"生涯学習ふれあいの場"  清新公民館更新日:2020/08/01

清新地区の歴史

 

◇ 開拓者の苦難、清新地区の歴史と変遷・・・

清新地区は、江戸時代から始まった開拓者による苦難の歴史があり現在に至っております/

ここでは、清新の由来、史跡、小中学校建設、保育園、子どもセンターなどを紹介していますので、清新地区を再発見して頂ければ幸いです。

清新のしるべ清新地区の土地は、近隣の村々の入会地(共同の草刈場)となっていたが、天保14年(1843年)に、幕府の開墾政策と代官江川太郎左衛門の勧奨もあって、小山村の原清兵衛が私財を投入して開墾に着手したのが始まりでした。

当初の入植者は49戸で、小山村や田名村、武州多摩・入間郡の二・三男が多く、比丘口、矢懸、横山、原組、大河原の五組に分かれての入植でした。

井戸も数軒に一つしかなく、深さは百尺と言われたように、30m以上もあり水汲みが大変な重労働だったようです。

このように高台で水がなく痩せ地のために、農作物の収穫は極度に少なく、そのために生活は困窮を極めたようです。

家屋は大体が四間二間(7.2m×3.6m)で、背後に雑事畑として竹林を植えました。

なお、下の農家の写真は当時の母屋で現存するものは、この一戸のみで清新二丁目の大谷仁作氏の庭先にあり今はトタン葺きになっています。

この家屋は相模原市文化財の指定を受けており、見学することもできます。

最初の作付けは、蕎麦、粟、稗などで、麦類の反収も二俵位しかなく、収穫が見込めないので陸稲はほとんど作らなかったとのことです。

その後、幕府による検地が行われ、205町歩余と確定され、幕府の意向により「清兵衛新田」と称することになりました。

検地後は年貢を納めることになるが、そのためには収穫量を上げる必要があり、金肥に頼らざるを得ず借金がかさむことになりました。

その支払いに四苦八苦し、働けど働けど追いつかない絶望感から、賭博に走ったり、脱落して出身村へ帰ったりする者も多く、金策のために土地を質に入れて小作人になる人もありました。 大谷家

開墾30年後の明治5年(1872年)には、当初入植49戸のうち戸籍に名を残している者は24名に過ぎず、戸籍から名を消した25名中、死亡が18名、また全体で妻の死亡が17名にも及んでいました。

この清兵衛新田の開墾事業が、いかに辛苦に満ちたものであったかが想像できます。


天保14年に村の鎮守の神として、武蔵国南多摩郡上檪田(かみくぬぎだ)村の村社氷川神社より御分霊を奉戴しました。当時はお社もなく「いずなさま」と呼ばれて、2坪ほどの小さなホコラの中にあったと云います。

開拓者たちの心のよりどころとして崇められ、徐々に神殿なども作られ、明治45年には、清新の象徴ともいうべき『開墾記念碑』が氷川神社の境内に立てられました。

現在の西門商店街市役所通りまでが清兵衛新田で、この神社のお祭りは唯一の楽しみであったようです。


挿絵は「清新のしるべ」の表紙で、雁が大山に飛んでいく風景と粟の図です。
写真は入植当時の農家(読売新聞横浜支局提供です)

◇ 明治から戦前・軍都計画が進行して

明治時代に入ると、養蚕を中心にして農家の現金収入が増え多少のゆとりが生まれましたが、生糸市場に左右され苦しい時期が続きました。

鉄道の開設などで交通網は整備されていきましたが、昭和10年代に入り陸軍による軍都計画が進行し、相模原は大きく変遷しました。

清兵衛新田では、開拓当初から陸稲、麦類、サツマイモを主とした畑作と、養蚕が行われ、こういった農業経営が戦後の30年代まで続いた。

特に明治中期以降は、現金収入を得るために各農家で養蚕が盛んになり、明治25年の統計では相原村の農家の81%が養蚕を営んでいた。

大正12年の相原旭尋常小学校(旭小学校100年史より)収穫した繭から主に女性が「糸とり」をして、生糸を上溝の市場で販売した。

明治・大正期の農家に嫁ぐ女性にとって、糸とりが上手にできることが嫁入りの資格の一つとさえ言われた。

第一次大戦後の好況期には、養蚕の黄金時代が到来し、貧困にあえいでいた農家にも経済的に多少のゆとりが生まれた。しかし、昭和5~6年頃の世界的な経済恐慌により、生糸・繭の価格が全盛期の10~20分の1に暴落し、その後も、繭価に一喜一憂する生活が続いた。冠婚葬祭などの共同作業は、集落単位に作られた「講中」を中心として行われた。冠婚葬祭用具や井戸さらい(井戸を掘り起こすこと)の道具等も共同で購入し、講中小屋に収納した。

市内では今でも残っている地域もあるようだが、清新地区は昭和40年代で全て解散した。


挿し絵「清新のしるべ」から葬儀/野辺送り風景

農家の女性の楽しみの一つに「念仏」があった。

葬儀の後やお彼岸・お盆、毎月の廻り念仏(会場は持ち回り)、新築した時の「家見念仏」などで、先祖の供養、豊作祈願、家内安全を願って念仏を唱えた。念仏が終わった後には、持ち寄った料理を楽しむ一時があり、女性にとって待ち遠しいものであったという。

寺子屋で「読み書き」を習っていた時代から、次第に教育制度が充実し、明治35年には尋常高等相原小学校が設置されると共に、小山に第2分教場(現在の向陽小学校)が設置され、翌年には相原小学校から旭小学校と改称された。

清新の子どもは第2分教場に通ったが、民家も少なく道路か草むらか分からない道を、ゲタやぞうりで泥まみれになって通った。分教場は後に向陽小学校となり、昭和29年に清新に分校ができ、翌年に独立して清新小学校が開校した。

畑の広がる風景(中村主計氏 提供)

横浜線は明治41年に、八王子・東神奈川間が開通し、橋本駅の次に淵野辺駅が開設され、相模原駅は北側に広がる相模陸軍造兵廠のための「軍事駅」として昭和16年に開設された。

また、相模線は昭和6年に開通し、南橋本駅(当時は大河原停留所)は昭和7年に開設された。

清新地区を含む一帯が整然とした道路網となったのは、「軍都計画」とそれを引き継いだ「都市計画」のお陰である。陸軍の相模原北部に軍需工業都市を新に興すとの意向を取り入れた「相模原都市建設区画整理事業」が昭和14年に県議会で可決され、550万坪にも及ぶ壮大な区画整理事業がスタートした。

幅員40mの東西幹線道路(現16号線)を中心に縦横に道路が作られたが、戦時下で資材不足から土木工事は完成したものの、砂利すら敷いてなく路面を固めただけであった。終戦後も事業は継続され、種々の悪条件を克服して、昭和24年度をもって完了し、現在の町並みの骨格ができあがった。

相模陸軍造兵廠も清新地区に大きな影響を与えた。兵器製造所として昭和13年に開所され、戦車や砲弾が製造された。終戦時には従業員、徴用工、学徒動員学生、挺身隊員など3万人もの人が働く一大工場となった。

戦争末期には、風船爆弾も作られた。清新地区の農家からも多くの人が働きにいき、終戦と共に米軍に接収されて現在に至っている。

◇ 戦後を経て地域の発展が進む

昭和20年8月の太平洋戦争終結により、世の中の全てが一変しました。特に軍事施設の多い相模原は、米軍による占領政策の影響を大きく受け、清新地区も例外ではありませんでした。

終戦時には、学徒動員を含めて約3万人とも言われた相模陸軍造兵廠の従業員が一挙に職を失うことになったが、接収した米軍に雇用されることも多かった。水を汲む姉、桶を持つ弟昭和25年に勃発した朝鮮戦争は特需景気をもたらし活況を呈した。従業員用として現在の矢部駅が出来たのもこのころである。しかし、朝鮮戦争の終結により、従業員の大半が解雇されることとなった。このように戦後においても、地域の経済は基地に大きく左右された。

造兵廠の名残りとして特筆すべきは、現在の相模厚生病院である。造兵廠の医務課に勤めていた方々の並々ならぬ努力により、医療器具などを引き継ぎ厚生病院として再出発した。

全国六ヶ所の造兵廠付属病院のうち、相模原だけが医療機関として存続することができたのである。写真は昭和初期のもの

農村地帯であった清新地区も、戦後の食糧不足は他の地区と変わらなかった。陸稲、麦などは物価統制令の元で強制的に供出させられ、さつまいもが主食代わりで、学校の弁当も毎日さつまいもという日もあったという。そのさつまいも弁当さえも持てない学童もいたようだ。

そうしたなか、養蚕は戦後も盛んに行われ、唯一の換金作物としての存在は大きかった。昭和30年頃には県の繭の生産高のうち三分の一を相模原市が占めていたほどであるが、桑畑の宅地化や後継者難から次第に衰退し、清新地区では昭和30年代をもってその役割が終わった。

その頃満州(現・中国東北部)を舞台にした「流転の王妃」という映画のロケが行われた。桑の枝に桃色の造花をつけて桃畑にみたて、その中に楼閣を作るなど、津久井・城山から丹沢・大山まで見渡せるという大陸的な風景が、満州を彷彿とさせたのである。

昭和30年ごろの16号線五差路を望む↑

開拓当時から飲料水の確保は非常に大変で、庭先の井戸からの汲み上げが重労働であった。

昭和14年ごろ、軍施設への給水が急を要したので、県は水道布設を急ぎ軍や関係町村なども負担して工事に着工した。

資材や労働力不足の中、昭和20年3月に完成し一般住宅にも給水が開始されている。まさに相模原、津久井町民の悲願が達成された年である。

ある高齢者が「よそからお嫁にきたのだが、生涯で一番嬉しかったことは、水道が引けたことでした。」と言っていたほどで、深さ30mの井戸からの水くみは、それだけ重労働だったのである。

産業面で大きな転機となったのは市制施行まもない昭和30年に制定された「工場誘致条例」である。

大山工業団地もその一つで山村硝子、日本金属工業など4社が進出し、それに伴って中小企業も栄えた。当然労働者も増え畑などが居住用に宅地化されていった。

戦後は人口増加も著しく、市の人口統計によると、昭和20年に5万人、35年に10万人、42年に20万人、46年に30万人、52年に40万人、62年に50万人と急激に増加した。

人口増加に伴い、日常生活に欠かせない商店も繁盛した。戦前には数軒だった商店も、昭和26年頃に相模原駅前が整備されてから急速に増えていく。

駅前に「共栄百貨店」という市場が作られ、20数軒もの店舗が営業し、大変なにぎわいをみせた。西門商店街は、米軍に接収された補給廠の基地出入口の前であったため、補給廠の労働者を相手とした商店や飲食店が賑わいをみせ、昭和26年には「日用品小売市場」が開業しさらに多くの買い物客が訪れた。


清新小学校の誕生から現在まで

清新小学校は、幾多の困難を乗り越えて、地域民の絶大なご協力のもとに、昭和29年向陽小学校の分校として設置され、翌年の30年に待望の清新小学校が誕生しました。

明治6年の学制発布により、それまで読み書きを教えていた「寺子屋」が「学舎」と改められ、その後「学校」となる。しかし明治初期は、ほとんどの人は学校(学舎)に行かなかったようである。

「学校名と変遷 」

  • 明治 6年  寺子屋が学舎と改められる (当時の学舎名は不詳、氷川神社付近にあった)
  • 明治 8年  小山学校となる(学舎名廃止)
  • 明治35年  相原尋常高等小学校 (現旭小の前身)の設置
  • 明治39年  相原尋常高等小学校と改称
  • 昭和16年  旭国民学校と改称
  • 昭和22年  旭小学校と改称
  • 昭和23年  旭第二小学校(向陽小の前身)の設置
  • 昭和26年  向陽小学校と改称
  • 昭和29年  向陽小学校清新分校(現在地に)の設置
  • 昭和30年  独立して清新小学校として開校

明治42年頃 髪型や着物姿!(旭小誌より)


昭和41年頃の橋本駅

昭和41年頃の橋本駅(旭小誌より)

明治、大正、昭和初期までの清新地区は、畑や林で民家も少なく、道路か草むらか分からないところを泥まみれになって、ゲタやぞうりを履いて通学したという。

旭小学校までは、子どもの足で約1時間かかり、特に雨や雪の時は大変苦労し、台風の時は休む児童もいたようだ。

しかし、通学途中では桑の実(トドメ)や木苺の実を食べたり、麦の穂から実を取り出して噛んでガムのようにしたり、また、雨になると里芋の葉を傘代わりにするなど、楽しみもあったようである。

昭和10年代に入ると子どもたちの服装も着物から洋服に変わっていったが、国の戦時体制が強化されるに従い物資も統制され、学用品も粗末なものとなり習字の練習には新聞紙が使われるようになった。

戦況悪化と共に、学校での勉強時間が少なくなり、子どもたちは勤労動員で農家の手伝いや麻の採集、唐胡麻の栽培等の作業に追われるようになっていった。

昭和20年になると空襲が激しくなったため、工場の機械を学校等に分散することとなり、旭小学校でも教室や講堂の8割が陸軍に徴用され、講堂は造兵廠の機械が据え付けられた。そのために、分散して各地の農家が教室代わりに使われるようになった。



終戦後は、GHQ主導による六三制の学校教育改革がおこなわれ大幅な変遷を遂げた。

学区は今の向陽小学校だったが、当時の校舎は老朽化と海外からの引き揚げ者の転入などで児童数が大幅に増加し、旧陸軍造兵廠の女子寮を借り受けて校舎にした。

児童数の増加により、清新地区にも学校が必要だとの機運が高まったが、開校に向けた用地の確保などで当初は困難を極めたようである。しかし、昭和29年に向陽小学校分校として現在の地に開校し、翌年独立して、正式に「清新小学校」が誕生した。

畑に囲まれた広い校地一万坪の中央に、一棟の木造校舎が建てられ、児童数213名、職員11名で開校(向陽小学校清新分校)したが、付近には民家がわずかに2軒だけだったという。

ダルマストーブ

暖房用ダルマストーブ


昭和30年の清新小学校

昭和30年の清新小学校

昭和38年の清新小学校

昭和38年の清新小学校

この写真は「清新小学校創立30周年誌」より


清新小学校では、昭和34年から学校給食が始まり、児童にとって楽しい一時となる。

昭和37年に地元の方からの寄付でプールが完成し、川もなく海からも遠かったので、子どもたちに大変喜ばれた。

独立開校した清新小学校の児童数は、当初224人であったが、昭和40年には936人、昭和46年には1,498人と急激に増加しマンモス校となり、プレハブ校舎なども併設して使われた。

中学校は、昭和22年に旭小学校に併設して旭中学校が開校したが、生徒数の増加で、昭和46年4月に現在の清新中学校が分離開校した。また、昭和58年には小山中学校も開校した。

昭和34年の給食時間

◇ 清新公民館の誕生から現在まで

清新公民館は、最初は小学校内に昭和33年に多くの皆さんの支援で誕生しました。

昭和39年完成の講堂兼公民館

昭和39年に完成した講堂兼公民館(公民館25年のあゆみから)

清新公民館は、昭和24年に公布された社会教育法に基づき、昭和33年4月に設置されました。当時は現在のような建物はなく、事務所も清新小学校内にありました。

その後、地域の方々の大変な努力が実を結び、昭和39年に講堂兼公民館が建設されました。


昭和33年当時の清新小学校周辺の風景(公民館25年のあゆみから)

公民館の役割には、学習機会の提供、地域活動の拠点、体育・レクレーション活動の援助、学習情報の提供・相談などがありますが、当時から公民館事業にあたっては、地域住民を主体として積極的に推進されていました。


昭和33年清新公民館が開設された当時から、運営審議会や、専門部(文化部、社会部、体育部)が設けられ、町民運動会等の様々な事業が開催されました。

昭和34年には「清新公民館だより」が発刊され、昭和52年には神奈川県優良公民館の表彰を受けました。

町民運動会

町民運動会

高齢者学級

高齢者学級


清新鼓笛隊

清新鼓笛隊

社会教育法 第20条

公民館は、市町村その他域内一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。
(昭和24年6月10日公布)


昭和57年には、現在の建物が完成し公民館活動も更に活発化していきました。

一方、清新地区も年々都市化が進み、社会の変化に対応した公民館の運営が求められています。

間もなく創設50年を迎えようとしている清新公民館は、現在、地域住民のみなさんと共に、これからの公民館のあり方を検討し、より身近な生涯学習の場や地域の交流の場を提供するよう公民館の振興計画を策定しています。

◇清新中学校の誕生から現在まで

相模原市の人口が飛躍的に増え、旭中学校も生徒数が増加したために、昭和46年に開校しました。

学校用地には広範囲の面積が必要で、地域の土地所有者の格段の協力を得てようやく実現しました。

開校時の人文字と全景(昭和46年)

現在の旭中学校が生徒数の増加で過密となったため、昭和46年に現在の地に開校しました。

清新中学校の建設に当たっては、地域の方々の陳情に次ぐ陳情でようやく開校しましたが、市の財政も厳しい状況であったため、体育館もプールもなく校舎があるだけでした。

開校時の生徒数は1学年425名、教職員数は22名でした。


清新中学校の「学校教育目標」(開校初年度の目標)

  • 1.心身ともに健康で、礼儀正しい人になる。
  • 2.進んで学習や仕事に取りくみ、希望にみちた生活をきずける人になる。
  • 3.働くことを喜びあえる人になる。
  • 4.感謝の心をもって人に接し、あたたかい友情を結びあえる人になる。
  • 5.きまりを守り、誠実な人になる。

昭和46年4月5日の入学式は、体育館がなかったため、一人一人がイスを持ってあがった屋上で行われましたが、当日は紅白の幕が吹き飛ばされそうになるほどの強風だったそうです。

校長先生からは、「感謝の心をもちなさい」というお話がありました。


開校宣言

5月1日、教育委員会からの「開校宣言」の額をもらい、式典が校庭で挙行され、併せて校章も制定されました。校章は生徒や職員から公募しました。この作品は笹野初代校長先生によるものです。


開校当初は満足な体育施設がなかったこともあり、マラソンで体力づくりに励みました。また、プールもなかったため、相模原高校のものを借りて水泳指導が行われました。

当初から地域との結びつきも強く、現在でも、PTAまつりでは、模擬店やステージ発表(演劇部や吹奏楽部の発表等)などが行われています。

部活も盛んで、最近では剣道部や吹奏楽部が高成績を収めています。

平成12年には、創立30周年を迎え、各種の行事とともに記念誌が発行されました。


清新中学校の卒業生には、騎手の「後藤浩輝さん」、ピアニストの「吉田麻里子さん」など、多くの先輩が多方面で活躍されています。

(写真は「清新」30周年記念誌から転用しています)


◇ 小山中学校の誕生から現在まで

小山小学校は、清新中学校と旭中学校の二校の生徒数が増加したために、昭和58年4月に両校から分離して出来た比較的新しい中学校です。

開校時の周辺の様子(昭和49年8月)

小山中学校は、清新中学校と旭中学校の生徒数が増加したため、生徒数の適正化と教育の充実を目的として昭和58年4月に両校から分離し、開校しました。

学校名は地域の方々が「小山中学校」と名付け、初年度は新一年生だけの学校でした。集団生活の中で、他人に迷惑をかけない・時間を守るなどの、ごく基本的なことを中心にすえ、生徒の自主性を重視した教育を進めました。

開校時の生徒数は1学年271人,教職員は16人でした。


校庭の校歌碑

校庭にある校歌石碑

正面玄関わきに、校歌の石碑がありますが、これは初代校長倉治先生が作詞され、高木東六先生が作曲されたものです。

昭和60年度には校歌制定行事が行われました。

初代校長

高木東六先生


卒業生の模写画

卒業生グループによる模写

小山中の校旗と「お・や・ま」

校旗

◆思いやり ◆や る 気 ◆学   び

幾何学模様の絵画

幾何学模様の絵画


校内の廊下には、絵画が所狭しと展示してあります。 美術の授業の一環として、また卒業生は、名画の模写(左)などもグループで作り上げているそうです。


花いっぱいの校門

校門から校舎までは、花がいっぱいです。

環境委員の生徒が中心となり、校庭の管理をしているそうです。

花が終わって種子をつけたものは、それを採取し理科の教材に使っています。

4月にはどこの教室からも桜が見え、勉強をする環境は抜群です。

生徒自身はもちろん多くの皆さんの努力で、たいへん清潔で緑があふれる素晴らしい学校でした。

◇ フレッシュ!小山小学校の誕生

平成15年4月に清新小学校の生徒数が大幅に増加したため、清新小学校から分かれて、最新の施設設備を持つ、優れた教育環境の小山小学校が開校しました。

学校名の由来は 「21世紀に、歴史ある小山の地に開校する学び舎が、新たな伝統を築く中で、子供たちの未来に大きな夢を育むこと」を願い命名されました。

開校時は、1学年から6学年の児童731名、教職員34名が在籍しスタートました。

真新しい小山小学校


校舎は、教室と廊下に区切がない教室など斬新な設計です。また施設設備は、最新の太陽光発電装置の設置などを行い、今後の学校の施設整備の在り方を示しているといえます。


廊下との間に区切りがない教室

太陽光発電装置を屋上に設置

太陽光発電装置を屋上に設置


小山小学校の教育基本方針は、『自分なりの考えで、第一歩を歩み出そうとする子の育成』を目指しています。

  • 「おもいやろう=徳」
  • 「やりぬこう=体」
  • 「まなびあおう=知」

地域・家庭との連携・協力を大切にし、その一環として、地域ボランティア・学生ボランティアによる、放課後の学習支援が行われています。

新学期、元気に桜並木の下を登校する児童


グループでトマトの生育を観察する

大工さんの応援で、親子木工教室


小山小学校は、文部科学省学力向上支援事業協力校として、上記のテーマで研究発表会が行われます。

ここでは、特色のある地域ボランティア・学生ボランティア(青山学院・玉川大)による、放課後学習支援などの活動が報告されます。

研究発表会のご案内

校歌・校章の制定


山・昇る太陽・桜をイメージ

山・昇る太陽・桜をイメージ

小山発 未来行き

小山発 未来行きと命名された校歌は、作詞が校歌制定委員会、作曲が相模原市立旭中学校卒業生で地元出身の岩山喜一さんがつくられました。

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