ズームイン田名 -72-


< 法仙坊大明神の話 >

 田名陽原方面から新宿へ向かう途中に坂道があります。その坂を登り終わったところを右折 し、三百メートル程へった道端に法仙坊の石碑が祀られた社があります。昔は相模の国を南北 に通る大切な道で多くの人達が通ったと伝えられています。
 一説によると、平安時代末の話ですが、この道を一人の坊さんが托鉢のために歩いていたと ころ、相模川の対岸にあった小沢城(城主・金子掃部助)の方からの流矢が坊さんの首に当た り、その坊さんは間もなく亡くなりました。坊さんは「法仙」という村でも大変人望のあった 方で村人により手厚く埋葬され、石碑も建てられました。村人が城に抗議に行き、小沢城から の矢は飛ばなくなりましたが、地名は今でも残っています。「飛び先、矢がけ、矢のはけ、矢 向かい」等です。
 昭和十年代までは森の中に、数個の石碑ど五輪塔等がありましたが、昭和十六年一月に新た に「法仙坊大明神」の石碑が建てられ、第二次大戦中には竹竿に武運長久と書かれた旗が何本 も立てられ出征兵士の無事を祈って参拝していました。最近では平成二十年五月に小さな社が 建立され、家内安全、健康等を願って御供物、お賽銭など奉納されています。

  
 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -71-


< 田名地区の葬儀について〜土葬〜 >

 田名では葬儀の事をオトムレイ(弔う)といい、昭和40年代前半まで土葬が行われていました。
 不幸があると隣近所、組合、地類(分家、地分)の人達が集まって、葬儀を行えるよう段取りをします。
 濃い親戚先の知らせは、組合の者が二人一組になって知らせに赴きました。これを「沙汰に行く」と云っていました。電話等ない時代で、沙汰に歩くにも大変な事でした。葬儀一切の知らせを受けた相手方は米の飯を炊いて丁重にもてなしたそうです。
 墓堀は組合の人達で五人一組となり順番が決まっていました。四人が穴を堀り、穴の深さは2メートル70センチ以上でした。年長者の一人は火の番として火を焚く役につき、墓堀へ指示を出しながら葬儀が終るまで墓を守りました。
 土葬の場合、その家で何回も不幸が続くと墓の位置が問題となり、出来るだけ古く埋葬された方の所を掘ります。それでもたまに人骨が出土し、墓堀の若い人達は身体が震える思いだったそうです。墓堀経験者は生涯その時を忘れられないと云っています。
 現在、土葬は行われていませんが、組合組織の一部や風習が残っています。(宗派により多少方法が変ります)
 葬儀は出棺の時喪主が位牌を、蓮華、団子等は近親者が持ち、墓堀四人で棺を担ぎ座敷からそのまま庭に出て、左廻りに庭を3周半回り基に向かいます。
 お坊さん、喪主、遺族が続き弔旗や辰の口(竹竿の先に辰の頭を付けたもの)は近所の人達が持ち行列は墓まで続きました。
 埋葬の時は棺の四方に縄をかけて、お坊さんの読経に合わせて埋葬します。親戚の人達がスコップ1杯の土をかけ、最後は墓堀の人達が土盛りをして、上に仮家を載せて終了。
 埋葬が終ると親戚、近親者を中心に本膳の精進料理が出され、組合・地類の方々が接待します。それが終った 後に組合・地類の人達の精進落としが行われます。墓堀は大役とされ、精進落としの席は上座にすえられ引き物に晒し(さらし)一反が特に差し出されました。

   協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -70-


< 田名を横断する横浜水道みち >

 新宿から清水に向かう途中、田名高校、田名中学校の脇を一直線に伸びる道が横浜水道みちです。この道の下に横浜市民にとって大切な水道管が埋められています。当初水源は道志川、相模川の合流点である津久井三井で、明治20年10月に横浜市各地に給水が開始されました。
 横浜市の人口増と第2次大戦もあり、水不足、電力不足等から、相模ダムの建設が始まり昭和22年に完成し通水も開始されました。それに伴い水道管もおおきなものに取り替える工事も行われ、新しい管は子どもが立って歩ける程の物で、それら物資を運ぶのにトロッコ用の線路が布設され、深い穴(5〜10m)も掘られましたが、全て人力で行われたのです。
 明治20年の古い水道管を取り出して、太いものと交換したのですが、水道管の繋ぎは鉛でとめてあり、堀り出した時にかなりの鉛がありました。
 小さい物はそのままにしてあり子ども達はそれを集めて、釣りの重りを作ったのです。当時は大変貴重なものでした。
 食糧難時代には田名小の高等科(現中学1〜2年生)を中心に道を耕してサツマ芋、里芋、小麦等々いろいろな作物を作りました。片隅にはお茶も植えられてました。
 やがて線路は取り除かれますが、戦争のため水道管は何本も放置され、又トロッコ、線路も放置されていて子ども達の絶好の遊び場でした。
 現在は道も整備されジョギングコース として利用されていますが、下に横浜市 民の水道が通っていると思いながら歩い てみてはいかがですか。

  △横浜水道みち




 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -69-


< 田名小学校創立140年 によせて >

 田名小学校は、明治6年の開校から今年で140年を迎えました。明治29年に現在の田名小の場所に移り、当時は生徒数90名、6教室と職員室でした。落成時に植えられた桜の木は現在も春になると見事な花を咲かせています。
 幾多の戦争があり、特に昭和16年から20年までは、田名でも大変でした。勉強は次第に軍事一色となり、昭和19年になると戦況が悪く、東京空襲もあり学童の疎開が始まりました。
 田名には東京、横浜から多くの人が親戚を頼って疎開して来て、親戚のない人は集団で寺に移り住んでいました。
 学校では教室に入りきれず、三部授業で午前、午後、夜間と分けての授業でした。幸い田名では空爆は無かったですが、愛川に飛行場があり艦載機による機銃掃射が度々行われました。
 昭和20年になると学校では講堂と殆どの校舎の床が剥がされ兵器工場になり、授業も履物のままで行い空襲警報が出るとそのまま学校の防空壕に入ったのです。寺に集団疎開した学童は、寺での授業となりました。
 兵隊さんの使う馬の餌用干草作りや、桑の皮はぎをして干して学校に持って行く等が夏休みの宿題でした。又学校では食料増産で四ツ谷から新宿までの水道道にさつま芋等を作ったり、全校で麦踏をしました。授業と云えば兵隊さんの、慰問袋作りで手紙を書いたり、中に入れる物を作ったりしました。
 昭和20年8月終戦となり今度は食量難です。学校に弁当持参出来る人はよい方で、こっそりいろいろな物を食べる人も多かったです。
 田名でも本格的に勉強が出来る状態となりましが、最初のうちは、中学生も小学校の床のない講堂で間仕切りだけの所で勉強しました。
 日本中が大変だった時代、田名も例外ではありませんでした。

《おもな出来事》
昭和三十六年二月 学校給食開始
昭和四十年  二月 校歌制定
昭和四十四年一月 子どもの丘完成
昭和四十五年五月 鉄筋校舎完成
昭和四十七年六月 3階立て校舎完成
昭和四十八年九月 体育館完成

半在家在住の田所清一さんに寄稿をお願いしました
       (昭和17年4月入学)

  △昭和10年に 建てられた 二宮金次郎像

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -68-


< 田名の澱粉(でんぷん)工場 >

 昭和20年代後半、農協の前身である田名農業会が田名半在家に澱粉(でんぷん)工場を作りました。場所は田名小から陽原方面に向かって、田名テラス入口信号のところです。
 当時は戦中戦後の食糧不足で農家はどこでもさつまいもを作っていました。さつまいもの品種は主に農林一号で、食べてもおいしく、収穫量も多く、そして澱粉の含有量も多い品種でした。
 澱粉は栄養貯蔵物質としてアミロースとアミロペクチンの集合体で、無味無臭の白い粉末です。その構造は植物の種類によって異なります。澱粉は現在でも水あめ、ブドウ糖、ジャム、佃煮、酒原料、医療等に使用されています。
 エ場には、いつもさつまいもが山のように積まれていました。それを機械で洗浄し、砕いて水と混ぜて搾り、沈殿池に貯めて澱粉を取りました。
 また、澱粉を搾ったた後のさつまいもは家畜の飼料として利用されました。田名ではさつまいもでしたが、他の工場ではジャガイモ、とうもろこし、小麦などからも澱粉を生産していました。
 エ場の年間処理能力は最大1、200トンで、経済的に相当潤いました。
 時々工場から澱粉をいただき、お湯と多少の甘味を入れて飲んだ思い出があります。
 田名地区の生活を支える大切なエ場でしたが、やがて全国的に食糧事情が改善され、次第にさっまいもを作る農家が減少し昭和39年1月までに閉鎖されました。
 

  10月〜3月まで毎日リヤカーにさっまいもを積んで出荷したのが懐かしく思い出されます。

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -67-


< 肝だめし >

 一般的に肝試しといえば、墓地のようなこわい場所へ行かせて恐ろしさに耐える力を試すことです。
 特に8月にはお盆と子供達の夏休みがあるので、肝試しには絶好期でした。
 歴史的にはいろいろなかたちでの肝試しは、相当古くから行われていたようですが、田名では大正から昭和20年代までに、盛んに行われていました。今のように街灯もなく木々は生い茂っていて、墓地も各所にあり、肝試しには絶好の場所ばかりでした。
 昭和40年代前半までは、田名でも土葬が行われていましたが、土葬の場合は墓地に置く龍のロ、提灯や埋葬者の上には雨よけの仮家等、それらをみるだけでも子供には怖かったものです。新しく埋葬された墓地があれば必ずその近辺にコースを定めて、夜8時過ぎに一人一人順番にまわります。
お寺の墓地なども肝試しにはよいコースでした。
 小学校低学年の男子が主で、時には女子も参加しました。高学年の生徒は(今の中学2年生まで)各所に配置されて脅かす役でした。
 高学年とはいえ二人暗い墓地での脅かす役も中には怖がる人もいました。
肝試しに出かける前に怖い話をいろいろ聞かされてからの出発ですから、今でもその怖い話が思い出されます。各地区ごとに小学生を集めて夏休み中に必ず行いました。
その名残りが今では、ビックリ箱、お化け屋敷、ジェットコースター等ですが、夏の暑い夜、身体全体を心から冷やしてみてはいかがですか。ただし身体の弱い方などは充分気をつけて下さい。

 昔、田名で行われていた怖い肝試しの話でした。

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -66-


< お歳暮 >

 間もなく十二月。年末になるとお歳暮に気を使うところですが、通常平素お世話になった人、仲人、上司、友人等に感謝の心を持って物を送ることを言います。現在では、お中元と共に形式化し儀礼的な面が強くなっています。もともとこの時期は先祖の祭りをする時で、その子孫が食べ物を持ち寄って飲食する行事としての風習がありました。それがいつか贈答という形になったのは、長い年月とその意義の段階的変化があったと思われます。
 昭和40年代頃までは結婚には男女別々に仲人をたてましたが、それが一方だけになり、最近では、仲人無しの結婚式が主流となりました。当時結婚した年には、先ず両仲人に新巻鮭等[地方では鰤(ぶり)等]を持参訪問してお礼を述べたものです。そして、仲人には生涯に亘りお歳暮等を持参しました。それがやがてデパート等から直接配送する方もおり、品物も相手の好みに合わせて送るようになりました。
現在のお歳暮にも鮭や鰤(ぶり)などの生臭いものを用いる習わし、その一年の間に不幸のあった家に「あらみたま」(注1)と称する贈り物をする風習が守られている地方があるのは、もともとの意義を残していると思います。田名地区では大正時代までで「あらみたま」の風習はなくなったと思います。
 お歳暮の習慣は残っていますが、簡略化し、本当にお世話になった方のみに贈呈するのが当然となっていました。暮れになると新婚夫婦が仲人を訪ねる風景が懐かしく思い出されます。
 正月になると神棚にお飾りをして、お歳暮の品物や年始の贈答品等をその前に置き、それを1月7日までそのまま供えておきました。これらの風習は今でも田名地区に見られる所もあります。これらも今では懐かしい思い出です。

 注1「あらみたま=新霊」
 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -65-


< 蓑(みの)>

 6月に入ると長い梅雨のシーズンとなります。
 蓑は、茅(かや)や菅(すげ)、藁(わら)などを編んで作った雨具の一つで、肩に羽織って用います。
 昭和30年代頃までは、田名地区でも蓑や笠(かさ)を使う姿がよく見られ、特に農家では、田植えなど野良仕事には欠かせないものでした。
 蓑作りは、茅などを使用、夏季に刈り取り、よく乾燥して冬の暇な時期に自分でも編んで作り、軒先に掛けて置きました(昭和10年代)。 田名では、棕櫚(しゅろ)で編んだ蓑もあり丈夫でしたが、他の素材の蓑より少し重いのが難点でした。蓑は保温、防水、通気性に優れていましたが、着た格好が悪く、当時でも若者には受けがよくなかったようでした。それでも高価で買えず、自分で編んだ人も多かったものです。
 やがてゴム、ナイロン、ビニール製品など、防水に優れたものに代わり、茅などで編んだ蓑は見かけなくなりました。
 童謡「かかし」の中に、『山田のなかの一本足のかかし、天気がよいのに蓑笠つけて…』とありますが、最近ではかかしに蓑笠は着けていませんね。鳥よけには田畑全体に防虫ネットを張っているので、かかしを見ることがなくなりました。
 望地及び大島等の研修田でも鳥を驚かせる衣装のかかしとなりました。昔ののどかな風景が思い出されます。

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -64-


< 火伸(熨)し(ひのし)>

 今も昔も家族の身なりを整える道具のひとつに火伸し(アイロン)があります。
アイロンは「西洋火伸し」と言われるようにヨーロッパから入ってきたようで、わが国で使っていた「火伸し」と原理は同じものでした。
 日本の「火伸し」は、柄杓(ひしゃく)の形の金属[多くは青銅]の容器に炭火を入れ、その熱気を利用して皺(しわ)伸ばしに使っていました。
 布との接触点が理想的だったことから機能的には優れていたようです。
 母が使っていたと思われる青銅製の火伸しが今でも我が家に残っています。また、和裁が得意だった妻が使っていた鶏(にわとり)の卵の大きさの火伸しは、そのものを暖めて使ったのでいつも裁ち板の側に火を起こした火鉢を置いてありました。記憶にある昔のアイロンは、煙突のような筒がついた船形の底の平らな容器で、火袋には蓋が付いていたので、火はむき出しではなく、安全性には優れていました。技術の進歩により電気アイロンが出現し、霧吹きも、自動のスチームアイロンに変わりとても便利になりました。加えて、合成繊維などが出回り火伸しの出番は半減したようです。

協力・・・郷土懇話会                
*「火伸し」は相模田名民家資料館2階に展示してあります。
 所在地 田名4856−2
 電 話 042-761-7118
 開館日 木曜日〜日曜日 午前10時〜午後4時まで

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ズームイン田名 -63-


< 団扇(うちわ)>


 時代を生きた先人たちは、生活の中に木を使うと同時に竹も身近に取り入れて、日常の用具として活用して来ました。その一つに団扇があります。
 もともとは、中国から入って来たとされ、江戸の頃に岐阜や京都などで盛んに作られたと言われています。
 一本の割り竹をさらに細かく割いて、平たく拡げ、丸く仕上げて紙を貼ったものや丸いままの篠竹を細かく割き、絹の布を貼ったものなど、高級品から庶民用の※渋団扇まで様々です。団扇が最も活躍するのは、夏の時期に涼をとることを主目的としますが、お祭りの神輿を煽(あお)いで景気をつける大団扇や盆踊りに行く浴衣の背中に挿(さ)した絵団扇など夏の風物には欠かせないものです。また、風を起こす道具ですから、火を熾(おこ)すのに使われたり、酒饅頭を蒸したとき、表面のつや出しにも利用されるなど活躍しました。最近では、扇風機の出現によって出番も減り、さらに、追い討ちをかけるクーラーの普及で家の中で団扇を使うことは少なくなってしまったのです。また、合成樹脂の発達で竹細工の芸術品として親しまれた竹骨の団扇は、見られなくなりました。
                                                             協力:郷土懇話会
※渋団扇とは、柿渋を塗った赤茶色の丈夫なうちわで、台所などで使った。

縁台に夜の風を生む 古団扇 桑

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ズームイン田名 -62-


< おしめり正月 >


 日照りで畑がカラカラに乾いたときに降ってくれた雨を慈雨とか喜雨といい、お百姓さんが待ちにまった雨です。この雨を「おしめり正月」と言って楽しんだころのことです。 
昔の農家の人たちは、天王様のお祭りを目標に麦の刈り取り、陸稲(おかぼ)畑の草取り、さつまいも畑の土寄せなどと畑仕事に励みました。
梅雨時の長雨を乗り切ったのも束の間、梅雨明けとともに連日の猛暑、旱天(かんてん)(夏の日照りの空)の日々が続きます。 田名地区は元々地下水の水位が低い火山灰地の畑が主で、乾燥に弱く日照りの被害は深刻でした。
 日照りに強いさつま芋や粟(あわ)などは別として、もっとも弱かったのは畑で米を作る陸稲で、成長も止まり穂の出ないこともありました。
 そこで考えられたのが、神様や仏様にすがる思いで行う雨乞いで、村の議会で決める大変な事だったのです。その願いが届いたのかまた、時期が来ていたのか7月の終わるころには大抵は夕立がありました。 夕立は、一時的にかなりの量が降るので本当に旱天(かんてん)の慈雨といわれるように天が与えてくれたおしめりだったのです。
 農家の喜びは大変なもので、ほとんどが農業だった私の地区では部落長(現在では自治会長)から「一切の仕事を休みなさい」というお触れが出ました。 それぞれの家では昼風呂を立て、めったに食べられないご馳走だった昼そば(実際はうどん)を食べて天下晴れての休養を楽しみました。
 そのうどんにしても、普段は鰯の削り節のダシ程度だった付け汁に豚肉の細切れでも入っていれば最高だったのです。
 特にこれという娯楽も無かったので、集会所へ集まって世間話に花を咲かせ親しい友だちと一杯など天の恵みをかみしめるのでした。
 また、暑い時期だから休養を取るようにという意味もあったようです。「おしめり正月」と言われたこの慣わしは、農民の心情として天が与えてくれたおしめりへのお礼心の現われでもあったのでしょう。

 一杯の 昼酒ぬるき 喜雨休     幸男

 喜雨として 大夕立の 来りけり   幸男

『協力 郷土懇話会』

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ズームイン田名 -61-

< 水甕(みずがめ)>


 私たちの生きていくための 食事を作るところを、台所といい、調べてみると勝手、厨房、調理場、厨(くりや)とあります。
 今風に言えばキッチン、またはダイニングキッチンでしょう。
 家の中で主に水を使う場所は、台所と風呂場ですが、朝の湯沸かしから夕食後の洗いものまで、一日中使うのは台所で一番多く水が必要でした。
 食器や食材を洗うための、流し台こそありましたが、今のように蛇口をひねれば水が出るわけではありませんから、汲み置きの水が必要だったのです。流し台の側に大きな甕が置いてあり、これに水を溜めて柄杓(ひしゃく)ですくって使っていました。
 井戸は各家とも掘ってあったので水の心配はありませんでしたが、台所まで運ぶことが大変でした。
 どこの家でも大抵は子どもの仕事で、学校から帰ると水汲みが待っていて、ついでに風呂水まで汲まされました。
 以前、館報「わかあゆ」(168号)にも紹介したように、手押しポンプの井戸ならまだしも、釣瓶(つるべ)井戸の水汲みは子どもには重労働でした。
ブリキ製のバケツの前は木の手桶だったので重くて、少しづつ何度も運ぶようでした。
 後に井戸は手押しポンプになり、台所に近ければ竹の樋(とい)を渡すなどして労力は半減しました。
 甕は据えたままなので掃除もたびたびとはいかず、今思うとちょっと不衛生な面もあったようです。 時々時代の名残の水甕を保管しておく家を見かけますが、懐かしく思い出深いものです。
 昭和三十年代に、県営の上水道が敷設されて、台所の水の悩みは解消されました。

なみなみと 満たして夏の  くりや水        幸男

『協力 郷土懇話会』


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ズームイン田名 -60-


< 早苗饗(さなぶり) >


 早苗饗という少し難しい言葉ですが、行事本来の意味は、田植えの終わった後、田の神を送る祭りとされていたようで、田植えが終わったことを報告し、秋の実りへの祈りを込めた催しだったようです。
 農家にとって最も忙しかったのは、5月から6月にかけて麦の取り入れと、田植えを中心とした農繁期の時期でした。
 水田は久所の耕作と、半在家から塩田にかけての一帯だけでしたが、養蚕などと重なるこの時期は、文字通り「猫の手も借りたい」と形容されるように、田畑の仕事との戦いでした。今のように機会など無い時代でしたから、耕耘(こううん)、代掻(しろか)き、苗を植えるまですべてが人力で、1日中腰を曲げどうしの仕事は、想像以上の重労働だったのです。
 やせる思いで働いた田植えも終わり、水を張り込んだ田に立って、ひと仕事終えた安ど感を味わうのでした。万能洗い、馬鍬(まぐわ)洗いと言われ、田植えに使った道具を清め片付けが終わると、昼湯〈昼ぶろ〉にも入り、人も馬も牛も休養をとるのでした。

 早苗饗や 馬は馬屋に 立ち眠り      奇北

 忙しさに 追われ身だしなみもままならなかった女衆は、パーマを掛けに行く時間が出来、嫁姑そろって出かけ少しばかりのおしゃれをしました。

  早苗饗のパーマをかけに  嫁姑     時枝

 地域によりさまざまでしたが、田終いという区切りから、共同作業をした家同士では手作りのご馳走で宴を開いて、重労働からの開放と安ど感を満喫したものです。

  早苗饗と言うほどもなき 奢り酒     幸男

『協力 郷土懇話会』


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ズームイン田名 -59-


< 下 駄 >


 私たちが外へ出る時の履物(はきもの)は、下駄や草履(ぞうり)という時代が長く続きました。明治以降、ヨーロッパから靴という履物が入ってきましたが、一般の人には手の届かない物で、庶民の履物は下駄が主でした。
 木履(ぽっくり)から変化してきた駒下駄は、一枚の厚板を削り鼻緒を付けて出たもので、日和(ひより)下駄とも言われました。男性用は幅広な四角型に、女性用はやや細目になっていて、その名のとおり馬のひずめに似ていることから、馬下駄とも言われたそうです。
 杉の木でも作られましたが、桐を使ったものが最高で、軽快な履き心地は最高でした。駒下駄風の台に 朴(ほお)の木の歯をはめて高く作ったのは足駄、または高下駄と言って、雨天用で男性向け、女性用は(かし)の木の歯がはめられ爪皮というカバーをかぶせて、ぬれない工夫がしてありました。
 絣(かすり)の着物に学帽をかぶり下駄を履いて学校に通ったことや、駒下駄をけり上げて「あーした てんきに なーあれ」とお天気を占ったこと、雪の日に足駄の歯に詰まった雪に難渋したことを思い出します。
 なかなか買ってもらえないので、下駄の歯の減らないようにゴム板を打ち付けるなどの工夫をしたことも懐かしいことです。七五三のお祝いに履いたぽっくりや、昔話に出てくる天狗様の履いている一本歯の足駄など、下駄の思い出も一杯あります。
 今ではどこを歩いても舗装されていますから、昔の砂利道とは違う下駄の音がすると思います。カランコロンと鳴る音を楽しんでみてはいかがでしょうか。

*落とし話*
下駄屋の看板です
「げた はきもの」を わざと
「げたは きもの」と読んだそうな 粋だねー!

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ズームイン田名 -58-


< 提 灯(ちょうちん)>


 室内では菜種油を燃やす行灯(あんどん)や石油を燃やす洋灯(ランプ)などがありましたが、持ち運びの出来る明かりとして、ローソクを灯す提灯がありました。電灯(街灯)の無かったころの夜の外出用の明かりとして重宝したのが提灯でした。読んで字のごとく、さげる灯火、持ち運べる明かりです。
 古くはかご提灯という竹かごに紙を貼ったものから、伸縮自在なものが作られ、小田原提灯のように、不要の時は折りたたんで携行も出来ました。一般には卵型のものに細竹の柄を付けたものが使われ、花鳥草木を描いた岐阜提灯(盆提灯)、祭礼と描いた祭り用などがあって、これらはぶら提灯と言われました。 時代劇に出てくる御用提灯、何番組と書いてある火消し用、祭のみこしを飾るものなど、激しい動きに耐えられるものは弓張提灯と呼ばれていました。
 また、お嫁さんを迎えるご祝儀の時に家紋入りの弓張提灯を点して案内をすることも、昔のしきたりの一つでした。乾電池(懐中電気)の出現によって、普段の生活の中で提灯を使用することは無く、出番を失いましたが、その淡い光は今でも懐かしいものの一つです。

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ズームイン田名 -57-


< 井 戸 >


人間に限らずすべての動物は、生きるために物を食べます。と同時に水も欠かす事が出来ません。水だけで数日は生きられると言いますが、この水を絶えることなく供給してくれたのが井戸でした。
 大昔の人は水を求めて、水のわき出る所に住み着きました。(田名では相模川ぞいの台地や八瀬川近くに、先人の生活の跡が見られる)そのわき水を利用し生活していた人たちが、地面に穴を掘って地下水をくみ上げる井戸を考え出した知恵には、驚くものがあります。
 水くみは浅い井戸ではおけに縄や竹ざおを付けてくみ上げ、深い井戸はやぐらを組んで滑車を使いくみ上げる方法を長いこと使っていました。その後、腕木を上下させて水を吸い上げる通称がっちゃんポンプからモーター利用の回転ポンプへと変わってきました。しかし残念なことに40年ころから生活環境の変化などで地下水が汚染されほとんどが飲み水に不適とされてしまいました。
 夏は井戸でつめたく冷やしたスイカやうり・トマトをほおばって食べたことも今では想い出となってしまいました。
 『天からのもらい水』と言われ自然の恵みを受けた時代は遠い昔の事となりましたが、望めるものなら 夏は冷たく冬は暖かで、しかも無料のおいしい水を取り戻したいものです。

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ズームイン田名 -56-


< 風呂敷(ふろしき)>


 風呂敷の言葉が生まれたのは江戸時代と言われ、当時普及していた銭湯の足拭きの布が本来の風呂敷だったそうです。その後使い方の変化によって物を包む布を風呂敷と呼ぶようになりました。
 風呂敷は色々な使い方があり、子どもは勉強道具を包んだり、大人は仕事用の物や弁当、祝儀不祝儀の進物を包むなど、生活に密着した重宝なものでした。嫁入りに持参する寝具一式は、唐草模様の大きな風呂敷に包まれて、披露宴の座敷に飾られました。行商に来る呉服屋さんの反物を包んだ大きな紺の風呂敷も、和服の女性が抱えた(ちりめん)の華やかな風呂敷なども絵になりました。
   『大風呂敷を広げる』などの俗語を生んだり、空き巣に入った泥棒が、唐草模様の風呂敷包みを背負って逃げるこっけいな姿にも登場します。
 しかし、紙袋などの普及で「使った事がない」「知らない」という人が多くなったのではないでしょうか?ごみの減量から買い物には袋やかご・風呂敷などを持っていきレジの袋はもらわない使わないという運動が全国的に広まっています。
 愛好家の人たちによって風呂敷が見直され、実用だけでなく、芸術品としても珍重されていることは嬉しいことです。

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ズームイン田名 -55-


< 囲炉裏(いろり)>


 ひと昔前までの生活の中で、『囲炉裏』(いろり)という懐かしい言葉があります。
 別名では『ひじろ』と言いましたが、郷愁をそそる言葉です。漢字では『火代』と書きますが、火を使う神聖な一画という意味だそうです。

 囲炉裏は石油やガスなどが家庭に普及するまでの炊事や、暖房に欠くことのできない所でした。
 煮炊きの主役は土間に据えられた「へっつい」でしたが、囲炉裏はその補助的な役割から、生活に必要な所とされ、入口の土間に続く板の間に作られているのが、一般的な農家の構造でした。
 燃料となるまきは山から切り出しましたが、畑に植えられてあった桑の木の枝も大切な燃料で、松や杉の落葉まで燃やしたこともありました。すすけた天井のむきだしのはりからつられた自在かぎに、鉄瓶がたぎっている炉火を囲む冬の団らんは、農家の中心となる場所でした。
 母が焙烙(ほうろく)でいってくれた殻付きの南京豆をむきながら聞く父や母の昔話は、わらべ歌にもあるような楽しい記憶として残っています。こうした一家の団らんもさることながら、この炉端は隣近所の人たちとの交流の場でもあって、赤く燃える炉火を囲んで、村の行事の相談や世間話に花を咲かせたところだったのです。
 嫁取り話もいくつかまとまったことでしょう。生活様式の変化から今では囲炉裏を見ることも少なくなり、あの温もりが消えてしまったことは残念なことです。

はずかしき甘藷焼く炉に 客来る 法子
なつかしき炉辺話に 加はりぬ  幸男

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ズームイン田名 -54-


< 蝉(せみ)捕り >


 長い夏休みは子どもたには最高に楽しい時です。そのころになると、セミの声もにぎやかになって、お宮の森や近くの林からは、一日中聞こえていました。
 現在のように既成のアミの無かったころは、針金で作った直径30センチぐらいの輪を竹ざおの先につけ、それにクモの巣を絡めてセミをひっかけて捕っていました。また手ぬぐいで作った袋もアミの代わりになり、それを持って一日中セミを追いかけるのに夢中になっていました。
 セミは地中に数年、地上に出てからわずか一週間ほどで一生を終わる事を考えると捕えることが残酷に感じますが、子供のころはそんな事は考えもしないでセミとりに熱中していました。
 地中から出てくるという概念から、土葬だった死者の再来にからめて、旧盆中のセミ捕りはいけないという言い伝えは、殺傷をいまし戒めた言葉でもあったのでしょう。盆過ぎには余りセミ捕りをしませんでした。
 歳時記を引用すると、俳句の世界では5月ごろに鳴く松ゼミは春、ひぐらしや法師ゼミは秋、その他は夏のセミとして扱かわれていますが、やはり夏が一番似合うように思います。

 ひぐらしや点して暗き 仏陀の灯  幸男
 蝉鳴けり電柱という 石の木  一翠

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ズームイン田名 -53-


< 蛍採り >


 相模川に面して開けた水郷田名(久所;ぐぞ、滝)と、段丘からの湧き水の豊かな八瀬川に恵まれた地域(半在家〜塩田)田名地区は、水とのつながりの深い土地です。

 水といえばすぐ魚を考えますが、もっと素晴らしい蛍という贈り物がありました。古くから水田の開けた水郷田名には用水堀が流れていてこの川が蛍を育ててくれたのです。また、大杉公園の付近を源流として田名の中段を流れる八瀬川も、昭和初期までは自然のままの川だったので、蛍の発生の多く見られ、蛍の川として親しまれてきました。
 風のない静かな水辺の闇の中に、神秘的な光を明減しながら飛んでいる蛍は、幼心に大きな驚きでした。家から50メートルも離れている川から庭に飛んできた蛍を、竹のほおきで追いかけた思い出は遠く何十年も昔のことです。
暗がりで赤いお尻のあたりが青黄に光るのを蛍火といって夏の夜に蚊帳の中に放してその光を楽しんだりしました。子ども心に夢を与えてくれた蛍も、環境の変化や汚染によって、激減しましたが近ごろは環境整備などで蛍がまた戻ってきているという明るいニュースも聞かれるようになり、夢の再来は嬉しいことです。今年も望地河原あたりで蛍の姿を見ることが出来るといいですね。

 草むらに蛍息づく 辺りかな   幸男

『協力 郷土懇話会』


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ズームイン田名 -52-


< 一つ目小僧 >


 関東、東北地方の伝説に額に目が一つだけの怪物が、12月8日に訪れて来るといわれる風習があり、田名でも昭和30年代中ころまでその風習が残っていました。
 別名「八日僧(ようかぞう)」といって、整理整頓されてない家を訪れて不幸をもたらしたり、悪さをする子どもたちを誘拐するといわれました。
 この一つ目小僧が立ち寄らないように各戸では*とんぼ口に*芋振りみ箕けい、大きな竹かごなどを置いて家の中に入らないようにしました。
 これらかごには目(編み目)が沢山あるので、一つ目小僧はびっくりして逃げるといわれ、また囲炉裏では小僧の嫌いなとげがあり、燃やすと香りがする俵グミの枝を燃やしたりしました。
 家の外には履物などがあるとそれに焼印を押され使えなくなるともいわれ、当日は家の周りを整理して履物などは全部家の中に入れておくようにいわれました。
 親の言うことを良く聞かないと八日僧に連れて行かれると言われ、この日は本当に怖かったものです。
 親が子どもたちのしつけのためにこの日を利用したのでしょうか。
 当時の田名は今のように防犯灯もなければ、木々も多く夜になると真っ暗となり、一つ目小僧の話は恐ろしかった思い出があります。12月の田名の風物詩でした。

 ※とんぼ口…玄関を出た所
 ※芋振り箕けい…芋を洗う竹で出来たかご 

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ズームイン田名 -51-


< 思い出の運動会 >


 運動場に引かれた白線、晴れ渡った空にはためく万国旗。見慣れた小学校の運動会の風景です。今では体育祭と言われるようですが、昔なじみの「運動会」と言う方が親しみがわきます。
 大陸から張り出した高気圧のもたらした青空の下、暑くも寒くもないこの時期、体育教育のまとめとも言える運動会は、学校あげての行事として続けられてきました。
 そして、様々な思い出と歴史を刻んできました。

 昭和の初めのころは、戦時中でしたから戦意高揚を図るゲームとして騎馬戦が取り入れられたり、陸軍飛行学校の兵隊さんが来て、とんぼ返りや空中転回などを見せてくれるプログラムもありました。
 当時、運動会での子ども達の服装はまちまちで、今の様に同じ運動着を着てはいませんでした。男子はダブダブのパンツ、女子はブルマでした。靴もはだしたびや競技種目によっては素足で参加していました。
 学年別に距離の違うかけっこや班別リレー、クラスごとのダンスが主流の運動会でしたが、長い年月のうちには時代の移り変わりによって内容にも変化がありました。
 戦後、東京オリンピックを記念して、10月10日に「体育の日」が制定されてからは、学校ばかりでなく、市民の運動会も盛んになり、地域の行事として今でも続いています。
 この地域運動会にも変転があって、仮装行列や消防団の放水演技などを見ることもありました。
 長い間中断されていた八幡様伝統の獅子舞の復活初演もこの運動会でした。

 運動会 反り身に農夫 力走す   一竿子
 鈍足は 親のゆずりや 運動会   幸男

『協力 郷土懇話会』


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ズームイン田名 -50-


< 夏祭り・天王様 >


 梅雨が明けて夏の太陽が輝いてくると、夏祭りの時期になります。
 地域によって違っていたようですが、天王様と言われて、昔から決められていた田名の祭りの日取りは7月15日でした。

 畑作を主とする地方では、夏作物の手入れの一段落する時期をもとに決められていたようです。
 養蚕から始まって麦の収穫、さつまいもや陸稲(おかぼ)の除草、中耕などの終わった農作業の中間点でしたから、この天王様という行事は、束の間のまた天下晴れての休息日だったのです。
 同時に触れ合いを深める場でもあって、山車(だし)をひき、神輿(みこし)を担いで、汗だらけの体をぶっつけ合い、お神酒(おみき)を頂くと称してお酒も存分に飲め、普段はあまり食べたことのない祭料理を頂けるのも祭りのお陰でした。
 また、家庭内では女衆の腕の見せ所ともいえる酒饅頭(さかまんじゅう)作りがありました。
 祭りに欠くことの出来ない酒饅頭は、醗酵させた酒麹(こうじ)で小麦粉を練り、あんこを入れて作るのでしたが、醗酵の度合いが難しく、長年の経験を必要としたようです。秘伝は祖母から母へ、嫁へと受け継がれて、家内和合にも一役買っていたようです。
母の作った饅頭を親戚へ配るのは子どもたちの役目で、お小遣いの貰えるのを楽しみに、遠くの親戚まで自転車で配って回りました。

 路地親し   祭り料理を  やりとりし 迪 子

 もてなしに  田舎饅頭   夏祭    幸 雄 

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ズームイン田名 -49-


< 魚とり >


水温む5月ともなれば、子どもたちの遊びに魚とりがありました。
田名地区では相模川、水田用水路、八瀬川(もみじ川)などで昔は多くの子どもたちが魚とりに夢中になったものです。
魚とりの道具

魚とりの道具


八瀬川のせき

八瀬川の堰

上田名あたりの子どもたちは主に八瀬川が遊び場で、ここではウナギ、ドジョウ、八目ウナギ、オバク(仏ドジョウ)、ハヤ、フナ、鯉、エビ、沢ガニ、ズガニなど色々な種類の魚がとれました。 時にはヤマベ、イワナなども捕れ、公民館脇の八瀬川(現在川はふたがしてあり見えない)では魚が群れて泳いでいるのが見られました。
魚とりは、水を堰き止めて下流の魚をとる瀬干しや、ザルや肥箕を使うすくい捕り、竹で編んだ『ど』を仕掛けたりと方法はさまざまでした。
道具は子どもなりに色々と工夫をして作りました。
夏になると水田の堰で泳いだりもしましたが、だんだん川が汚れ魚の姿も減り、釣りや泳ぐ事もなくなりました。
最近になり下水道の完備などで少しづつ川も綺麗になって来ましたがもっと綺麗になって昔のように魚やホタルが戻り、子どもたちが川で遊べるようになると良いですね。

≪取材に行って≫
堰を探して塩田方面に行って来ました。田名バーディゴルフ近くに小さな小川を見つけました。魚が水に跳ね、みずすましがスイスイ、目を凝らせば川底にハヤの姿が、思わず「はやっ!」まだまだ自然がいっぱい。捨てたものではありませんね。

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ズームイン田名 -48-


< お月見 (つきみ)>


 陰暦8月15日の夜の月は、中秋の名月といわれ、一年で最も明るく澄んで美しいといわれて、昔から賞され祀(まつ)られてきた「お月見」という風習があります。
 季節の野菜や果物をそなえたのは、その年のの収穫を祈って行った農耕礼儀の名残だろうと思われます。
 御月見の日には、縁側にススキや女郎花(おみなえし)などの秋の花を飾り、団子やおまんじゅう・栗・里芋・さつもいも・ ・枝豆などの野菜を供えて祀り、名月を楽しみました。
 供え物には決まりのようなものがあって、ススキは5本、里芋は15個、さつまいもは5本などとなっていました。
 子どもの世界でも、お月見を楽しむ行事がて伝えられていて、当日になると『宿』と言われる上級生(5・6年生は団子親方と言われた)の家に集まります。 指示に従って班に分かれて家々を廻り、供えられた団子や果物を頂戴して、皆で分け合って食べます。 それから、手作りの「ちょんまげ」や竹製の刀などで、即席の演芸を披露したり、皆で歌を歌ったりして、月の夜を楽しむのでした。
 田名では、昭和20年韓0年頃まで行なわれていました。また、15夜の後の28日目に訪れる月を13夜といって、15夜と同じように祀りましたが、供え物の数が違い、 ススキは3本、サツマイモは3個、里芋も八つ頭に変わって3個というように3という数字にこだわっていたようです。

出来秋の 幸くさぐさに 月祀る 桑条

風流の 心にあおぐ *望(もち)の月 桑条 *望(持ち)は、満月のこと

『協力 郷土懇話会』


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ズームイン田名 -47-


< 凧揚げ (たこあげ)>


凧揚げという遊びの歴史は古く、平安時代から行なわれていたと言われています。子供の遊びになったのは江戸時代に入ってのことで、もとは村と村の凧合戦などという大人の行事で、年占いや魔除けの意味があったといわれています。
凧揚げというと冬のものと思われますが、俳句の歳時記にもあるように春の行事だったようです。

祝い凧 端午の風をよろこべる 桑条

田名も5月の節句の頃に揚げていました。子どもの健やかな成長を願ったものと思われます。
小づかいを貯めて『やっこ凧』や『とんび凧』などを買いましたが、自分で作る楽しみもありました。太い真竹を細か(3〜5ミリ)割って薄く削り、横30・縦50センチぐらいの長方形に作ります。 それに障子紙などの和紙を貼りつけて,龍という字や好きな絵を描きました。一番難しかったのは糸目の付け方で、角度が合わないと上手に揚げられませんでした。
自分で作った『四角凧』を、草の青くなった田んぼや野原で揚げた時に、風を感じた糸の感触は、子ども心に夢を与えてくれたものでした。
新戸の日本一大きいと言われている八間(約15メートル)四方の大凧やこれに匹敵する座間の大凧も、この時期に揚げられる伝統行事で、保存会の人たちの努力で現在も続けられています。

凧揚げ


「相模の大凧センター」には、全国のさまざまな凧が展示されています。

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ズームイン田名 -46-


< シャボン玉 >


石鹸玉(シャボン玉)遊びは、石鹸水を麦藁や細竹、ストローなどの管の先に付け、息を吹いて遊ぶものです。上手に吹くと大きな玉が出来てなかなか楽しい遊びです。
明治になって石鹸が使われるようになるまでは、むかごの液を使って楽しみました。
これと言う遊びのなかった頃、母親からもらった石鹸を薄く削って作った石鹸水でシャボン玉遊びをしました。弟や妹たちと縁先に並んで吹きっこをしては大きさや数を競ったものです。 
陽を浴びて虹色に輝くシャボン玉が青空に吸い込まれて行くのを歓声を上げて見上げていました。 シャボン玉の表面に浮き出てくる色彩の変化は、なんとも言えない美しさがあって子ども心をくすぐってくれました。 シャボン玉は楽しく過ごした子どもの頃の記憶を呼び戻してくれる単純な遊びですが、はかなく弾けて消えるところも子どもの夢に似て懐かしいものです。

『協力 郷土懇話会』


♪♪シャボン玉飛んだ
 屋根まで飛んだ
 屋根まで飛んで
 こわれて消えた
 風かぜ吹くな
 シャボン玉飛ばそ♪♪

シャボン玉の様子

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ズームイン田名 -45-


< 石けり >


石けりの様子  今のように遊び道具もあまりなく、お小遣いももらえなかった頃、手軽に長い時間楽しく遊べたのが「石けり」でした。

 石けりは、ちょっとした空き地は必要でしたが、農家の庭やお宮の境内、お寺の庭などが格好の場所だったので、天気さえ良ければ集まって遊びました。
 地面に丸を一つ二つと交互に書いたり、大きな四角を書いていくつかに仕切った中に石を投げて、片足跳びや両足跳びをして進みながら石を拾って来ます。一番に投げ入れた石を「ケンパ、ケンパ、ケンケンパ」と言いながら他の場所を跳んでから帰りに拾うものや、一番、二番、三番と蹴りながら進んでいくものなど遊び方は様々でした。

 これに使う石は、中にはガラス製の玉を持っている子もいましたが、ほとんどの子は河原などで丸くて平たいちょうど良い大きさの石を拾っては使っていました。大事な遊び道具でしたから、それこそ宝物のように磨いたりして使いました。

 石蹴りの遊びの路地の冬うらら  桑条

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ズームイン田名 -44-


< まりつき >


 昭和30年代の女の子の外の遊びにまりつきやゴム跳び、石けりなどがありましたが、なかでも、まりつきは特に人気のある遊びでした。
天気の良い日には、学校から帰ってすぐに、いつもの場所に集まってまりをついて遊びました。
 まりは、当時、「じゅうちゃん店」や「坂下」などと呼ばれていたお店で買うことが出来ました。子ども達は、校庭や良く陽があたって小石などがなく、平らで踏み固められた農家の庭先などで遊びました。

♪あんたがたどこさ肥後さ
 肥後どこさ熊本さ
 熊本どこさ船場さ
 船場山には狸がおってさ
 それを猟師が
 鉄砲で撃ってさ
 煮てさ焼いてさ食ってさ
 それを木の葉で
 ちょいとかくせ♪

と歌われる手まり歌に合わせて、まりを片足にくぐらせたり、体を一回転させたり、最後に「ちょいとかくせ」と歌いながら、スカートの中にすっぽりと入れるなどして遊びました。
 女の子は、まりをつきやすいように、スカートの前をパンツのゴムにはさんだりして技を競い合いました.
《時代》
 ゴム製のまりのない頃は、芋がらやこんにゃく玉などを芯にして布でくるみ、糸を巻いて球形にしたものを使っていました。このまりは、あまり弾まないので、室内で座って楽しむ遊びでした。
 母親は、普段から心がけて、縫い物などのあまった糸くずをとっておき、子ども達にてまりを作ってあげたものでした。
良く弾む軽いゴムまりの出現は、子ども達の遊びを一層楽しくしてくれました。しかし、最近では、まりつきをする子ども達の姿を見かけなくなってしまいましたね。

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ズームイン田名 -43-


< 竹の遊具 >


 昔から伝わる遊び道具に竹を使った物がいくつかあります。水鉄砲、竹とんぼ、竹馬などが代表的で、丸竹を加工して紙火薬を爆発させる竹鉄砲や、2つに割った竹で雪の上を滑る竹スキーなどもありました。
 今ほど物の豊かでなかった頃は、身近にある物を利用して自分たちで考え工夫して遊びました。
 水鉄砲は、竹筒の一端を残した節に小穴を開け、反対側から布を巻きつけた棒を差しこんでポンプの原理で水を吸い上げ、それを押し出して飛ばします。いかに遠くへ飛ばすか穴の大きさを加減したり、節間の長いものを選んだり、工夫しました。
 竹とんぼは、長さ10〜12センチ、幅2センチぐらいに竹を割りプロペラのように削り、真ん中に細く削った柄を付けます。プロペラ状にする角度と薄く削ることが大切で、加工にちょっとした技術を必要とし、切出しナイフで指を切ったりしながらも上手に作りました。
 柄を両手で擦り合わせ、回転させることによって、空中に飛ばす事が出来ます。
 この、竹とんぼという遊び道具は享保の頃(1720年代)に考えられたものだそうです。

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