水場

道祖神
(1)双体道祖神(そうたいどうそじん)  ⇒ [Googleマップ]

 昔、村々の入口に、悪神疫病を防ぐことを願って建てられ、他の神々のように社を 持たないのが特徴。人間の依頼を鵜のみにしてあらゆる要求や祈願を受け入れるとされ、 大変お人よしの神様であったらしい。
 古清水バス停先の八ツ壺へ降りる坂近くに双体道祖神がある。男と女(夫婦)が よりそっているほほえましい姿が彫ってあるが、現在では風化が進みはっきりと 見分けがつかなくなってきています。(三体のうち中央)


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6.八ッ壺

八ッ壺
(1)水場の八ッ壺  ⇒ [Googleマップ]

 昔、相模川は深い谷をなしていて、水汲みには不便で、大島に住み着いた古代人 (縄文時代)は、段丘に湧き出る清水を生活用水として利用し、八箇所有るところから、 八ッ壺(やつぼ)と呼ぶようになりました。長い年月の開発で荒廃し、今湧き出て いるのを見ることが出来る場所の一つとなりました。 (この清水は、日々神社の御神水として知られています。)


倶利伽羅不動
(2)倶利伽羅不動(くりからふどう)

 倶利伽羅不動は、非常に珍しく市内では、常盤と古清水の2箇所のみです。倶利伽羅竜が、 剣にまとう形が不動明王の象徴であるところから、この名が起こったといわれ、造立の目的は、 滝口や清水の湧出する水辺に水神として祀られました。特に農村では、水車小屋や田んぼの 水量を守るため非常に信仰が厚く、その像容は、剣に四足をからめて巻きつき、まさに 飲もうとするいかめしいものです。

 昭和30年まで、鏡の滝の下で水車小屋があり、そのとき水神として祀ってあったものです。 移転の際、八ッ壺に安置し、造立の年号は不明。その後信者により社が奉納されました。

 さらに詳しい記事があります。詳しくは、 ⇒「大沢のむかしばなし」をご覧ください。



鏡の滝 (3)鏡の滝

 現在の水量は多くはないが、神沢不動堂付近の北方に鏡の滝があります。村社日々神社の 9月17日の祭礼には、神輿がこの滝に渡御することになっていました。(滝降の神事と呼ぶ) 伝承によると、ある年の神事の際この滝から円形で直径三寸九分、裏には鳥蝶の模様が ある一枚の鏡が出てきました。人々は滝を鏡の滝と呼び、付近の土地を神沢と称する ようになりました。

 この鏡には、さらに伝承があります。詳しくは、 ⇒「大沢のむかしばなし」をご覧ください。


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7.常盤

地蔵菩薩様
(1)常盤の地蔵菩薩様

 ちょっと寄り道してみませんか。
 今から356年前(1652年 承応元年)の造立で、旧市域においては最も古く、後西天皇の御世、 第4代将軍・徳川家綱の時代になります。
 元禄文化が栄え、江戸においては振袖火事の 5年前になり人気テレビドラマの水戸黄門様が活躍していたころです。逆修と刻まれていますから、 生前に死後の自分の仏事をしたようです。村人は現世利益や大地の恵みや子どもの冥福を 祈ったようです。この地蔵菩薩様は、石質の状態がよいために風雨にさらされながらも あまり風化せず、いまでも穏やかな姿が見られます。
 所在地:大島の信号(通称:榎戸)を城山方面へ向かって、すぐに左折した大島2818番地 道前の住宅地の道沿いにあります。



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8.漸進社跡

漸進社
(1)漸進社跡  ⇒ [Googleマップ]

 榎戸バス停(大島信号)西側のあたり。
 漸進社は明治19年、地区の16名の同志が創立しました。日本最初の農民資本による 生糸製糸会社で、大正の初め頃は、全国有数の会社に成長しました。相模原市内はもとより 愛甲、津久井、東京都南多摩の農民が製糸を委託して、揚返し(あげがえし)をした上で 荷を一定にし、共販し有利に販売していました。最盛期には、工女が100人位いて、 近隣の子女は挙げて勤めに出ました。しかし漸進社は、近代の波に乗り切れず、 昭和12年閉鎖になりました。(写真資料:おおさわ風土記より)



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9.法性寺

法性寺
(1)法性寺(ほっしょうじ)  ⇒ [Googleマップ]

所在地:大島字中ノ郷 3139
焼 失:元禄6年12月
再 建:元禄8年12月
 〃 :享保7年2月1日
 〃 :享保11年
 〃 :明治22年12月25日
 〃 :明治28年3月


刀匠の碑 (2)刀匠(とうしょう)の碑(藤原泰近の碑)

所在地:法性寺境内
 郷土の刀匠 大島仙次郎、藤原泰近の石碑が2つあります。その当時、大島近郷には、 鍛冶職が4家あり、その代表が藤原泰近でした。大島に鍛冶場を設けて作刀をしていました。

 《藤原泰近(やすちか)》刀匠、吟龍子(ぎんりゅうし)藤原泰近 文政10年相州高座郡 大島村に生まれる。幼名を萩原仙次郎 後年に源右衛門と改称す。幕末の巨匠 細川正義門下 (八王子)で、小比企の住人湊江介正近に学び大島で作刀す。(左側の石碑)


(3)おはんと清吉のものがたり

 詳しくは、 ⇒「大沢のむかしばなし」をご覧ください。

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参考文献:
 ・相模原歴史人名辞典  座間美都治
 ・資料との出会い物語    〃
 ・相模原の歴史       〃
 ・相模原民話伝説集     〃
 ・さがみはらの地名   相模原市教育委員会
 ・村をつないだ道・坂・川  
 ・さがみはら石仏夜話  つちのえ会編
 ・おおさわ風土記    笹野邦一
             おおさわ風土記刊行委員会
 ・大沢公民館報及び大沢公民館ホームページ

 ※平成19年3月 大沢公民館主催 大沢ウォッチング資料として大沢の大島地区に関する、 以上の資料をまとめる。文中に一部本文より記載。(大沢公民館広報委員)

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