ズームイン田名 -42- 平成15年5月
< 独楽まわし >
男の子の外の遊びの代表的なものに独楽(こま)まわしがあります。 俳句の歳時記では、凧上げなどと一緒に正月の遊びとされていますが正月にかぎらず、いつでもどこでも手軽に遊ぶことが出来ました。 |
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独楽は種類がいろいろあ って、日本で最も古いといわれているのは、胴が竹で出来ていて、回りながら音を出すように作られ「ぶんぶん独楽」と言われています。 江戸時代になって木の胴に鉄の輪をはめ、鉄の棒を芯にした「鉄胴独楽」が出来て、昭和になってもそのまま伝えられて独楽の代表になっているようです。鉄製で丈夫でしたから、ぶっつけ合って相手の独楽をはじき飛ばす遊びが子どもたちには人気がありました。また鉄の輪がはめてありますから遠心力によって回る時間が長いので、時間を競う遊びにも使われました。 最も素朴な独楽といえば、ドングリに爪楊枝(つまようじ)の心棒を付けた「木の実独楽」や穴の開いているお金に心棒をつけた「銭独楽」などもありました。また桶(おけ)やバケツに布を張って回す「貝独楽」と呼ばれるものもあります。 友だちと回して遊ぶほかに、読んで字のごとく独(・)り楽(・)しむことも出来る独楽をこれからも楽しみましょう。 |
ズームイン田名 -41- 平成15年3月
< お手玉 >
大正から昭和の初めの子どもたちの遊びや行事を、振り返ってみましょう。今回は囃子歌(はやしうた)に合わせて遊んだお手玉です。遊び方や囃子歌は土地によって色々だったようです。 お手玉遊びというと、素朴で単純な手先の遊びですが、やってみるとなかなか難しいものです。 複数のお手玉を両手で交互に投げあげ、歌に合わせて落とさずに何回できるかを競う遊びです。 慣れないうちは2個から始め上手になると3個、4個と数を増やし片手でも繰り返し出来る名人組の子もいました。また、4、5個まとめて放りあげて手の甲に乗せたり、さらに投げあげてつかみ取った数を競うなどの遊び方もありました。 囃子歌で、よく歌われたのは川中島の戦いの歌でした。縁側やこたつで、お母さんに作ってもらったきれいな色のお手玉を持ち寄っては楽しく遊びました。 妻良山(さいりょうざん)は霧深し 千曲の川は波荒し はるかに聞こゆる物音は 逆巻く水が つわものか (中略) 川中島の戦いは 語るも聞くも 勇ましや |
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ズームイン田名 -40- 平成14年12月
< 赤ちゃん誕生 七五三 >
十月十日(とつきとうか)の月満ちてといわれるように妊娠から約300日、待ちに待った赤ちゃんの誕生です。 現代のように設備も整った衛生的な産院や、無痛分娩などの医学も進歩していなかった時代のお産は大変なことでした。 出産のほとんどが自宅で行われていたころ、産室には奥の部屋や納戸などがあてられ、縁起をかついで南向きに布団を敷いたそうです。 陣痛が始まると、産婆さんを迎えに走ったり、大きな釜にお湯を沸かしたり家中で大騒ぎでした。また、だんなさんは産婦と共に苦痛を分け合うということから、重たい臼(うす)を抱えて家の周りを回るものだとも言われました。 元気な産声をあげて生れた赤ちゃんはお産婆さんや、助産婦さんによって取り上げられました。お産婆さんや助産婦さんのいなかったころは、出産経験の多いお年寄りや仲人夫人にお願いしていたようです。 このころは、金物を忌(い)み嫌うと言う事で、へその緒は竹製のへらで切ったそうです。親子をつないでいたへその緒を切ることで、初めて世の中に生れ出たということになります。(へその緒は、大切にとっていたりしました。)次に産湯に入れますが、嫁入り道具として持参した、たらいにお湯を満たして新生児の体を洗い清めます。お嫁さんの実家から届いた着物を着せますがこの生まれて初めて着る着物を産着といいます。 生れてから七日目を「お七夜」といい名前を付ける祝いが行われます。30日ころには「産屋明け」方言では「オビアケ」といわれて氏神様へ初参りをして、赤ちゃんの成長と幸せを願いました。 |
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ズームイン田名 -39- 平成14年10月
< 赤ちゃん誕生 出産 >
十月十日(とつきとうか)の月満ちてといわれるように妊娠から約300日、待ちに待った赤ちゃんの誕生です。 現代のように設備も整った衛生的な産院や、無痛分娩などの医学も進歩していなかった時代のお産は大変なことでした。 出産のほとんどが自宅で行われていたころ、産室には奥の部屋や納戸などがあてられ、縁起をかついで南向きに布団を敷いたそうです。 陣痛が始まると、産婆さんを迎えに走ったり、大きな釜にお湯を沸かしたり家中で大騒ぎでした。また、だんなさんは産婦と共に苦痛を分け合うということから、重たい臼(うす)を抱えて家の周りを回るものだとも言われました。 元気な産声をあげて生れた赤ちゃんはお産婆さんや、助産婦さんによって取り上げられました。お産婆さんや助産婦さんのいなかったころは、出産経験の多いお年寄りや仲人夫人にお願いしていたようです。 このころは、金物を忌(い)み嫌うと言う事で、へその緒は竹製のへらで切ったそうです。親子をつないでいたへその緒を切ることで、初めて世の中に生れ出たということになります。(へその緒は、大切にとっていたりしました。)次に産湯に入れますが、嫁入り道具として持参した、たらいにお湯を満たして新生児の体を洗い清めます。お嫁さんの実家から届いた着物を着せますがこの生まれて初めて着る着物を産着といいます。 生れてから七日目を「お七夜」といい名前を付ける祝いが行われます。30日ころには「産屋明け」方言では「オビアケ」といわれて氏神様へ初参りをして、赤ちゃんの成長と幸せを願いました。 |
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ズームイン田名 -38- 平成14年8月
< 結婚式 >
周囲の人々から祝福されて華やかに行われた嫁取り、嫁入りと言われた結婚は、今でも式場案内にその名をとどめているように、昔から何々家、何々家のご祝儀と呼ばれていました。 |
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結婚は当人同士の気持ちも大切でしたが、それよりも、家と家との結び付きを重要視した時代がありました。 従って結婚した当人たちは、何々家の跡継ぎを生むという大きな努めがありました。嫁入りしてからできるだけ早く、子宝に恵まれることを願って、子授け地蔵、子育て地蔵に祈願などしました。 昔から妊娠を喜ぶ祝いごとに「帯祝い」がありますが、これは妊娠5ヵ月目に行われ、動物の中ではもっともお産が軽いという大に縁起をかついだものです。 干支(えと)の「戌(いぬ)の日」に岩田帯と呼ばれる腹帯を巻いて妊娠を祝います。両親、仲人夫人、お産婆さんたちが招かれます。お嫁さんの実家からは7尺5寸3分(約2・35メートル)の晒(さら)し布、かつお節、昆布、麻などの縁起物の他におむつ用の反物、赤飯などが届きます。仲人夫人の手によって妊婦のお腹に岩田帯が巻かれますが、この帯は妊婦の肌を浄めるとか、胎児を保護するなどの意味があるそうです。氏神様から頂いてきた安産のお守りを縫い付けるなども行われました。 この『帯祝い』という祝いごとは人生儀礼のなかで、忘れてはならない習わしの一つといえるでしょう。 腹帯は絹地とさらし木綿を妊婦の実家から贈られ絹地は産着に、木綿地はおむつや肌着に利用しました |
ズームイン田名 -36- 平成14年7月
< 結婚式 >
昭和30年ころまでは自宅で式をあげることが多かったようですが、手間も時間も掛かりとても大変なので、しだいに手軽に借りることのできる式場を使うように変わってきました。 いよいよ結婚式当日です。 婿方より迎え人客5~13人程度を差し向けます。初めに嫁方の仲人家に立寄り接待を受けます。その後、仲人の案内に従い先方(嫁方に到着ヽあいさつの後迎えに参上した趣旨を述べます。座に着き先方の歓迎を受けますがなるべく簡単に済ませ、案内役として一人を残して帰宅します。そして婿方では本番の送り人客の到着を待ちます。 嫁方も当方の仲人家へ寄りますが、都合により省(はぶ)いて婿方で引き出物を渡すこともあります。お供は嫁の持参する道具類一式を当日または別の日に持参します。 先方へ到着すると、玄関先で*松明(たいまつ)とぼしという男女の子どものもつ藁(わら)の松明をまたぎ、嫁ぎ先の家へ入ります。 |
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式のはじめは紹介式(双方の出席者の紹介)、引出物提出後、三三九度(近所の子どもに頼んで男蝶(おちょう)、女蝶(めちょう)の役割をしてもらう)次に親子盃、兄弟盃の取り交わしをして一応の式を終わります。 さて式が終わると袴を脱いで相伴(しょうばん)(司会)の音頭で無礼講が始まり、夜を徹して飲めや歌えや賑やかに朝まで続きます。嫁御(よめご)は近所から始めて親戚まで挨拶まわり(つぎめとも言う)が何日も続きます。 こうした手間暇の掛かる結婚式は、大抵が農閑期を利用して行われるのが常識となっていました。 *松明とばし・・・火の中にも3年我慢(がまん)することの意味 |
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白井喜美子さんの嫁入り話 昭和22年、20歳で下溝古山から田名の塩田に嫁ぎました 。 花婿とは結納の日が初めての顔合わせで、こうした事は当時はよくあることでした。どんな人なのかとても気になり、障子のすき間からのぞいてみたりしました。 式当日、嫁入り道具は牛車2台に乗せお供のつきそいで先に家を出ました。私は嫁入り先まで花嫁衣装で歩いて行きました。当時の履物は畳付けの下駄で、塩田までの3キロの道をやっとのことで歩きました。玄関前では、松明(たいまつ)がたかれていて、蛇の目の傘をかぶった私は、松明をまたいで中に入りました。座敷にはひと足早く着いた私の嫁入り道具が整然と飾られ、とてもきれいでした。2人向かい合わせで座り、上座には仲人が座りました。親子かための盃のあと、三三九度の盃を近所の男の子と女の子が花婿と花嫁に代わるがわる酒をついでくれました。最後に仲人につぎますが、それは2人のことはどんなことでも、面倒を見るという事だそうです。 昔は祝儀でもないとお酒はたくさん飲めなかったので、お客は吐くまで飲んだそうです。歌を歌ったり踊ったり大騒ぎでした。 じっと座って下を向いている私は早く終わらないかとそればかり気にしていました。 |
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ズームイン田名 -36- 平成14年5月
< 昭和前半期の結納 >
人生儀礼の中で結婚の比重は大きく、長い歴史の中でその時々時代に合わせて変化をしてきました。近ごろはずいぶん簡素化されていますが、大正時代の不況の時期には娘3人持つと身上(しんしょう)つぶすとまで言われました。 昔は式の進め方も繁雑(はんざつ)で、その多くが家庭において行われていましたが、現在は別の会場で式も披露も簡単にしかも気軽に行われるようになりました。 昭和の初期から戦後にかけての一般的な結納と結婚式の様子を2回に分けて取り上げます。 家柄や経済状況、年まわりなどの見合った男女を橋掛け人と呼ばれる人が取り持ちます。うまく話しがまとまると縁談の成立となり仲人、結納、結婚式の日取りなどが決められます。 仲人は両仲人で地位や教養の高い人に依頼しました。 それでは、結納の受け渡しを紹介します。 |
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媒酌人(使者)は婿方へ出向きます。「今日はお日柄もよろしく誠におめでとうございます」とあいさつを交わします。縁起を担いで昆布茶・桜湯を出す風習もあります。そして、結納品・家族書・親族書を媒酌人の前にすえて、父親は「今日は結納賜りにつきましてお役目ご苦労様に存じます」媒酌人は「かしこまりました。ただ今より参上いたします」と答礼の後ただちに嫁方に出かけます。 嫁方では媒酌人と父親が向かい合い、嫁は父の下手に控えて着座します。媒酌人は持参した結納の品々を白木の台に順序通り飾り上げます。 媒酌人は「本日はお日柄もよろしくお約束の印として結納を持参しました。なにとぞ幾久敷芽出(いくひさしくめで)たくご受納下さい」「ありがとうございます。そのうえ結構なお結納の品々をいただきまして厚くお礼中し上げます。幾久敷受納致します」本人(嫁)も「ありがとうございます。○○様によろしくお伝え下さいますように」とそれぞれのあいさつを済ませた後に、結納の品々を床の間に飾り無事結納は終りになります。 |
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結納品の意味 目 録・・・結納品の品名や数を記したもの 長髪斗(ながのし)・・・あわびを干して長く延ばしたもの のしあわびは長寿の象徴とされている 金 包(きんぽう)・・・結納金を包んだもの 関東地方では男性から「御帯料」女性からは「御袴(はかま)料」として同日に交換する 松魚節(かつおぶし)・・・かつお節。勝男武士(かつおぶし)とも書く 男性の剛毅(ごうき)を象徴したもの 寿留女(するめ)・・・するめ 幾久しくという意味とかめばかむほど味が出る嫁と言う意味もある 子生婦(こんぶ)・・・こぶのこと 子宝に恵まれるようにと言う意味「よろこぶ」にもつながる 末 広・・・純白の扇子 純真 無垢(むく)と末広がりの意味 友志良賀(ともしらが)・・・白い麻糸 ともに白髪になるまで仲むつまじくという意味 家内喜多留(やなぎだる)・・・祝い酒のこと 実際に酒樽を贈る地方も柳樽とも書く その家に福多からんことを祈る |
ズームイン田名 -35- 平成14年3月
< 薬師如来 >
鎌倉時代から、田名に伝わる網上薬師瑠璃光如来像(あみあげやくしるりこうにょらい)について紹介します。 |
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滝の宗祐寺境内にある薬師堂には網上薬師瑠瑞光如来像が奉(まつ)られています。この薬師如来は鎌倉時代の末期(1330年)に現在の田名堀之内の崖端に建っていた薬師堂に安置されていたものです。 その由来については、宗祐寺境内に昭和55年10月に建立された如来堂建立由来の碑文に次のように記されています。 それによると鎌倉時代末期、田名村・滝の四郎兵ヱなるものが相模川に船を浮かべ網を打ったところ木像の物体がかかったという。これを流れ戻して場所を変えたが打つたびごとに入るので不思議に思い一応持ち帰った。その夜、身の丈1尺2寸(約36センチ)の仏体より霊光を発し荘厳きわまりないお姿に驚き夜の明けるのをまって付近の宝永寺の法師のもとに持参した。法師はこれを拝し、健康長寿に霊験あらたかな薬師如来であることを告げた。そこでさっそく崖端に薬師堂を建て安置した。 その後薬師如来の木像は明治維新の仏寺の整理統合によって明治30年4月6日宗祐寺本堂に移されました。旧薬師堂は他の地域に譲渡され、境内の樹木及び土地は村内に払い下げられました。 また、田名村明細差出帳によると薬師堂は宗祐寺抱え(守るという意味)と記されています。 この薬師如来は、毎年10月12日と22日の例祭にご開帳されています。一度見にいかれてはいかがですか。 薬師如来は衆生(*しょうじょう)の病気を治し、安楽を得させる仏として仏教伝来以降本尊として病気平癒(へいゆ)と災厄(さいやく)の除去など広く信仰されてきました。 *衆生・・・生命あるもの、人間を始めいっさいすべての生物をいう。 |
ズームイン田名 -34- 平成14年1月
< 地蔵菩薩 >
地蔵信仰の発祥はインドで、地蔵菩薩は釈迦入滅(しゃかにゅうめつ)(死去)後、無仏となった期間、六道(*)で苦しむ衆生(いっさいの生物)を教化救済したのが菩薩で、わが国には奈良時代に伝えられたが本格的な普及は平安時代末期以降に広く信仰されるようになったといわれている。 高さ40センチの台座に建立されている身の丈120センチの地蔵様は1695年(元禄8年)念佛供養一体として村人13人によって奉建されている。 上組講中の歴史を見ると、甲斐の武田家滅亡の時、遺臣渡辺人道是念がこの地に土着し先祖になったと言う。安土桃山時代の1582年(天正10年)から数えて113年目のことである。 |
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地蔵様の信仰は範囲が広く、延命地蔵、田植地蔵、帯解(おびとき)地蔵、刺抜(とげぬ)き地蔵等異名をもつ地蔵様が民衆によって各地に剔出されているが、新宿では子育て地蔵として親しく呼ばれている。 地蔵様と子どものつな がりは古く、子どもの守護との結びつきも深い。地獄の入り目という賓(さい)の河原の信仰と道祖神の信仰と結び付き地蔵様は村のつじとか村はずれに置かれている。地蔵様に赤いよだれかけをかけ祈ることで、悟る間もなく幼くして亡くなった子どもの救いを親は地蔵様に求めた。 新宿地区に残る逸話 激しく泣き叫ぶ赤子の声が毎夜続くことに異変を感じた村人たちは、救いを求め地蔵様に願かけをしたところ地蔵様の首が無くなっていることに気が付いた。村人によって発見された首を元の位置に納め祈願したところ赤子の泣き声がぴたっとやんだという。 *六道とは、地獄道・餓鬼 道・畜生道・修羅道:人 間道・天道、前の三つを 三悪道、あとの三つを三善道という。 |
ズームイン田名 -33- 平成13年10月
< 石神社 >
石神(いしがみ)は主に関東、中部地方で石を神体として祠(ほこら)を造り信仰され、良縁・安産・治癒の神としてセキ(石)、カゼ、耳だれ、いぼとり、さらに旅の安全守護を願い、賽(さい)の神、道祖神などと共に地区の外れや、つじに祭ったものです。 四ツ谷地区の南東に位置する石神社は、昔から地区の守護神として信仰されています。 ここには多くの石造物がありますが、石神社の本神は、経津主の神(ふつぬしのかみ)で、日本書紀によると、盤筒神(いわつつのかみ)の子で、出雲の国づくりに活躍し、国を平定したと伝えられています。刀剣の神として信仰され、千葉県佐原市にある香取神社に祭られています。 |
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石神社の祠は、1766年(明和3年)に建てられましたが、度重なる地震などで傷みがひどく、昭和48年9月に立派な祠が再建されました。 敷地内には、地区内の石造物がたくさん集められています。1794年(寛政6年)の二十三夜塔・大山道の道標、1805年(文化2年)の3ヵ所橋供養塔、1850年(嘉禾3年)の秋葉頭・六地蔵、1863年(文久3年)の地神塔・庚申塔、1873年(明治6年)の観音供養塔など多くの石造物を見ることができます。石神社の祭礼は、以前は9月3日に行われていましたが、最近は9月の第一土曜日に行われるようになりました。 |
ズームイン田名 -32- 平成13年8月
< 供養塔 馬頭観世音 >
田名地区を歩いていると道端や屋敷の隅、地区はずれなどに「馬頭観世音」(ばとうかんぜおん)という小さな供養塔をみかけます。田名地区には60余基あります。 馬頭観世音のほとんどが個人で建立したものです。 大切な働き手でもある馬を家族同様大切に愛情を込めて飼育していましたので、馬が病死や事故死などしたときに供養のために建て無病息災を祈願したものです。 頭上に馬頭をいただいて憤怒(ふんぬ)の相をなした変化観音や馬頭を直接頭にしたもの、馬頭観世音と字だけのものなどを馬頭明王ともいい馬の保護神として特に江戸時代に広く信仰されました。 半在家のものは山王神社に6基と、個人の所有地に5基があります。確認できる古いものは、1836年(天保6年)から、新しいものは1951年(昭和26年)までありますが明治年間のものが主で、菩薩像(ぼさつぞう)のあるものが3基あります。望地地区では「馬のつくろ場」(*)に11基あります。この名前の由来どおりほとんどがここに集中しています。菩薩像のあるものが1基とあとは字のみの供養塔です。江戸時代後期の1853年(嘉永6年)から1888年(明治21年)までのものがきれいに並んでいます。 明治から昭和に入ると牛も労役として飼っていましたので、馬同様に「牛頭観世音」の供養塔を建てたものが滝、清水地区に残っています。 *馬のつくろ場・・・昔は相模川に橋がなく望地の対岸の六つ倉との間を船などで荷物の運搬をしていたので、相模川の川岸に着いた荷物を背負った馬が、休んだり馬の手入れなどをした場所のこと。 |
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ズームイン田名 -31- 平成13年6月
< 村の守り神『道祖神』 >
道祖神(どうそじん)は道の神、岐(き)の神、塞(さい)の神、性の神ともよび、庚申(こうしん)の神である猿田彦(さるたひこ)を祭ったりして、村の入り口をふさぎ悪霊を退散させ、また縁結びの神としても祭られていました。田名全体では24カ所の道祖神が祭ってあります。 堀之内自治会館の敷地内には大きな陽の形をした石(明治27年建立)などがあります。これらの石は、水郷田名から堀之内に至る坂の上にありましたが、道路拡幅により昭和46年に現在地に移転されたものです。 |
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「でえの坂」にある道祖神塔は昭和9年に堀之内下村講中により建てられたものです。(並んで建っている四角い塔は庚申塔で、1706年(宝永3年)に地域の安全を祈って建立されたもの。この様な庚申塔は田名で28基確認されている。)道祖神塔の後ろに置かれた四角い石は、真ん中がくぼんでいますがこれはさい銭箱のようなものです。どんど焼きの時に子どもたちがこの石を担ぎ、各家を回ってお金を集めたそうです。 昔は各地区のつじにあり信仰されて来た道祖神も、道路事情などにより、最近ではどこでも神社や自治会館などに集められることが多いようです。 塩田の双神像や半在家の男女のものは珍しい形の道祖神として今でも残っています。 道祖神のお祭りは、1月7日に子どもたちが集めたお飾りや門松などを14日に「どんど焼き」でたき上げるものです。7日から14日までの間、集めたお飾りを守るため子どもたちが道祖神の所に 「モロ(*)」を作りそこでお餅を焼いたり、遊んだりしました。しかし、これも昭和30年代ぐらいで中止されてしまいました。 昔、田名では20カ所以上で行っていたようですが現在は道祖神とは関係なく、各自治会などで「どんど焼き」は行われるようになりました。 *一般には室というが、田名の方言でモロといっていた。 |
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ズームイン田名 -30- 平成13年5月
< 徳本行者の念仏塔 >
今から170数年前の江戸時代も後半、文化・文政年間のころである。「南無阿弥陀仏」を唱える旅の憎が相模野の村々を回ったといわれている。「徳本」と名乗る修行儀の唱える念仏は、行く先々で人々の心をとらえ、どこの土地へ行っても徳本の身辺には念仏の輪が広がった。 徳本の生い立ち 浄土宗の名僧といわれた徳本行者(とくほんぎょうじゃ)は1758年(宝暦8年)紀州の国(現在の和歌山県)に生れた。若いころから人里離れた山奥にこもり、念仏修行を重ね諸国を回って各地に念仏を広め、徳本行者と呼ばれるようになった。 徳本行者の足跡を示す石碑が、今も各地に残る「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)六字名号碑(みょうごうひ)である。一風変った書体は、徳本独特の異字体で六字名号の下に「徳本」の二字と○に十字のマークが識別のポイントである。 相模原には徳本が晩年の1804~1817年(文化年間)に訪れたと思われる。 市内には橋本、大島、田名、当麻(たいま)など古寺の境内や道しるべを兼ねて13カ所にそれとわかる徳本名号碑が確認されている。いずれも造立年代は1818~1829年(文致年間)の前半に集中している。相模野の独特な名号碑は徳本が文政元年、61歳で没した後の建立で、徳本念仏講は幕末から明治にかけて盛んだったようだ。当時の世相は、江戸時代の幕藩体制がゆらぐ一方農村においては貧富の差が拡大し社会的不安が流れていた。よりどころを求めていた村人にとっては突如として新しい布教の行者が現れたので、人々は講をつくり競うように名号碑の建立にカネを出し、これに熱狂したと伝えられている。 厳しいおきての中で暮らしてきた村人にとっては、この念仏講が掛け替えのない息抜きの場であったと思われる。 |
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ズームイン田名 -29- 平成13年2月
< 田名中学校の誕生 >
昭和22年5月1日田名中学校は開校しました。 生徒数219人、教職員7人の発足でした。ほとんどの学校が独立の校舎を持つことができず、施設・設備の不足を余儀なくされていました。 田名中学校は、田名小学校の校舎の一部に併置され、普通教室5、事務室1で誕生しました。当時生徒はI、2年生のみで、3年生の希望者は大野北中学校に通学していました。終戦直後の物不足の折から、ガラスの破損や教材、仮具の不足など、戦後の苦難をそのままに受けながらも新制中学校としての仮育が開始されました。 昭和23年4月5日、田名小学校講堂を仕切り仮教室6を増設しました。ところが講堂の仮室は雑音や騒音が筒抜けでほとんど授業にはならず、そのうえ雨漏りがひどくて、天井から雨が降ってくるような始末で想像以上に苦労をしました。 独立校舎建設のための費用は膨大で、戦後の切迫した町財政で予算化することは不可能でしたが、田名地区にどうしても中学校が欲しいという住民の熱意があり、農地の交換分合・篤志家の寄付等により校地を確保することができました。さらに、地域住民には資金の援助(愛郷貯金)・動労奉仕などの協力を得た結果、昭和25年9月1曰田名中学校は現在地に独立開校しました。 当時の中学校生活 家庭生活も学校生活も貧しく不自由な毎日を送っていました。特に、農家の家族労働の大切な力となっていました。そのため、農繁休業が年14曰許されていて養蚕・麦刈り・甘藷(かんしょ)(さつまいも)掘り・麦まきの時には家族の支えとなって働きました。 |
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ズームイン田名 -28- 平成12年12月
< 新宿小学校 >
新宿小学校は昭和59年4月、田名地区で四番目の学校として開校しました。 児童数866人、教職員36人でした。重点目標に「自ら学び最後までやりぬく意思の強い子ども、思いやりのある心の優しい子どもの育成」を掲げ、特色のある学校づくりにチャレンジしました。 教育 初代校長木下章先生が始められたのが「はだしっ子」教育でした。素足で校庭を走り回り、青竹を踏み、水で足を洗うなど自然に素肌で接することでたくましく生きる力を育てようということでした。このことは卒業していった子どもたちにも強く印象に残っているようです。 ちなみにPTA広報誌は「はだしっ子」と名付けられ現在も年3回発行されています。 |
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パソコン 昭和63年4月に新宿小学校はフロンティアスクール*研究推進校に指定されました。パソコンが45台設置され、いろいろな使い方を通して「個を生かす」指導を実施しました。着実に実績を上げ全国に向けた研究発表会を2回開催し、ソニー教育振興財団から優秀校に選ばれました。現在はパソコン教室の他にもフロアにパソコンを設置し子どもたちが自由に使用できるようになっています。 |
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ポニー 平成2年6月23日に北海道からポニーがやってきました。動物の飼育を道して子どもたちに「ふれあい」や「思いやり」の心を育てたいということからでした。 ポニーはラッキーと呼ばれて、子どもたちにはもちろん地域の人々からも親しまれかわいがられています。 ラッキーは色々なところで活躍しますが運動会ではラッキーを先頭に全校生徒の入場行進が行われています。 |
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