ズームイン田名

ズームイン田名 -42- 平成15年5月


< 独楽まわし >

 男の子の外の遊びの代表的なものに独楽(こま)まわしがあります。
 俳句の歳時記では、凧上げなどと一緒に正月の遊びとされていますが正月にかぎらず、いつでもどこでも手軽に遊ぶことが出来ました。


大山独楽
 独楽は種類がいろいろあ って、日本で最も古いといわれているのは、胴が竹で出来ていて、回りながら音を出すように作られ「ぶんぶん独楽」と言われています。
 江戸時代になって木の胴に鉄の輪をはめ、鉄の棒を芯にした「鉄胴独楽」が出来て、昭和になってもそのまま伝えられて独楽の代表になっているようです。鉄製で丈夫でしたから、ぶっつけ合って相手の独楽をはじき飛ばす遊びが子どもたちには人気がありました。また鉄の輪がはめてありますから遠心力によって回る時間が長いので、時間を競う遊びにも使われました。
 最も素朴な独楽といえば、ドングリに爪楊枝(つまようじ)の心棒を付けた「木の実独楽」や穴の開いているお金に心棒をつけた「銭独楽」などもありました。また桶(おけ)やバケツに布を張って回す「貝独楽」と呼ばれるものもあります。
 友だちと回して遊ぶほかに、読んで字のごとく独(・)り楽(・)しむことも出来る独楽をこれからも楽しみましょう。

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -41- 平成15年3月


< お手玉 >

 大正から昭和の初めの子どもたちの遊びや行事を、振り返ってみましょう。今回は囃子歌(はやしうた)に合わせて遊んだお手玉です。遊び方や囃子歌は土地によって色々だったようです。

 お手玉遊びというと、素朴で単純な手先の遊びですが、やってみるとなかなか難しいものです。
 複数のお手玉を両手で交互に投げあげ、歌に合わせて落とさずに何回できるかを競う遊びです。
 慣れないうちは2個から始め上手になると3個、4個と数を増やし片手でも繰り返し出来る名人組の子もいました。また、4、5個まとめて放りあげて手の甲に乗せたり、さらに投げあげてつかみ取った数を競うなどの遊び方もありました。
囃子歌で、よく歌われたのは川中島の戦いの歌でした。縁側やこたつで、お母さんに作ってもらったきれいな色のお手玉を持ち寄っては楽しく遊びました。

 妻良山(さいりょうざん)は霧深し
 千曲の川は波荒し
 はるかに聞こゆる物音は
 逆巻く水が つわものか
          (中略)
 川中島の戦いは
 語るも聞くも 勇ましや

お手玉 お手玉

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -40- 平成14年12月


< 赤ちゃん誕生 七五三 >

 十月十日(とつきとうか)の月満ちてといわれるように妊娠から約300日、待ちに待った赤ちゃんの誕生です。
 現代のように設備も整った衛生的な産院や、無痛分娩などの医学も進歩していなかった時代のお産は大変なことでした。  出産のほとんどが自宅で行われていたころ、産室には奥の部屋や納戸などがあてられ、縁起をかついで南向きに布団を敷いたそうです。
 陣痛が始まると、産婆さんを迎えに走ったり、大きな釜にお湯を沸かしたり家中で大騒ぎでした。また、だんなさんは産婦と共に苦痛を分け合うということから、重たい臼(うす)を抱えて家の周りを回るものだとも言われました。
 元気な産声をあげて生れた赤ちゃんはお産婆さんや、助産婦さんによって取り上げられました。お産婆さんや助産婦さんのいなかったころは、出産経験の多いお年寄りや仲人夫人にお願いしていたようです。
 このころは、金物を忌(い)み嫌うと言う事で、へその緒は竹製のへらで切ったそうです。親子をつないでいたへその緒を切ることで、初めて世の中に生れ出たということになります。(へその緒は、大切にとっていたりしました。)次に産湯に入れますが、嫁入り道具として持参した、たらいにお湯を満たして新生児の体を洗い清めます。お嫁さんの実家から届いた着物を着せますがこの生まれて初めて着る着物を産着といいます。
 生れてから七日目を「お七夜」といい名前を付ける祝いが行われます。30日ころには「産屋明け」方言では「オビアケ」といわれて氏神様へ初参りをして、赤ちゃんの成長と幸せを願いました。

七五三

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -39- 平成14年10月


< 赤ちゃん誕生 出産 >

 十月十日(とつきとうか)の月満ちてといわれるように妊娠から約300日、待ちに待った赤ちゃんの誕生です。
 現代のように設備も整った衛生的な産院や、無痛分娩などの医学も進歩していなかった時代のお産は大変なことでした。  出産のほとんどが自宅で行われていたころ、産室には奥の部屋や納戸などがあてられ、縁起をかついで南向きに布団を敷いたそうです。
 陣痛が始まると、産婆さんを迎えに走ったり、大きな釜にお湯を沸かしたり家中で大騒ぎでした。また、だんなさんは産婦と共に苦痛を分け合うということから、重たい臼(うす)を抱えて家の周りを回るものだとも言われました。
 元気な産声をあげて生れた赤ちゃんはお産婆さんや、助産婦さんによって取り上げられました。お産婆さんや助産婦さんのいなかったころは、出産経験の多いお年寄りや仲人夫人にお願いしていたようです。
 このころは、金物を忌(い)み嫌うと言う事で、へその緒は竹製のへらで切ったそうです。親子をつないでいたへその緒を切ることで、初めて世の中に生れ出たということになります。(へその緒は、大切にとっていたりしました。)次に産湯に入れますが、嫁入り道具として持参した、たらいにお湯を満たして新生児の体を洗い清めます。お嫁さんの実家から届いた着物を着せますがこの生まれて初めて着る着物を産着といいます。
 生れてから七日目を「お七夜」といい名前を付ける祝いが行われます。30日ころには「産屋明け」方言では「オビアケ」といわれて氏神様へ初参りをして、赤ちゃんの成長と幸せを願いました。

出産

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -38- 平成14年8月


< 結婚式 >

 周囲の人々から祝福されて華やかに行われた嫁取り、嫁入りと言われた結婚は、今でも式場案内にその名をとどめているように、昔から何々家、何々家のご祝儀と呼ばれていました。


帯祝い
 結婚は当人同士の気持ちも大切でしたが、それよりも、家と家との結び付きを重要視した時代がありました。
 従って結婚した当人たちは、何々家の跡継ぎを生むという大きな努めがありました。嫁入りしてからできるだけ早く、子宝に恵まれることを願って、子授け地蔵、子育て地蔵に祈願などしました。
 昔から妊娠を喜ぶ祝いごとに「帯祝い」がありますが、これは妊娠5ヵ月目に行われ、動物の中ではもっともお産が軽いという大に縁起をかついだものです。
干支(えと)の「戌(いぬ)の日」に岩田帯と呼ばれる腹帯を巻いて妊娠を祝います。両親、仲人夫人、お産婆さんたちが招かれます。お嫁さんの実家からは7尺5寸3分(約2・35メートル)の晒(さら)し布、かつお節、昆布、麻などの縁起物の他におむつ用の反物、赤飯などが届きます。仲人夫人の手によって妊婦のお腹に岩田帯が巻かれますが、この帯は妊婦の肌を浄めるとか、胎児を保護するなどの意味があるそうです。氏神様から頂いてきた安産のお守りを縫い付けるなども行われました。
 この『帯祝い』という祝いごとは人生儀礼のなかで、忘れてはならない習わしの一つといえるでしょう。
 腹帯は絹地とさらし木綿を妊婦の実家から贈られ絹地は産着に、木綿地はおむつや肌着に利用しました

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -36- 平成14年7月


< 結婚式 >

 昭和30年ころまでは自宅で式をあげることが多かったようですが、手間も時間も掛かりとても大変なので、しだいに手軽に借りることのできる式場を使うように変わってきました。

 いよいよ結婚式当日です。
婿方より迎え人客5~13人程度を差し向けます。初めに嫁方の仲人家に立寄り接待を受けます。その後、仲人の案内に従い先方(嫁方に到着ヽあいさつの後迎えに参上した趣旨を述べます。座に着き先方の歓迎を受けますがなるべく簡単に済ませ、案内役として一人を残して帰宅します。そして婿方では本番の送り人客の到着を待ちます。
 嫁方も当方の仲人家へ寄りますが、都合により省(はぶ)いて婿方で引き出物を渡すこともあります。お供は嫁の持参する道具類一式を当日または別の日に持参します。
 先方へ到着すると、玄関先で*松明(たいまつ)とぼしという男女の子どものもつ藁(わら)の松明をまたぎ、嫁ぎ先の家へ入ります。

松明をまたいで
 式のはじめは紹介式(双方の出席者の紹介)、引出物提出後、三三九度(近所の子どもに頼んで男蝶(おちょう)、女蝶(めちょう)の役割をしてもらう)次に親子盃、兄弟盃の取り交わしをして一応の式を終わります。
 さて式が終わると袴を脱いで相伴(しょうばん)(司会)の音頭で無礼講が始まり、夜を徹して飲めや歌えや賑やかに朝まで続きます。嫁御(よめご)は近所から始めて親戚まで挨拶まわり(つぎめとも言う)が何日も続きます。
 こうした手間暇の掛かる結婚式は、大抵が農閑期を利用して行われるのが常識となっていました。

*松明とばし・・・火の中にも3年我慢(がまん)することの意味


白井夫妻
 白井喜美子さんの嫁入り話
 昭和22年、20歳で下溝古山から田名の塩田に嫁ぎました
。  花婿とは結納の日が初めての顔合わせで、こうした事は当時はよくあることでした。どんな人なのかとても気になり、障子のすき間からのぞいてみたりしました。
 式当日、嫁入り道具は牛車2台に乗せお供のつきそいで先に家を出ました。私は嫁入り先まで花嫁衣装で歩いて行きました。当時の履物は畳付けの下駄で、塩田までの3キロの道をやっとのことで歩きました。玄関前では、松明(たいまつ)がたかれていて、蛇の目の傘をかぶった私は、松明をまたいで中に入りました。座敷にはひと足早く着いた私の嫁入り道具が整然と飾られ、とてもきれいでした。2人向かい合わせで座り、上座には仲人が座りました。親子かための盃のあと、三三九度の盃を近所の男の子と女の子が花婿と花嫁に代わるがわる酒をついでくれました。最後に仲人につぎますが、それは2人のことはどんなことでも、面倒を見るという事だそうです。
 昔は祝儀でもないとお酒はたくさん飲めなかったので、お客は吐くまで飲んだそうです。歌を歌ったり踊ったり大騒ぎでした。  じっと座って下を向いている私は早く終わらないかとそればかり気にしていました。

笹 下駄

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -36- 平成14年5月


< 昭和前半期の結納 >

 人生儀礼の中で結婚の比重は大きく、長い歴史の中でその時々時代に合わせて変化をしてきました。近ごろはずいぶん簡素化されていますが、大正時代の不況の時期には娘3人持つと身上(しんしょう)つぶすとまで言われました。

 昔は式の進め方も繁雑(はんざつ)で、その多くが家庭において行われていましたが、現在は別の会場で式も披露も簡単にしかも気軽に行われるようになりました。
 昭和の初期から戦後にかけての一般的な結納と結婚式の様子を2回に分けて取り上げます。
 家柄や経済状況、年まわりなどの見合った男女を橋掛け人と呼ばれる人が取り持ちます。うまく話しがまとまると縁談の成立となり仲人、結納、結婚式の日取りなどが決められます。
 仲人は両仲人で地位や教養の高い人に依頼しました。
 それでは、結納の受け渡しを紹介します。

やなぎだる
 媒酌人(使者)は婿方へ出向きます。「今日はお日柄もよろしく誠におめでとうございます」とあいさつを交わします。縁起を担いで昆布茶・桜湯を出す風習もあります。そして、結納品・家族書・親族書を媒酌人の前にすえて、父親は「今日は結納賜りにつきましてお役目ご苦労様に存じます」媒酌人は「かしこまりました。ただ今より参上いたします」と答礼の後ただちに嫁方に出かけます。
 嫁方では媒酌人と父親が向かい合い、嫁は父の下手に控えて着座します。媒酌人は持参した結納の品々を白木の台に順序通り飾り上げます。
 媒酌人は「本日はお日柄もよろしくお約束の印として結納を持参しました。なにとぞ幾久敷芽出(いくひさしくめで)たくご受納下さい」「ありがとうございます。そのうえ結構なお結納の品々をいただきまして厚くお礼中し上げます。幾久敷受納致します」本人(嫁)も「ありがとうございます。○○様によろしくお伝え下さいますように」とそれぞれのあいさつを済ませた後に、結納の品々を床の間に飾り無事結納は終りになります。

結納品
結納品の意味

目 録・・・結納品の品名や数を記したもの
長髪斗(ながのし)・・・あわびを干して長く延ばしたもの のしあわびは長寿の象徴とされている
金 包(きんぽう)・・・結納金を包んだもの
            関東地方では男性から「御帯料」女性からは「御袴(はかま)料」として同日に交換する
松魚節(かつおぶし)・・・かつお節。勝男武士(かつおぶし)とも書く 男性の剛毅(ごうき)を象徴したもの
寿留女(するめ)・・・するめ 幾久しくという意味とかめばかむほど味が出る嫁と言う意味もある
子生婦(こんぶ)・・・こぶのこと 子宝に恵まれるようにと言う意味「よろこぶ」にもつながる
末 広・・・純白の扇子 純真 無垢(むく)と末広がりの意味
友志良賀(ともしらが)・・・白い麻糸 ともに白髪になるまで仲むつまじくという意味
家内喜多留(やなぎだる)・・・祝い酒のこと 実際に酒樽を贈る地方も柳樽とも書く
                 その家に福多からんことを祈る

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -35- 平成14年3月


< 薬師如来 >

 鎌倉時代から、田名に伝わる網上薬師瑠璃光如来像(あみあげやくしるりこうにょらい)について紹介します。

薬師如来
 滝の宗祐寺境内にある薬師堂には網上薬師瑠瑞光如来像が奉(まつ)られています。この薬師如来は鎌倉時代の末期(1330年)に現在の田名堀之内の崖端に建っていた薬師堂に安置されていたものです。
 その由来については、宗祐寺境内に昭和55年10月に建立された如来堂建立由来の碑文に次のように記されています。 それによると鎌倉時代末期、田名村・滝の四郎兵ヱなるものが相模川に船を浮かべ網を打ったところ木像の物体がかかったという。これを流れ戻して場所を変えたが打つたびごとに入るので不思議に思い一応持ち帰った。その夜、身の丈1尺2寸(約36センチ)の仏体より霊光を発し荘厳きわまりないお姿に驚き夜の明けるのをまって付近の宝永寺の法師のもとに持参した。法師はこれを拝し、健康長寿に霊験あらたかな薬師如来であることを告げた。そこでさっそく崖端に薬師堂を建て安置した。
 その後薬師如来の木像は明治維新の仏寺の整理統合によって明治30年4月6日宗祐寺本堂に移されました。旧薬師堂は他の地域に譲渡され、境内の樹木及び土地は村内に払い下げられました。
 また、田名村明細差出帳によると薬師堂は宗祐寺抱え(守るという意味)と記されています。 この薬師如来は、毎年10月12日と22日の例祭にご開帳されています。一度見にいかれてはいかがですか。

 薬師如来は衆生(*しょうじょう)の病気を治し、安楽を得させる仏として仏教伝来以降本尊として病気平癒(へいゆ)と災厄(さいやく)の除去など広く信仰されてきました。
*衆生・・・生命あるもの、人間を始めいっさいすべての生物をいう。

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -34- 平成14年1月


< 地蔵菩薩 >

 地蔵信仰の発祥はインドで、地蔵菩薩は釈迦入滅(しゃかにゅうめつ)(死去)後、無仏となった期間、六道(*)で苦しむ衆生(いっさいの生物)を教化救済したのが菩薩で、わが国には奈良時代に伝えられたが本格的な普及は平安時代末期以降に広く信仰されるようになったといわれている。

 高さ40センチの台座に建立されている身の丈120センチの地蔵様は1695年(元禄8年)念佛供養一体として村人13人によって奉建されている。
 上組講中の歴史を見ると、甲斐の武田家滅亡の時、遺臣渡辺人道是念がこの地に土着し先祖になったと言う。安土桃山時代の1582年(天正10年)から数えて113年目のことである。

地蔵様
 地蔵様の信仰は範囲が広く、延命地蔵、田植地蔵、帯解(おびとき)地蔵、刺抜(とげぬ)き地蔵等異名をもつ地蔵様が民衆によって各地に剔出されているが、新宿では子育て地蔵として親しく呼ばれている。
 地蔵様と子どものつな がりは古く、子どもの守護との結びつきも深い。地獄の入り目という賓(さい)の河原の信仰と道祖神の信仰と結び付き地蔵様は村のつじとか村はずれに置かれている。地蔵様に赤いよだれかけをかけ祈ることで、悟る間もなく幼くして亡くなった子どもの救いを親は地蔵様に求めた。

新宿地区に残る逸話
 激しく泣き叫ぶ赤子の声が毎夜続くことに異変を感じた村人たちは、救いを求め地蔵様に願かけをしたところ地蔵様の首が無くなっていることに気が付いた。村人によって発見された首を元の位置に納め祈願したところ赤子の泣き声がぴたっとやんだという。

*六道とは、地獄道・餓鬼 道・畜生道・修羅道:人 間道・天道、前の三つを 三悪道、あとの三つを三善道という。

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -33- 平成13年10月


< 石神社 >

 石神(いしがみ)は主に関東、中部地方で石を神体として祠(ほこら)を造り信仰され、良縁・安産・治癒の神としてセキ(石)、カゼ、耳だれ、いぼとり、さらに旅の安全守護を願い、賽(さい)の神、道祖神などと共に地区の外れや、つじに祭ったものです。

 四ツ谷地区の南東に位置する石神社は、昔から地区の守護神として信仰されています。
 ここには多くの石造物がありますが、石神社の本神は、経津主の神(ふつぬしのかみ)で、日本書紀によると、盤筒神(いわつつのかみ)の子で、出雲の国づくりに活躍し、国を平定したと伝えられています。刀剣の神として信仰され、千葉県佐原市にある香取神社に祭られています。

祭礼の準備
 石神社の祠は、1766年(明和3年)に建てられましたが、度重なる地震などで傷みがひどく、昭和48年9月に立派な祠が再建されました。
 敷地内には、地区内の石造物がたくさん集められています。1794年(寛政6年)の二十三夜塔・大山道の道標、1805年(文化2年)の3ヵ所橋供養塔、1850年(嘉禾3年)の秋葉頭・六地蔵、1863年(文久3年)の地神塔・庚申塔、1873年(明治6年)の観音供養塔など多くの石造物を見ることができます。石神社の祭礼は、以前は9月3日に行われていましたが、最近は9月の第一土曜日に行われるようになりました。

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -32- 平成13年8月


< 供養塔 馬頭観世音 >

 田名地区を歩いていると道端や屋敷の隅、地区はずれなどに「馬頭観世音」(ばとうかんぜおん)という小さな供養塔をみかけます。田名地区には60余基あります。

 馬頭観世音のほとんどが個人で建立したものです。
大切な働き手でもある馬を家族同様大切に愛情を込めて飼育していましたので、馬が病死や事故死などしたときに供養のために建て無病息災を祈願したものです。
 頭上に馬頭をいただいて憤怒(ふんぬ)の相をなした変化観音や馬頭を直接頭にしたもの、馬頭観世音と字だけのものなどを馬頭明王ともいい馬の保護神として特に江戸時代に広く信仰されました。
 半在家のものは山王神社に6基と、個人の所有地に5基があります。確認できる古いものは、1836年(天保6年)から、新しいものは1951年(昭和26年)までありますが明治年間のものが主で、菩薩像(ぼさつぞう)のあるものが3基あります。望地地区では「馬のつくろ場」(*)に11基あります。この名前の由来どおりほとんどがここに集中しています。菩薩像のあるものが1基とあとは字のみの供養塔です。江戸時代後期の1853年(嘉永6年)から1888年(明治21年)までのものがきれいに並んでいます。
 明治から昭和に入ると牛も労役として飼っていましたので、馬同様に「牛頭観世音」の供養塔を建てたものが滝、清水地区に残っています。

*馬のつくろ場・・・昔は相模川に橋がなく望地の対岸の六つ倉との間を船などで荷物の運搬をしていたので、相模川の川岸に着いた荷物を背負った馬が、休んだり馬の手入れなどをした場所のこと。

馬のつくろ場

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -31- 平成13年6月


< 村の守り神『道祖神』 >

 道祖神(どうそじん)は道の神、岐(き)の神、塞(さい)の神、性の神ともよび、庚申(こうしん)の神である猿田彦(さるたひこ)を祭ったりして、村の入り口をふさぎ悪霊を退散させ、また縁結びの神としても祭られていました。田名全体では24カ所の道祖神が祭ってあります。

 堀之内自治会館の敷地内には大きな陽の形をした石(明治27年建立)などがあります。これらの石は、水郷田名から堀之内に至る坂の上にありましたが、道路拡幅により昭和46年に現在地に移転されたものです。

でえの坂の道祖神
 「でえの坂」にある道祖神塔は昭和9年に堀之内下村講中により建てられたものです。(並んで建っている四角い塔は庚申塔で、1706年(宝永3年)に地域の安全を祈って建立されたもの。この様な庚申塔は田名で28基確認されている。)道祖神塔の後ろに置かれた四角い石は、真ん中がくぼんでいますがこれはさい銭箱のようなものです。どんど焼きの時に子どもたちがこの石を担ぎ、各家を回ってお金を集めたそうです。
 昔は各地区のつじにあり信仰されて来た道祖神も、道路事情などにより、最近ではどこでも神社や自治会館などに集められることが多いようです。
 塩田の双神像や半在家の男女のものは珍しい形の道祖神として今でも残っています。
 道祖神のお祭りは、1月7日に子どもたちが集めたお飾りや門松などを14日に「どんど焼き」でたき上げるものです。7日から14日までの間、集めたお飾りを守るため子どもたちが道祖神の所に 「モロ(*)」を作りそこでお餅を焼いたり、遊んだりしました。しかし、これも昭和30年代ぐらいで中止されてしまいました。
 昔、田名では20カ所以上で行っていたようですが現在は道祖神とは関係なく、各自治会などで「どんど焼き」は行われるようになりました。
*一般には室というが、田名の方言でモロといっていた。

陽の石 陰陽石

案内図 塩田の双神像

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -30- 平成13年5月


< 徳本行者の念仏塔 >

 今から170数年前の江戸時代も後半、文化・文政年間のころである。「南無阿弥陀仏」を唱える旅の憎が相模野の村々を回ったといわれている。「徳本」と名乗る修行儀の唱える念仏は、行く先々で人々の心をとらえ、どこの土地へ行っても徳本の身辺には念仏の輪が広がった。

徳本の生い立ち
 浄土宗の名僧といわれた徳本行者(とくほんぎょうじゃ)は1758年(宝暦8年)紀州の国(現在の和歌山県)に生れた。若いころから人里離れた山奥にこもり、念仏修行を重ね諸国を回って各地に念仏を広め、徳本行者と呼ばれるようになった。
 徳本行者の足跡を示す石碑が、今も各地に残る「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)六字名号碑(みょうごうひ)である。一風変った書体は、徳本独特の異字体で六字名号の下に「徳本」の二字と○に十字のマークが識別のポイントである。
 相模原には徳本が晩年の1804~1817年(文化年間)に訪れたと思われる。
 市内には橋本、大島、田名、当麻(たいま)など古寺の境内や道しるべを兼ねて13カ所にそれとわかる徳本名号碑が確認されている。いずれも造立年代は1818~1829年(文致年間)の前半に集中している。相模野の独特な名号碑は徳本が文政元年、61歳で没した後の建立で、徳本念仏講は幕末から明治にかけて盛んだったようだ。当時の世相は、江戸時代の幕藩体制がゆらぐ一方農村においては貧富の差が拡大し社会的不安が流れていた。よりどころを求めていた村人にとっては突如として新しい布教の行者が現れたので、人々は講をつくり競うように名号碑の建立にカネを出し、これに熱狂したと伝えられている。
 厳しいおきての中で暮らしてきた村人にとっては、この念仏講が掛け替えのない息抜きの場であったと思われる。

田名の念仏塔

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -29- 平成13年2月


< 田名中学校の誕生 >

 昭和22年5月1日田名中学校は開校しました。
生徒数219人、教職員7人の発足でした。ほとんどの学校が独立の校舎を持つことができず、施設・設備の不足を余儀なくされていました。

 田名中学校は、田名小学校の校舎の一部に併置され、普通教室5、事務室1で誕生しました。当時生徒はI、2年生のみで、3年生の希望者は大野北中学校に通学していました。終戦直後の物不足の折から、ガラスの破損や教材、仮具の不足など、戦後の苦難をそのままに受けながらも新制中学校としての仮育が開始されました。
 昭和23年4月5日、田名小学校講堂を仕切り仮教室6を増設しました。ところが講堂の仮室は雑音や騒音が筒抜けでほとんど授業にはならず、そのうえ雨漏りがひどくて、天井から雨が降ってくるような始末で想像以上に苦労をしました。
 独立校舎建設のための費用は膨大で、戦後の切迫した町財政で予算化することは不可能でしたが、田名地区にどうしても中学校が欲しいという住民の熱意があり、農地の交換分合・篤志家の寄付等により校地を確保することができました。さらに、地域住民には資金の援助(愛郷貯金)・動労奉仕などの協力を得た結果、昭和25年9月1曰田名中学校は現在地に独立開校しました。

 当時の中学校生活
 家庭生活も学校生活も貧しく不自由な毎日を送っていました。特に、農家の家族労働の大切な力となっていました。そのため、農繁休業が年14曰許されていて養蚕・麦刈り・甘藷(かんしょ)(さつまいも)掘り・麦まきの時には家族の支えとなって働きました。

給食 新校舎

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -28- 平成12年12月


< 新宿小学校 >

  新宿小学校は昭和59年4月、田名地区で四番目の学校として開校しました。
 児童数866人、教職員36人でした。重点目標に「自ら学び最後までやりぬく意思の強い子ども、思いやりのある心の優しい子どもの育成」を掲げ、特色のある学校づくりにチャレンジしました。

教育
 初代校長木下章先生が始められたのが「はだしっ子」教育でした。素足で校庭を走り回り、青竹を踏み、水で足を洗うなど自然に素肌で接することでたくましく生きる力を育てようということでした。このことは卒業していった子どもたちにも強く印象に残っているようです。
 ちなみにPTA広報誌は「はだしっ子」と名付けられ現在も年3回発行されています。

運動会
 
 
パソコン 
 昭和63年4月に新宿小学校はフロンティアスクール*研究推進校に指定されました。パソコンが45台設置され、いろいろな使い方を通して「個を生かす」指導を実施しました。着実に実績を上げ全国に向けた研究発表会を2回開催し、ソニー教育振興財団から優秀校に選ばれました。現在はパソコン教室の他にもフロアにパソコンを設置し子どもたちが自由に使用できるようになっています。 

フロンティアスクール フロンティアスクール
 
 
ポニー
 平成2年6月23日に北海道からポニーがやってきました。動物の飼育を道して子どもたちに「ふれあい」や「思いやり」の心を育てたいということからでした。
ポニーはラッキーと呼ばれて、子どもたちにはもちろん地域の人々からも親しまれかわいがられています。
ラッキーは色々なところで活躍しますが運動会ではラッキーを先頭に全校生徒の入場行進が行われています。

ポニー
 
 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -27- 平成12年10月


< 田名北小学校 >

 昭和30年代に大きな工業団地ができたこともあり人口が急増しました。それにともない田名地区に、田名小学校、田名中学校に続いて三番目の田名北小学校が昭和53年4月に開校しました。児童数771人(20学級)教職員無欠からのスタートでした。

開校当初
 新しい学校づくりには大変な苦労がともないました。
どの教室も雑然としていて学校の機能を果たしていませんでした。「なかよく元気でさあ出発、みんなできずこう田名北小」の合言葉のもと教職員、PTA役員、会員が力を合わせて新しい学校の基礎づくりをめざし、校章、校歌、校旗などを決めながら学校の形を整えて行きました。

あじさいの庭園
 情操教育の一環として開校当初に児童と教師で植えたあじさいは、田名北小学校のシンボルとして校章にも使われました。ゆとりとやさしさを与えてくれる環境づくりの大切さを今も児童に教えてくれています。

広くなった校庭
 田名北小学校の校庭は、開校当時は野球のホームベーースのような形をしていました。そのため運動会の時に、100メートルの直線コースを取ることができませんでした。
 のびのびと子どもたちに運動をさせてあげたい、そんな地域の方々の熱意が実って、平成11年9月に拡張され広く立派な校庭が完成しました。もちろん100メートルの直線コースもできました。広くなった校庭のまわりには環境教育の一環として、柿・リンゴ・あんずなどの木が植えられました。今年はいちじくの実がなったそうです。これからが楽しみですね。
 

開校当時

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -26- 平成12年8月


< 田名小学校の戦後 >

 戦争という暗くつらい時代に終りを告げ、日本中が復興に向けて動き始めました。
 教育の現場にも新しい風が吹いてきました。
 終戦後の昭和22年3月の教育基本法の公布により小学校のほか中学校も義務教育になり、小、中9年間の義務教育制度が定められました。

 戦後の様子
 終戦の昭和20年は、例年になく雪が多く降り大人の腰ぐらいまで積もる日もありました。
 そんなときに下駄ばきで学校に行くのは子どもにはとてもつらいことでした。 なかには竹馬にのって来る子もいましたが、どの子も手足にしもやけや、あかぎれができていました。
 戦争中に工場として使われて床板をはがされた講堂で、机を並べて授業をしました。寒い日は、講堂の隅で火をたいてあたらせてくれたものです。教科書は兄弟で使い回しをしたので、いろいろな線が入っていたりいたずら書きがしてありました。
 その後、昭和29年11月20目の市制施行に伴って相模原市立田名小学校と改称、現在に至っています。

入学式


日常生活の様子
  物資・食料不足
*桑の木の繊維で織った布 で作ったズボンはシート のようにゴワゴワで擦れて痛かった。
*砂糖が貴重品の時代で、 子どもたちは、ドドメ (桑の実)・きいちご・あ けびなど甘い実を採っては食べた。
*にぎり芋・・・サツマ芋の粉を練って、蒸したもので、甘くてとても美味しかった。

 子どものあそび
 竹馬・かくれんぼ・馬とび中でも、くちくすいらい(駆逐水雷)と呼ばれる戦争ごっこが男の子の間ではやっていた。女の子は、おてだま・ゴム跳びなどで遊んでいた。
 

できごと 竹馬

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -25- 平成12年6月


< 田名小学校の戦前・戦時中 >

 田名小学校は、相模原市内では上溝についで二番目に古く歴史のある学校です。戦前・戦時中・戦後と120年以上にわたり田名地区の子どもたちと共に歩んできました。二回にわたって特集しますが一回目の今回は、戦前・戦中の学校の様子を取り上げています。

 戦争前の様子
 明治29年に現在地に田名小学校の新校舎を建設(建設費は1、940円1銭6厘)して、覚明学舎から移転しました。  新校舎はコの字型で7教室ありました。落成時に児童らの手で記念に桜の苗木50本を植樹しました。(現在も、春になると校庭でみごとな花を咲かせています。)
 その後校舎は、明治32年と40年の二回にわたって増築されました。
 その当時の児童の服装は羽織、はかま、ゲタばき。ランドセルはなく、子どもたちは風呂敷に教材を包んで通学をしていました。先生は明治中ごろまでは着物姿がほとんどで、後期になって一部洋服姿が見られるようになりました。
 お昼のお弁当の中身は、大部分が小麦粉で作ったヤキモチやサツマイモなどで現在に比べるとそれは粗食でした。
 明治30年ごろには運動会が催されるようになり「かけっこ」が主で児童たちはシャツにモモヒキ、素足で競争を楽しみました。

卒業式

 戦争中の様子
 戦時下の昭和16年3月1日、国民学校令が公布され、田名小学校も田名国民学校と呼ばれるようになりました。教科書も軍事的、国家主義的教材が多く取り入れられたり、国防訓練のために、正常な授業がしだいに困難となってきました。
 昭和19年以降敵機の本土来襲が日ごとに多くなり、防空壕づくりや竹槍訓練が繰り返され、いざという時の防空頭巾は身から離せなくなりました。この年の7月に学童集団疎開が始まり陽原・滝のお寺には横須賀市田浦国民学校の児童が疎開をしていました。
 昭和20年8月15日の終戦を迎えるまで、人々はとにかく不安で大変な毎日を送っていました。
 

教科書

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -24- 平成12年5月


< 寺子屋と覚明学舎 >

 寺子屋は文化文政の時代(1804~1818年)順次全国に広がり天保時代(1830年)には地方農村部まで普及しました。相模原市内の寺子屋は各村ごとに1~2ヵ所設けられ、市内全体で20ヵ所以上にあったといわれています。
 田名の寺子屋は陽原の南光寺、滝の宗祐寺の2ヵ所にありました。おもに地区内の子供が寺の住職から「読み、書き、算盤(そろばん)」の手習いを受けていました。
 明治6年5月5日に、各地区に小学校設置を強制的に指示する文書(学制発布)が出されました。
 田名地区では1874年(明治7年)当時、寺子屋となっていた陽原の南光寺と滝の宗祐寺を、田名学校と称して同時開校しました。田名地区で初めての学校の創立です。
 当初、2ヵ所にあった田名学校は、1876年(明治9年)に現大杉公園近くの明覚寺に移って1カ所とし「覚明学舎」と呼ぶようになりました。学舎は明覚寺の建物を改修したもので、建物自体すでに老朽化していて、"田名のボロ学校"と呼ぶ人もいました。
 明治の中期から後期にかけて塩田地区に分校がありました。「塩田分校のあゆみ」によると、発足時期は明確ではありませんが、明治20~22年の間は、存続していたとおもわれます。塩田分校という名称を使用しているところから覚明学舎は、田名学校の分校として塩田学校を設けていたものと思われます。
 田名学校が尋常(じんじょう)田名小学校と改称された明治25年に塩田児童館があった敷地に校舎を建設しました。在校児童は30入前後で1年生から3年生までが分校に、4年生からは本校に通学しました。
 創立以来15年間存続し、明治41年ごろ廃校になりました。  

塩田分校あと

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -23- 平成12年2月


< 苦労が実った望地開田 >

 日ごろ見慣れた望地の田んぼ風景。昔荒れ地だった所に稲穂の垂れ下がる水田を夢みて、大勢の人々が血のにじむような 努力をした結果、今日のような見事な水田へと変身したのでした。

望地河原の田
 望地水田については万平穴のときに一部紹介したように、すでに江戸時代1856年(安政3年)より有志によって計画されましたが、度重なる洪水によって完全なる成功を見なかったようです。  戦後の食糧難になんとか水田ができないかと、関係者一同固い決意をもって30町歩(30ヘクタール)の開田を目指して、昭和21年より話し合いが持たれ、翌22年から着工されて造られた堤防が、同年9月14日のキャサリン台風によって一瞬のうちに流され、水田も流されてしまいました。
 翌23年から再度工事が始められましたが資金不足など、大変な苦労をして組合員全員の勤労奉仕により、昭和29年に1000メートルの堤防完成と同時に水田作りが始められました。
 工事は現在のような大型機械がなく、河原の砂利を平らにするためにも堤防を作るのにも全て人力で、モッコ、トロッコを使い、予定どおり掘り進めるため、一人当たりの作業を割り当てました。
 河原を平らにしてその上に沖積土(ちゅうせきど)や畑の上を、3~5センチメートルぐらい敷いてそこに田植えをしました。最初の数年は水口から水を入れたままのかけながし状態でなければ、水田の全休に水がたまらなかったほどで、米の収穫量も少なく味もよくありませんでした。それでも人々は本当に喜んだものでした。
 数年間は通常の田植えは出来ず、一株ごとに穴掘りの道具を使って植えました。
 昭和42年には新たに、清水下頭首工(相模川より水の取り入れ場所)も完成して水利の苦労も一段落し、さらに堤防も塩田下まで完成して、18町歩余り(18ヘクタール)の美田が完成したのです。
 今では青々とした麦畑と、黄金色に輝く稲穂が一面に見られるのは、田名でも望地水田だけとなりました。  

穴ほりの道具

 協力・・・郷土懇話会

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ズームイン田名 -22- 平成11年12月


< 江成久兵衛翁の銅像 >


 昔、田名地区の人々は相模川の洪水に幾度となく苦しめられました。それを見兼ねた久兵衛は私財をつぎこみ28年もの長い歳月をかけて堤防を完成させました。この偉業をたたえ久兵衛翁の銅像が建立されました。

久兵衛翁の銅像
 今年は春の館報で紹介した江成久兵衛翁の、没後100年忌に当たります。昨年の夏、田名地区内有志により、同氏の偉業をたたえる顕彰碑建設の気運が高まり、建立発起人委員会が発足されました。
 実りの秋、平成‥H年10月1日、記念すべき銅像の除幕式が、相模川ふれあい科学館敷地内で市長ほか多くの方が集まり、盛大に執り行われました。
 碑文の一部を紹介すると、「江成久兵衛翁は、用水堀・堤防造り・開田という三大事業を成し、1900年の事業をたたえ没後100年忌にあたり、その徳行を後世に伝えるべく、ここに顕彰碑(銅像)を建立する」・・・とあります。
「後日談」・当公民館副館長の榎本久二さんは、江成久兵衛翁の子孫にあたります。銅像の型を造るにあたり、当時の久兵衛さんと同じ服装、同じ姿勢でモデルになったそうです。

※江成久兵衛翁の偉業は現在の小学4年生の社会科教科書(副読本)に載っています。

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ズームイン田名 -21- 平成11年10月


< 上田名耕地整理事業 >



 田名地区に水田を作ることが、先祖の強い願いでした。そのためにさまざまな苦労と努力を要し、現在の水田に引き継がれてきました。今回はその苦労の跡をたどってみました。

上田名耕地
 上田名一帯の水田は、遠い昔に先祖が大変な苦労をして開田し、それを子孫が代々受け継ぎ、水稲の耕地として丹精し続けてきたものです。しかし、大部分が湿田(しつでん)の上、水利も悪く、さらに野水の被害も多く、とても二毛作など思いもよらないことでした。
 そこで、新たに組合を組織し上田名耕地の暗渠(あんきょ)排水と区画整理を計画しました。
 昭和12年3月から工事が始められましたが25町歩(ちょうぶ)(2500アール)もの土地を整地することはとても大変なことでした。まず水路掘りから始められましたが、腰までつかってしまうほど深い湿田を掘ることは大変な苦労でした。バケツでへ どろを 「板しがら」の外に汲み出すそばから、流れ込んでくる・・・そんなことを毎日繰り返しやっているうちに、どうにか堀の形ができてきて大部分の水が流れ出て、どぶ田(た)が固まってきました。秋には五畝(ごせ)(約5アール)割りの区画杭が打た れ暗渠の位置の測量も済み、冬から春にかけて暗渠を施設しました。
 昭和13年の秋から春にかけては区画整理をし、この難工事も昭和14年4月に終わりました。
 工事の概要などを記した石碑が、田名ふれあい広場わきに建てられています。

*二毛作・・・同じ耕地に、一年に2回、別々の作物を栽培する
*暗渠・・・地下で設けられた排水溝で下水排除や農村の湿田の改良に使われる
*板しがら・・・柵(しがらみ)(さく)・板を立て並べた囲い

記念碑 農家


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ズームイン田名 -20- 平成11年8月


< 知っていますか?三角山公園 >


三角山公園
 田名中学校の体育館の向かいに、三角山公園はあります。
 三角の地形と生い茂った木が山のように見えたところから三角山と呼ばれるようになり、今日に至っているようです。
 公園内には、日清・日露戦争から第2次世界大戦の田名地区の戦没者の慰霊碑など、5基の碑が建てられています。
 また同じ敷地内に、平和な時代が続くことを願って「平和の碑」が建てられました。昭和61年8月9日のふるさとまつりの日でした。
 その後、「平和の碑を守る会」が発足され、毎年ふるさとまつりの初日を清掃の日と定めています。
 会員の方たちにより公園内の除草や碑が清められたあと、まつり関係者と平和の碑を守る会の会員によって献花が行われ、ふるさとまつりが開始されることが慣習となっています。
三角山公園

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ズームイン田名 -19- 平成11年6月

< 万平さんの挑戦 >



 中島万平(まんぺい)は飢饉(ききん)と烏山藩(からすやまはん)の年貢(ねんぐ)に苦しむ村人を救おうと大変な苦労をしました。
 望地キャンプ場の外れに小さな横穴が開いています。江戸時代末に、崖地をくりぬいて水を引き、荒れた望地河原に水田を開こうとして努力した中島万平の苦労の跡です。
 結果的には苦労が報われずこの横穴だけが残されています。

万平穴
万平穴
 1836年(天保7年)生まれの中島万平はその時弱冠(じゃっかん)20歳の若さでした。うち続く飢饉と、領主鳥山藩のきびしい年貢の取り立てに、苦しい生活を強いられている村人を見かねていました。
 この苦しみから村人を救うためには、農作物の生産を増やす事が唯一必要な策であることに目を向けました。
 そのためには、望地河原に水を引き開田事業を起こすことが必要でした。たまたま、測量の技術をもっていた万平は、1856年(安政3年)事業に着工しました。
 飛び崎の下を掘り通して相模川の水を引き、開田することは容易なことではありませんでした。
 しかしこれに負けず、敢然として事業の先頭に立ち、村人を指導しました。
 幸い、望地の金井津右ヱ門がこの計画に賛同し、きつい労働に汗を流して奉仕する人々に蓄えておいた稗(ひえ)、粟(あわ)などを与えました。
 このような好意が事業を進めるうえで大きな力となり、三年あまりの歳月をかけ、1860年(石垣元年)村人の努力は実を結びました。随道(ずいどう)から流れる用水は川原一面を潤(うるお)し、水田は望地、陽原、半在家、塩田の農民に耕され、年ごとに豊かになっていきました。
 ところが、一朝にして相模川の水魔は村人たちの辛苦の結晶を跡形もなく流し去り、以来万平穴のみが残り、この話が伝えられています。
 戦後、1954年(昭和29年)、望地堤防と相模川用水随道の完成によって、望地水田は20ヘクタールに拡張開発され、古人の願いが後の人たちによって再び実現しました。
 万平は、1894年(明治27年)、57歳でなくなりました。    

烏山藩

万平穴位置 万平穴


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ズームイン田名 -18- 平成11年4月


< 田名水田の開拓者 江成久兵衛 >




 洪水から田を守るため私財をなげうって、田名水田開発に命をかけた江成久兵衛(きゅうべえ)ことが社会科教科書(小4)にのっています。
 江成久兵衛とはいったいどんな人物だったのでしょう。

 九兵衛は1817年(文化14年)、田名久所(ぐぞ)に生れました。久兵衛の家は水車業をしていましたが、若いときには、江戸(現在の東京)へ働きに出たこともあります。その後は田名にもどって、水車業に励(はげ)んでいました。
 そのころの田名の水田は宗祐寺(そうゆうじ)下の湧(わ)き水を利用した水田しかありませんでした。もっと田や畑を増やし年貢を増やすためには、相模川の水を引き入れる用水路を作ることが必要でした。
こうして1858年(安政5年)、相模川の水を引き入れるための工事が始まりました。この工事の最大の難関は滝集落下の堅い岩盤を切り抜く全長300間(540メートル)のずい道(トンネル) 工事でした。この工事は一年後に完成しました。「さあ、水さえあれば米はいくらでもできるぞ・・・」ところが1860年(万延元年)の大洪水(だいこうずい)で堤防が崩れ、一晩で水路や田が流され、残された水田は石積み河原となり、今までの苦労は「骨折(ほねお)り損(ぞん)のくたびれもうけ」となってしまいました。そこで、久兵衛は用水を作り直すことを殿様に願い出ました。さっそくこれまでにあった用水堀やトンネルを、さらに深く掘り下げる仕事にとりかかりました。お金などの援助は一切もらえず久兵衛は自分の財産をなげうって、工事を続けました。「堤防だって洪水にたえられるものにしなければ」ところが洪水にこりた村人たちは進んで手助けをしようとはしませんでしたが、しだいに久兵衛の熱意に打たれて、やがて手伝うようになりました。そして、28年もの歳月をかけて堤防は完成しました。
 久兵衛は農具のない農民には農具をあたえ開田事業をしました。その苦労のおかげで田名村は田ができ、米づくりができるようになりました。
 49歳で工事を始めた久兵衛は、なんと77歳になっていました。そして1900年(明治33年)10月2日その生涯を83歳で終わりました。
 久兵衛たちが造った堤防は「久兵衛土堤(どて)」と呼ばれています。水田がなくなった今では、堤防の一部が保存されるだけとなり当時の面影をしのぶことはできなくなりました。
江成久兵衛
久兵衛土堤跡の石碑 作業の様子

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ズームイン田名 -17- 平成11年2月


< わたしたちの相模川 その4 >



 市政に関する世論調査で相模川が「相模原が他市に誇れるもの、魅力あるもの(自然の部)」で第一位になりました。今では私たちにとって相模川は憩いの場として大変重要な所になっています。今回は田名に関連した行事や施設などを紹介します。

『相模川八景』
 相模川を代表する眺望(ちょうぼう)地点8か所の景勝地にはモニユメントや、川をかたどったイラスト大りの銅版画などがあります。8か所巡(めぐ)って拓本を集めることができます。






泳げ鯉のぼり相模川 『泳げ鯉のぼり相模川』
 ゴールデンウィーク期間中に高田橋上流で、市内や全国から寄せられた約1200匹のこいのぼりが相模川の空を泳ぎます。
納涼花火大会 『納涼花火大会』
 相模原納涼(のうりょう)花大大会は、昭和26年に、水郷田名の復興を願って始められました。毎年7月30日、高田橋河畔(かはん)で夏の夜空に約7000発の花大が打ち上げられます。
的祭 『田名八幡宮の的祭』
 毎年1月6日に田名八幡宮で「的祭」(まとまち)が行われます。的祭は歩射神事(ぶしゃしんじ)で輪番で選ばれた男児4大が大的に向けて3本ずつ矢を放ち、その当り具合で農作物の豊凶を占います。
元旦寒中水泳大会 『元旦寒中水泳大会』
毎年元旦には寒中水泳大会が高田橋上流で開催されます。無病息災を祈願するもので、寒さにも負けず大勢の参加者が頑張っています。その横では、田名地区子連主催の「新春たこあげ大会」が行われます。子どもたちの手づくりのたこが大空いっぱい元気にあがります。

『相模川周辺には』
 ほかにも、新磯地区の日本一の相模の大凧(だこ)、望地弁天キャンプ場、相横川自然の村など多くの行事や施設があります。


『相模川の自然を大切に』
春はお花見、夏は水遊び、秋のバーベキュー、冬の野鳥観察など、相模川とのふれあいをとおして、子どもたちのふるさととなる田名の自然がいつまでも残ることを願います。

相模川八景


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ズームイン田名 -16- 平成10年12月


< わたしたちの相模川 その3 >



 春夏秋冬、多くの人たちが訪れ、利用している相模川。その相模川には皆さんの知らないところで日々、川を守ることに力をそそいでいる「相模川第一漁業組合」の人たちの努力と熱意があります。今回はその漁業組合を紹介します。
 相模川で漁を営む人々が昭和3年に津久井、相模川第一・第二、相模川、厚木、中津川の6単位漁業組合を結成して、それぞれ漁業権を保有していましたが、昭和26年8月に団結し「相模川協同漁業組合連合会」を創立しました。
 現在、田名地区では300名ほどの組合員がいます。相模川に相模ダム、城山ダムが出来たことで飲料水、発電用水、農業用水、工業用水など有効に使われるようになりました。
 しかし、その反面で水質の低下や水量の減少など問題も出てきました。
 魚などの生物にはとても住みにくい川になってしまい、アユの姿を何日も見ない日が続き、相模川の漁場は荒れていきました。
 このため、相模川協同漁業組合連合会では、昭和41年10月からとるだけの漁業ではなく、人工河川、人工ふ化などの増殖事業、「つくる、育てる」という管理型漁業ヘ力を入れてきました。
 寒川に堰堤(えんてい)(堤防・土手)が構築された時には「相模川からアユがいなくなる」という落胆の声をずいぶん多く聞きました。しかし、昭和56年度から始まった「アユ資源保護対策事業」では人工採卵、ふ化プールの設置などの事業が行われ、 組合員の血のにじむような努力が実って、平成8年度県内水産資源の総生産量では相模川が70%を超える記録を出しました。
 休みともなると、腕に自慢の太公望でいっぱいの相模川ですが、釣人には雑魚で500円、やまめ、いわな、にじます、アユは800円の日釣券を買っていただいています。その売上はアユ・こい・ふななどの放流費や管理費、また産卵場造成費などにあてられています。
稚アユ放流

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ズームイン田名 -15- 平成10年10月


< わたしたちの相模川 その2 >



 相模川の川筋には、かつて漁師が名前を付けた岩やふちが点在しています。田名地区の人たちにもかかわりの深い、高田橋上流から昭和橋の間で現在もその名前が残っている「川筋名」をいくつか紹介しましょう。


川筋名  漁師のように川を職業の場とする者にとって、その川の地理的状況や水流の変化などを把握しておくことはとても大事なことでした。そこで、特徴のある岩やふち(川の水が深くよどんでいるところ)などに名前をつけて、それを漁師仲間では地理や水の状況の説明に使っていました。このことにより位置の確認、危険箇所への警告、漁場の情報交換などがより的確に行われることができました。
 その呼び名が現在も残っているのは、川に沿ってあった集落が発展していったことで地域住民や一般にも利用するようになったと思われます。
○イチノカマ・・・一の釜の意味で渦巻く深みのこと。二の釜、三の釜もあったがどれも現在は残っていない。
○ボウヨウトウ・・・「望陽島」と書く。弁財天は、はじめこの島に祭られていたが、明治40年の洪水で消滅したといわれる。「ボウトウデン(望島殿)」ともいう。
○イワキリバ・・・「岩切り場」の意味。以前はここで岩の切り出しが行われていた。
○イジンカン・・・「異人館」の意味。明治時代に建てられた外国人の館ががけの上にあった。
○シシバナ・・・獅子に似た岩で水中に突き出ていた。現在は残っていない。
○ウキシマ・・・浮島の意味。
明治初年までここに島があったが水害をもたらすため取り除かれた。


ウナギやシジミがとれたころ  昭和15、16年ごろの話です。相模湖・津久井湖のダムができる前の相横川は、今より川幅も広く滔々(とうとう)と清く流れていました。河川敷には水に洗われた石や砂が今よりずっと多くありました。でも、ひとたび台風がくると川はその姿を変え川幅いっぱいに水は溢(あふ)れ、久所・滝のあたりではがけ崩れや床上浸水(ゆかうえしんすい)にみまわれ、半鐘(はんしょう)がけたたましく鳴り、坂をのぼって避難することもありました。  そんなあとには土手のへち(ふちのこと)にいて、網でアユや八目うなぎを捕まえることができました。  ウナギはアユの次に漁(りょう)の対象とされましたが、一生懸命(けんめい)に捕ってもたいした稼ぎにはならないので専門に 商売で捕ることはほとんどありませんでした。  また用水路ではシジミやドジョウがたくさんとれ、小沢の水門の中では昭和45年ごろまではアサリのように大きなシジミをスコップでとることができました。
う


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ズームイン田名 -14- 平成10年8月


< わたしたちの相模川 その1 >


相模川のもとはどこなのか、あの大きな流れはどうしてできたのか、またどんな生き物が生息していたのか、そんなことを考えたことがありますか。
そこで相模川のルーツをたどってみることにしました。


『もとはどこから?』
 相模川の水源は富士山麓(ろく)の山中湖と、その北の忍野八海(おしのはっかい)(湧水池)です。大月付近で笹子川を合わせて東へ流れ、上野原をへて神奈川県に入ると桂川から相模川へと名をかえます。
 途中、相模・津入井の両湖に水をたたえ、延長113キロの道のりを走り、河口付近で馬入川と3度呼び名を改めて相模湾へ流れ込みます。
相模川の流れ
『どうやってできたの?』
 相模川は、本州に丹沢がぶつかった境界にできたものです。長い間に土地が隆起したり富士山の噴火の影響をうけたりして、相模川の流れは少しずつ移動してきました。川が作った扇状地に火山灰が堆積(たいせき)し相模野台地になります。
 当時の様子が一番ハッキリわかるのは化石です。
 相模原市大島から当麻(たいま)にかけての相模川に沿って続く崖の地層からは、以前から二枚貝などを中心とした貝化石が多く発見されました。
 この地層は、学術的には中津層群と呼ばれ、相模川を挟んで愛川町の中津川沿いにかけての地域に広がっています。
 中津層群は、下部から小沢(こさわ)層・神沢層・清水層・大塚層・塩田層に区分されており、全体では今から290万年~190万年前の新生代新第三紀鮮新世後期に形成されたと考えられています。
 相模川右岸、愛川町角田の小沢にある神沢層からは、クジラやイルカなど海生の動物化石と共に、ゾウ・サイ・シカ・サルなど陸生の動物化石が多数発見されています。
 このように、海生の動物化石と陸生の動物化石が同時に発掘されることは大変珍しいことです。
 一方、同じ中津層でも相模川左岸の相模原市内からは大型動物化石の発見例は少ないものの、貝化石や地層の堆積物などから当時の相模原が海であったことが分かります。
貝化石

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ズームイン田名 -13- 平成10年7月


< 古代からのメッセージ >


 

田名地区ではいくつかの遺跡が発見されています。
塩田遺跡群の発掘
 田名地区で最も古い時代の人間の歴史はどのくらい前からはじまったのでしょうか。田名の大地に関東ローム層が堆模し、段丘が形成されたのは、2万年から2万5千年程前のことです。相模田名高等学校を建設する時の調査で発見された石器が田名では最古のもので、今からおよそ1万9千年から1万8千年前に人々は生活をはじめたといわれています。この遺跡は稲荷山遺跡と呼ばれています。
 最近、発見され注目されているのが塩田遺跡群の向原(むかいはら)で旧石器時代の住居と考えられる遺構が発見されました。大小の石や、約3千点の石器類が出土しています。田名地区では塩田遺跡群がよく報道されますが、平成4年には奈良三彩の小壷が田名坂上遺跡から発見されています。また、平成7年から8年にかけて実施された田名堀之内遺跡の調査では、縄文後期の土器片と共に筒型土偶(どぐう)が発見されています。(これらの土器などは相模原市立博物館に保管されています。)
 このように田名地区には古代からのメ。セージが沢山残されています。 失われて行くものに目を向けてみませんか。
奈良三彩の小壷

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ズームイン田名 -12- 平成10年5月


< 陽原の生活道だった火の坂 >


 陽原地区は相模川を眼下に望む台地にあり昔は農業中心の生活を営んでいました。
 陽原地区の人たちの生活に欠かすことのできなかった坂、「火の坂」はいつごろどうしてできたのでしょうか。
また、その坂の下にまつられている「狸菩薩」とはなんでしょうか。


火の坂 『火の坂』
  陽原地区(みなばら)の人たちは火の坂と呼び、久所(ぐぞ)(水郷田名)ではたぬき坂と呼んでいます。坂ができたのは今から80年前大正7~8年のことです。
 どうして「火の坂」と呼ばれるようになったのか、地元の方にお話をお聞きしました。
 坂ができる前のことです。坂の上に糸を取って生活をしていたおばあさんが住んでいました。蚕から出たさなぎ(魚を捕るえさにした)と魚を交換していましたが、その大切なさなぎをたぬきにたびたび取られていました。あまりのいたずらにたまりかねたおばあさんが、ある日、囲炉裏の灰をたぬきにぶつけると火だるまになり、たぬきが転げ落ちた所は枯れ葉が燃え山火事となってしまいました。
 そのころ陽原の人たちが久所にある田んぼや三栗山に行くのは、険しい山道を上り下りするので毎日がとても大変でした。道ができれば荷車でたくさんの荷物を運んだり、久所のお祭りなどに行くのも近くなるのでこの山火事を機会に坂道をつくろうということになりました。そこで土地を提供してもらい陽原住民の協力と努力で大正8年に坂が完成しました。
 陽原の人たちは、火事がきっかけでできた坂なのでこの坂を『火の坂』と呼ぶようになりました。

狸菩薩 『狸菩薩(たぬきぼさつ)』
 川下の水車小屋(精米所)に老夫婦が住んでいました。
おばあさんの体の具合が悪くなり、祈祷帥(きとうし)にみてもらったところ、「いつも見かけていたたぬきを見なくなった。」というおばあさんの話から焼け死んだたぬきの「きっとたたりだ!!」と祈祷帥に言われました。おじいさんは、その霊を慰めようとたぬきが焼け死んだと思われる坂の下に『狸菩薩』をまつり供養をしたところおばあさんの病気がすっかりよくなりました。その話が大変な評判となり、お参りする人が数多くいたということです。それは火の坂の完成後5年ほどたった大正13年のことでした。


『婦人会でつくった保育園』
 田名保育園は今から43年前(昭和29年)に陽原の倶楽部(集会所)に季節保育所としてスタートしました。
 当時の田名は農業が中心の生活だったので農繁期に子どもを預けることのできる保育所は、地域の人たちに大変喜ばれました。人も物も不足がちな時代で開園当初は農繁期の時期だけ婦入部が交替で子どもの世話をしていました。
 お話をお聞きしたTさんは、当時婦人部の役員をしていました。保育園の子どもたちのために、おやつ(動物ビスケットやおせんべいなど)を買い出しに自転車で上溝まで行ったことや、横浜の野毛山動物園へ遠足に行ったことなど懐かしく思い出すと言っていました。
 またEさんの思い出は初めてのクリスマス会のことです。はるばる東京の浅草橋まで行って買ってきたプレゼントを袋(繭玉を入れる白い袋を利用した)にいっぱい詰めました。サンタさんの衣装を着て、長ぐつには綿を張り付けました。煙突がないのでトイレの窓から入ったそうです。絵本でしか見たことのないサンタさんを目の前にして嬉しさに目を輝かしている子どもたちの姿にとても感激したそうです。
 昭和31年6月には、現南光寺敷地内に「市立田名保育園」を開園、3人の保母をむかえて新たにスタートしました。
 その後、昭和53年3月に現在の2階立てに建て替えられました。
 開園の時に植えられた桜の木は、今では2階の屋根より大きく育っています。

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ズームイン田名 -11- 平成10年3月


< のこしておきたい昔のこと >


 葛輪地区は、縄文時代のころから人々が住んでいたといわれ「石棒」をはじめ、「石仏群」なども保存されています。
 また、下九沢から続く大山街道が通り抜けて「大山まいり」の旅人でにぎわっていたようです。


金刀比羅神社  葛輪は田名の北の端、鳩川の淵(ふち)に広がる地区で隣りは下九沢地区です。「くざわ」は、鳩川をはさんだ一帯の地名で以前は「田名分葛輪」(たなぶんくずわ)と呼ばれていました。
 それでは葛輪はいつのころからひらけたのでしょうか。昭和48年、ガス管を埋設するため市道掘削(くっさく)の際発見された石棒により、縄文時代のころから大々が住んでいたのが分かりました。
が、実際に集落が出来て生活が営まれるようになったのは鎌倉時代のころと言われ、街道沿いにあった葛輪は旅大などで大変にぎわったと思われます。
 四ツ谷から下九沢へ向かう大山街道の途中、鳩川の橋の手前を左折すると葛輪地区につきます。自治会館を過ぎてしばらく行くと、右手に金刀比羅(こんびら)神社の境内(けいだい)があります。
 もとは一族の守り神としてまつられていたものといわれています。鳥居の先の左右には1811年(文化8年)に奉納された御神燈(ごしんとう)が建っています。
 毎年1月10目に金刀比羅様の祭礼が行われ、当日は花火が上がり、祭典委員会によるくじ引き等で大変にぎわうそうです。
内山玄貞の碑 『葛輪にあつた塾』
 内山玄貞(げんてい)は、幕末の騒乱(そうらん)とした1819年(文政2年)、相州高座郡田名村葛輪「現相模原市旧名葛輪」に生まれました。聡明の誉れ高く、後に津久井郡葉山島村「城山町葉山島」東林寺の住職に禅と、読み、書き、算盤などを学びました。
 学問を志し、江戸(東京)へ出て商家に書生として住み込みました。勉学に励み、天保の末ごろ葛輪へ帰ってきました。当時学問といえばお寺で教える寺子屋か、私塾でしたが、そこで学べる子弟は裕福(ゆうふく)な家に限られていました。
 浦賀に黒船が来航し相模原あたりにも徐々に文明開化の波が押し寄せて、農家の子弟にも読み、書き、算盤などの教育が必要になってきました。
 玄貞は大農を営むかたわら、自宅を開放して塾を開き、多くの子供たちに学問を教えました。1872年(明治5年)、学制が発布され、寺子屋や私塾がいっせいに学舎へ移行し小学校になりました。田名地区は覚明学舎から、現田名小学校へと変わりましたが玄貞は引き続き恵まれない子どもたちのために塾で教えていました。
 ふるさとで教育一筋に活躍した玄貞を思い明治元年教え子たちによって碑が建てられました。
『葛輪の石棒』
 石造物の中には、今から4000~5000年ほど前の縄文時代中期の石棒(せきぼう)が混ざっています。この石棒は近くで行われた道路工事中に出土したものですが、このことによって周辺には縄文時代中期の集落遺跡の存在が推測されます。
 石棒は縄文中期時代ころから生殖器崇拝(すうはい)、また呪術性の祭物として使われたと思われ武と生命の力を表象し、神となって礼拝の対象となり後世には道祖神として祭られたものといわれています。
石仏群 『石仏』
 金刀比羅神社を後にして地区の中程鳩川に並行する道に戻り、上九沢の方へしばらく行くと右手に墓地を見ることができます。この墓地の少し先を右折すると左手に*秋葉塔、*光明真言塔(こうみょぅしんごんとう)、*六地蔵、*馬頭観音(ばとうかんのん)、*庚申塔(こうしんとう)などの石仏があります。
 これは明治から昭和にかけての道路改修のたびに散在していた石仏が集められ、ここにまつられたものと思われます。
 *秋葉観音・・・右横「村内安全」左横「天明八戌申歳三月日」とある。秋葉大権現は静岡県周知郡春日野町に あり、古くから「ひぶせの神」として知られ各地の庶民の厚い信仰をうけていた。
 *光明真言塔:・正面真中「供養」右「光明真言」左「三百万遍」右横「天明七丁未三月吉日」と刻まれている。
 *地蔵菩薩(六地蔵)・・・真中「樋ロ一等講中再建」右「再興地蔵大菩薩」左「文化十三年九月日」右横「地蔵菩薩□大慈悲若聞名号付随里闇」とある。
 *庚申塔・・・高さ約1メートルの自然石に「庚申塔」と刻まれている。昔、60日に一度めぐってくる庚申の日は体に宿る悪魔を追い払うため、その夜を眠らずに過ごす風習があった。そうした人々の集まりの中から庚申講が生れ、信仰の象徴である庚申塔が各地に建立されていった。

『協力 郷土懇話会』


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ズームイン田名 -10- 平成10年1月


< 市の重要文化財 望地弁財天 >


  望地地区は相模川を望む崖の上に広がっています。田名は養蚕の盛んな時代のあったことから、養蚕の守り神としてキャンプ場の北寄りに望地弁才天が祭られています。 また、望地河原付近の散策路は小倉橋から座間市境まで続いています。
 歴史と自然を訪ねて、出かけてみませんか。

 市の重要文化財として指定されている弁天様は、もとは江ノ島弁財天に安置されていたものといわれています。 この弁天様は、明治の神仕分離令によって、綾瀬市の吉岡済運大に置かれていましたが、養蚕の守り神として田名に移され祭られたといわれています。
 当時、望地河原には望陽島(弁天島)と呼ばれた約150メートル仕の卵形の島があり、毎年4月の初巳の祭りは天変にぎわい、花大を打ち上げ、草競馬もおこなわれたり大勢の人出でお祭りが盛大であったようです。
 その後明治40年の相模川の大洪水で、島は流され、かろうじて弁天様だけが助かり南光寺に仮宮をたて、祭っていました。  昭和29年、付近の人たちの努力によって望地河原が開田され、現在地に再び祭ることが出来ました
。  望地河原の水田開発は、昭和22年4月から29年にわたって行われました。ちょうど食糧難の深刻な時期でした。
 地元の多くの人が会合を何十回も重おて、町長にお願いをし、県へも頼んで昭和22年から江事が始められました。
 トロッコや藤モッコで、石やジャリを運び堤防を作ってゆく重労働の辛い仕事でした。この年の9月に天きな台風が来て堤防は流出、県議団の視察もあり、復旧のみこみなし、とのことでした。
 地元では再び請願を続け、作業開始、築堤はコンクリートの練り積みで、石積みが行われました。昭和26年4月に堤防が完成し、水田の鎮守として弁財天を南光寺から現在地へ移しました。昭和62年、木造弁財天坐像は相模原市重要文化財に指定されました。
 現在は望地、陽原自治会の方々が一年交替で1月1日の「初詣」、4月の初巳の日に近い日曜日の「ご開帳」の日に世話役をされています。


弁天島

『望地弁天キャンプ場』
 毎年、7~8月、望地弁天キャンプ場の松林の下にテントが張られ、普段は静かな望地河原が多くの人々で賑わいます。
 キャンプ場として、利用が始まったのは昭和45年ころです。小学生の研修や一般の人々に利用されています。
 キャンプ場の横の「堤防」、北側の「万平穴」、東側の「弁天様」の昔話を知っている人は数少ないことでしょう。
『稲荷社と祭礼』  南光寺の参道を南に進むと、望地集落に入ります。 途中のT字路を左に折れ、しばらく歩くと左手に望地の自治会館があります。稲荷社は同じ敷地の中にあります。この稲荷は望地の人々が祭るもので、鳥居の奥の左右には1794年(寛政6年)に建立した燈籠が建っています。また、ほこらの前には望地と陽原の人々によって建てられた秋葉権現と祇園牛頭天王の常夜燈もあります。  稲荷社の祭礼は昔から9月10日と決まっていました。 最近は第一日曜日に自治会主催で三世代合同(白寿会、自治会、婦人会、子ども会)のゲートボール大会とバーベキュー大会が行われています。  地元の人、新しい人も交えて望地地区の住民の親睦も兼ねて、毎年行われています。 『天然の井戸ヤツボ』  ヤツボは雨水が土にしみこみ、水を通さない岩の層に至ると水はその層に沿って流れ岩が露出したところ で、泉となって湧きでた湧き水です。ヤツボは崖の上に家々を構える人々にとっ ては、かけがえのない泉です。井戸を造るのに多額の費用を必要とした時代にヤ ツボは集落を形成するためには欠くことのできない条件でした。

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ズームイン田名 -09- 平成9年11月


< 半在家の山王様と芋っ葉灯籠 >


  半在家は平安後期から、人が住んでいたといわれています。昭和の初めに比べると家も10倍位 に増え現在は500戸以上にもなりました。
 時代が移り変わる中で、山王様のお祭りは今も自治会を中心に、毎年9月13日に行われています。

 半在家のバス停を右に曲がった所に山王様があります。敷地内には、半在家の  各地にあった庚申塔(こうしんとう)や、道祖神(どうそじん)、馬頭観音(ばとうかんのん)などが集められています。
 山王様のお祭りは、昔から9月8日と決まっていました。時代とともに祭りは変化をし現在は、半在家の 各種団体の役員の方々などにより、自治会行事として執り行なわれています。建物の中には3棟の祠があり、向かって左から稲荷社、中が山王様、右が社宮司社となっています。山王様の中には、見猿、聞猿、言猿の御本尊が祭られています。
 山王様のお祭りの目には、昔からどういう訳かよく雨が降ります。(ちなみに今年も雨が降りました。)
 ある年のお祭りのことです。人々が楽しんでいるといつものように、雨が降ってきました。今にも石灯龍 に灯した火が消えそうです。その時、近くにいた老人が畑から芋の葉を取ってきて、 灯籠にかぶせて火が消えないようにしたのでした。それから誰からともなく「芋っ葉灯籠」と呼ぶようにな りました。年月とともに灯籠もいたみ、いつの間にかなくなってしまい、「芋っ葉灯籠」という呼び名だけが残りました。
山王様

『二十三夜塔と二十六夜様』
 田名小学校の脇の、バス通りにそって坂を下りると、左に曲がる道に出会います。
 この辻のコンクリートの壁の一角に女性たちによって建てられた一基の石塔があります。これは二十三夜 塔と呼ばれるもので、左側にはニ十六夜塔とも刻まれています。ここ半在家の二十三夜信仰は、よい子孫を残すため男女が別々にニ十三夜の夜を過ごすというもので、その夜はそれぞれ別々の家に集まって過ごしました。
 ニ十六夜の夜は、養蚕の守り神の夜として信じられていました。このためこの夜は、機織りの上達を祈る女性たちが集まって、夜を過ごす行事も行われていました。
  この他(ほか)にも道祖神(どうそじん)、馬頭観音(ばとうかんのん)などが残っています。

『電気と電信柱』
今は、どの家庭でもスイッチ一つで電気がつきます。「そんなのあたりまえでしょ」そう思いますよね。
  田名に電気が通じたのは今からおよそ70年前のこと でした。一軒にひとつ、夜しかつかない電気でした。 部屋を移動するときには電球(昔は裸電球だった)を持って移動したそうです。 では、それ以前はどうしていたのかというとローソクや、ランプを使った生活でしたから火事も今より多くありました。
 現在の電信柱はコンクリート製だったり地下に電線を埋め込んだりしていますが、半在家に昔ながらの木の電信柱を見つけました。

『半在家のいわれ』
 堀之内の東、紅葉川(通称やくばのかわ)にそった南向きの小さな段丘の斜面に広がった集落で平安後期には既に居を構えた人々がいたと思われます。
 平時は、農民として田畑を耕し、いざ非常時ともなればたちまち武士として山野を駆け巡り、戦が終わればまた元の農民に戻る。つまり半分は在家武士であることから「半在家」という地名になったのではないかと言われています。

『矢向かい橋』
昔、川向こうの中津の小沢城には小沢太郎という名の武士がいました。その者が放った矢は田名のあちらこちらに飛び落ちました。その場所を飛び崎、矢向かいと呼び、半在家に矢向かい橋という呼び名で今も残っています。

ー笑える話ー


『協力 郷土懇話会』


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ズームイン田名 -08- 平成9年9月


< ふるさとわが街・田名テラス >


田名テラス建築前

  テラスの土地はもとは水田だった所を、神奈川県住宅供給公社がテラスハウス(相模原で初めての型)として、田名地区に最初の集合住宅を宅地造成し、昭和50年から入居を開始しました。
 近隣の方々は、春浅いころ、採ったよもぎで「草もち」をつくることが楽しみのひとつでした。そこに、テラスが建ってから早いもので22年が経ちました。特集するにあたり、最初からお住まいの方々に、お話をお聞きしました。
 当初、スタートしたばかりの自治会の役員の方々の苫労は大変なものだった土うです。特に、田名地区に早くなじむために、自治会連合会などの会議や活動には積極的に参加したそうです。
 また昭和52年自治会活動への要望をアンケート調査したところ、
*交通が非常に不便なこと
*医者が少ないこと
*子供広場がないこと
 などの要望が多くあったそうです。そこで、自治会活動の一つとして実行委員を中心に、また近隣の方々のご協力を得て、各方面へ働きかけをしたそうです。
 その努力が実って、昭和53年に淵野辺駅南口~望地キャンプ場人口にバス路線の運行が開始され、不便が少しは解消し、昭和56年には医院が開業するなど少しずつ住み良い環境へと変わっていったそうです。
 昭和57・58年には140名を超していた子ども会会員も現在では11名となってしまいました。かつて地区子連球技大会で女子ドッジボール部・男子野球部がそれぞれ優勝をし活躍したことも、今では懐かしい思い出となっているそうです。
 田名テラスの自治会活動や子ども会活動など色々な面で、昭和50年代は地域の皆様にお世話になり、育ててもらった10年であり、昭和60年代はやっと独り立ちをし仲聞入りが出来たがと思えた10年、そんな感想をお聞きしました。
 昭和から平成に年号が代わり、色々なことのあった田名テラスも、平成7年11月5日に、自治会結成20周年記念式典が盛大に執りおこなわれました。
 現在の田名テラスは高齢化が進みこれから先どのように自治会活動をもりたて、よりよい老後を送ることができるがが、今後の課題となりそうです。

神饌田田植式
 テラス・団地の土地は、相模原では数少ない美しい水田であったことがら選ばれて、昭和3年6月29日の御大典祈念の神饌田として田植式が行われたところです。

*御大典とは:皇室の大きい儀式。
 この場合は昭和3年11月10日の昭 和天皇の即位の大礼をさす。
*神饌とは:神を祀るときに供える 食べ物と酒

 

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ズームイン田名 -07- 平成9年7月


< 復活した清水の御輿 >


 清水は田名地区の西の端(はし)、大島との境の相模川に面した崖の上にあります。以前は、田名分古清水(たなぶんこしみず)とも呼ばれていたそうです。
 清水には多くの人々に守られてきた貴重な文化財である御輿や、不動堂、観音堂などの建物、お地蔵様や石仏が数多く現存しています。
 清水自治会に保存されている御輿は、明治の初期に湘南地方から譲り受けたと言われております。
 また、一説には暴れ御輿のため、湘南の海に沈め納められる予定であったものを、譲り受けたと言う話も残っています。以来、祭典には白装束に半てん姿の若者が担ぎ、当時ねん糸業の盛んな清水内を練り歩き、田名地域では一番盛大に夏祭りを盛り上げ披けてきました。けれども、第2次大戦のときは担ぎ手がいなくなり中断され、その復は復みがひどく、参拝するだけでした。
 平成2年に「山車(だし)」を修理したことをきっかけとして”御輿を復活させたい”という気持ちが強く、多くの人達の苦労が実り、やっと平成3年5月から7月にかけて、宮大工の手により修理にこぎつけることが出来ました。
 それは新しい材料を加えずに、元の物を磨き、金箔をほどこし昔の姿に近いきらびやかな御輿に修担されました。
 そして、平成3年の夏祭りから、女柱を交えた有志連に担がれ、往時の姿に修復された御輿が披露されました。
 現在は「清水御輿保存会」を中心に自治会、地域の人々がひとつの輪となってお祭りが盛大に行われています。
 修復工事で御輿に関する記録はありませんでしたが、柱の下に小銭6枚が挟まれてあるのが見つかりました。御輿をよく見ると、素朴な作りの中にも風格のある鳳凰と彫刻そして金箔装飾部の多さから当時としては相当の経費と労作を費やした価値がある御輿であることがわかりました。
 そして、平成3年の修理では、天皇即位祈念500円金貨4枚を入れたのと修理記録のプレートを貼りつけました。
清水の御輿
不動堂 『不動様』
 清水入り口のバス停の先のY字路を左にとり、しばらく進むと、お地蔵様や馬頭観音(ばとうかんのん)等の石仏(せきぶつ)があります。
 その先のお堂が、千葉県成田市にある成田不動(新勝寺(しんしょうじ))をお祭りしたといわれている不動堂です。不動は不動明王のことで、仏様の一人、大日如来(だいにちにょらい)が悪魔を懲らしめるため怒りの顔に変わったものといわれています。お堂の脇には双体道祖神(そうたいどうそじん)や1784年(天明4年)の地蔵様、さらには庚神塔(こうしんとう)なども並んでいます。
 なかに祭ってある不動明王は恐ろしい顔をしているが、立派なもので見る価値のあるものです。
 毎年、ドンド焼きの日にこのお堂に祭ってある男女の性の神(ご神体がある)を、白寿会のメンバーが祠(ほこら)を作り、中に納めて子孫繁栄を願ってお祭りをしています。このことは、地元でも知らない人が多いそうです。
観音堂 『観音堂』
 清水集落のほぼ中央に位置する自治会館の左に観音様が祭られています。この観音様は聖観音といわれ、昔、山伏によって背負われてて来たと伝えられています。
 堂の裏には、1761年(宝暦11年)の僧侶の供養塔である無縫塔(むほうとう)が建ち並んでいます。
 観音様は、安産、子育ての神といわれ、大正時代には嫁入りをする時に観音様、不動様、第六天をお参りしてから嫁いだそうです。
地神塔 『地神塔(じしんとう)』
 観音堂を後にして滝の集落の方へ進むと、十字路に行き着きます。十字路の手前左側に石塀に包まれるようにして立つ大きな石があります。この大きな石は、相模川から背負われてきたものといわれ、石の表には「地神塔」と刻まれています。
 地神塔は、江戸の終りごろに流行した土の神を祭る信仰の塔で、地神講と呼ばれる仲間によって建てられました。


『第六天』
 十字路をそのまま滝の方へ進むと、右手の人家の内に第六天が祭られています。  第六天は、民間信仰にかかわる厄除(やくよ)けの神として信仰を集めていたといわれて地神塔います。
 ほこらの後ろには3本の風変わりな模様をした幹が参拝者の目を惹きます。黒ずんだ樹皮の所々が、斑状に剥げおちて灰色になり、まさに鹿の子模様を示しているので「鹿子(カゴ)の木」と名付けられています。 このような大きなカゴの木は市内に余りありません。
 通りに面しては、1867年(慶応3年)に奉納された石灯籠が建っています。
 また、この地では戦国時代に連絡のため「のろし」が上げられたという言い伝えもあります。

ーこぼればなしー

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ズームイン田名 -06- 平成9年5月


< 新宿探訪 >


  新宿は戦国時代の終りごろに開かれたといわれる宿場町でした。渡辺玄泰(げんたい)の墓・稲荷(いなり)社・地蔵様など今でも現存しています。
故(ふる)きを訪ねて新しきを知る。歩いてみませんか。

玄泰の墓 『渡辺玄泰の墓碑(ぼひ)』
 1582年(天正(てんしょう)10年)安土桃山時代、武田の家臣、渡辺入道是念(ぜねん)が木下信久・島田元忠(もとただ)ら一族を引き連れて、新宿におちのび土着して先祖となる。一族の中には建具屋、呉服屋、飴屋などの職をもった人たちがおり、現在もそれらは屋号として残っている。
 渡辺玄泰は1798年(寛政(かんせい)10年)新宿に生まれ、18才の時江戸に出てオランダ医学を学んで医者となった。
 当時打ち続く農作物の不作と領主鳥山(からすやま)藩大久保家の年貢の取立ての厳しいことに困窮している村人のありさまをみて、玄泰は1846年(弘化(こうか)4年)50才の時代官へ訴え出る計画(門訴出入(もんそでいり))を企てたが、同士の中に裏切る者があり、密告され江戸伝馬町(でんまちょう)の牢獄に入れられたが、首謀者でないことが判明(相談役)。しかし放免されず人望の厚かった玄泰が村人に対しての戒めとして犠牲にされ、牢獄にて毒殺された。 亡骸(なきがら)は病死として下げ渡され葬儀は藩主の圧力があるためしめやかに行われた。
 墓石はすぐ建てることも出来ず、目立たないような現在の墓碑となった。
 玄泰の孫弘庵(こうあん)は困窮者には薬代もとらず、どんな遠距離、真夜中であろうと診察に駆けつけた。これも玄泰の教訓を守り人の為、村長を務めながら医道を全うした。葬儀には生前をしのぶ人々の葬列が隣村にまたがり夜中まで続いた。

『団子焼き』
 昭和初期(5年ころ)田名村の世帯数は850戸で人口が4300人(いずれも推定)であった。新宿は世 らいで村でも最小の集落であった。小さい集落でも講中(こうじゅう)(神仏にお参りに行くために作った団体の人々)があり、上(かみ)と下(しも)でも)に分がれ、道祖神(どうそじん)、庚申(こうしん)塔、六地蔵、地蔵様、地神塔(じしんとう)などの石物を祭って地域の安泰、五穀豊穣を願った。戦前戦後をとおして人々は地域の発展に尽くしてきた。
 団子焼きの行事は昔から今日まで長い期間にわたって正月の行事として受け緒がれて来た。昔、団子焼きの日は学校が半日で、”奉納道祖神”と書いたものや習字の書き初めを一緒に燃やした。その灰が高くあがると字が上手になるといわれた。また、この時に焼いた団子を食べると風邪をひがないとが、虫歯の薬になるなどと言われた。
現在は自治会の行事として引き継がれている。
団子焼き

『稲荷(いなり)神社のお祭り』
 1792年(寛政4年)新宿地区の五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神として祭られ、以来140年経った昭和11年に現在の位置に建て替えられた。戦争中は出征兵士がこの神社に武運長久を祈り、万歳の声に送られて戦場に赴いていった。その後、昭和55年には修復されたが、平成2年に新築されて現在に至っている。
 昔は、2月の初午の日に行われたが、今は2月の第一日曜日に稲荷講の当番が神社をご開帳し、おこわ、きんぴらなどの「おごっく」をお参りに来た人たちに振る舞って、祭りを盛り立てている。
稲荷神社
『観音様(かんのんさま)のお籠(こも)り』
 いつの時代に観音堂が建てられ、観音様が安置されたかははっきりしていないが、戦前から戦後にかけて地域の人々の信仰が高く、特に昔から安産の神様としてご開帳の時は参加が多くにぎわっていた(開帳4月18日・10月18目)。
 妊婦をもつ家庭、お産がすんだ家庭では新しいローソクを持参して本尊に供えて灯をともすのである。ま た、お産を控えている家庭ではともしたローソクの残りをもらって帰り、神棚でこれをともして安産を祈願するのである。
<お籠(こも)りとは>ご開帳をした時に誰もいなくては観音様が寂しいだろうと人々を集めては楽しんだことをいう。

<<三増(みませ)合戦>>
 13代小川左ヱ門尉通民(そうえもんのじょうみちたか)の時、1567年(永禄12年)秋10月甲斐の武田信玄が総勢2万を率いて小田原城の北条氏康を攻撃したが成らず岐路を三増峠(今の愛川町三増付近)にとった。これを予知した氏康は2万の兵を配し、三増の地に迎え撃つべく待ち受けた。が、武田勢の接近する のを見た北条勢は半原台地に移動し一大激戦となった。これを三増合戦と呼んでいる。 小川氏は北条氏に味方して当麻五人衆の旗頭(はたがしら)として出陣し、武勲(ぶくん)(手柄)を立て米50貫の褒美を与えられている。
三増合戦石碑

『協力 郷土懇話会』


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ズームイン田名 -05- 平成9年3月


< かいこと蚕影山 (こかげさん)>


 田名はかつて養蚕(ようさん)が盛んで、農家の生計を支えていました。それで人々は「おかいこさま」「おこさま」と呼び、とても大切にしていました。
堀之内の蚕影山(こかげさん)では蚕(かいこ)にちなんだ祭礼が行われ、堀之内自治会の行事として現在も続いています。

『蚕影山の祭礼』
 蚕影山とは、茨城県の筑波(つくば)の蚕影山神社から来た養蚕信仰です。
 人々は蚕のことを「おかいこさま」、「おこさま」と呼んでとても大切にしていました。蚕は気候や種(たまご)の様子によって、よくとれる年ととれない年があり、養蚕で生活している農家にとっては生計を左右する重大なことでした。そこから、養蚕信仰が始まりました。
 堀之内の蚕影山では、人々の養蚕信仰が盛んで養蚕にちなんだ祭礼が行われ、明治時代から百余年にわたり伝えられています。
 この祭礼は、4月には「たくさんの繭(まゆ)がとれるように」、10月には「たくさん繭がとれてありがとう」という願いを込め、本殿にまつられている金色姫(こんじきひめ)をご開帳(かいちょう)し、蚕影山和讃を唱えます。  戦争をはさんで途絶えていたこの祭礼は、堀之内自治会の行事として昭和51年に再開され、現在は自治会・子ども会の模擬店、老大会の踊りなどとあわせて行われています。
 また、かしの木に米の粉で作っただんご(まゆ玉)を刺して、健康を願う行事として毎年正月14日にだんご焼きが行われています。
『養蚕は重要な現金収入』
 水田の少ない相模原は、明治・大正・昭和の初めにかけて養蚕がとても盛んでした。特に田名では農家の9割が養蚕を行っていました。人々の生活は基本的に自給自足で、養蚕は農家の生計(肥料・子どもの教育費など)を支える重要な現金収入源でした。
 そして田名産業組合(現在の農協のようなもの)が中心となり、県内独自の3つの製糸工場(堀之内・陽原・半在家)を運営し、そこで農家の生活の安定を図っていました。
 ところが、昭和12年ごろから戦争のため桑畑ほ食糧の畑へと変わり、さらに昭和20~30年代にほ化学繊維の出現で生糸の需要は著しく減少し、養蚕農家ほ次第に減っていきました。現在田名でほ3軒ほどの農家が養蚕を続けています。

蚕影山和讃のようす


『「大杉の池」周辺は文化発祥の地』
堀之内自治会館の東側に池があります。
 この池のほとりに上溝からも見えるほどの大きな杉の木が昭和の初めごろまであったことから「大杉の池」と呼ばれています。
 この池を源流としている八瀬川は、半在家・塩田を通って、磯部の三段の滝の下で相模川に流れ込んでいます。
 大杉の池の北側には、かって覚明学舎(かくめいがくしや)(田名小学校・明治29年移転)や田名村役場(田名出張所)があったことから、このあたりが田名行政文化の発祥の地といわれています。
 現在は相模田名民家資料館が建てられ、養蚕に関する資料などを展示しています。

<<金色姫の物語>>  インドの国の大王は、皇后が早く亡くなり、後の皇后を迎えた。その皇后は、一人娘の金色姫を大王がかわいがっている姿に嫉妬し、姫を虐待(ぎゃくたい)したという。姫の命が危ないと思った大王は、桑の木で造った丸木船に姫を乗せ、どこか安住の地に流れつくようにと折り、大海へと逃がしたという。その丸木船は、日本の常陸(ひたち)(現在の茨城県)の国の豊浦(とようら)の浜辺へと流れついた。そこの庄屋の權(はん)の太夫(たゆう)という者がこれを見つけ姫を介抱したが、姫はこの世を去ってしまった。太夫は姫の遺体を小高い山に葬(ほうむ)ると、姫の体は虫となり、丸木船は芽をふいてもとの桑の木となった。そして虫は、桑の葉を食べて成虫となり、繭(まゆ)となった。
 これが蚕の始めである。
人々は、この繭から糸をつむぎ布を織った。そして日本人はこれによって豊かになった。  このようなことから、人々は金色姫を非常に敬(うやま)い、大切にし、いつしかご神体としてまつられてお祭りをするようになったといわれている。

ご神体の金色姫


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ズームイン田名 -04- 平成9年1月


< 塩田にあった異人館 >

塩田は歴史的にも古い地域で、多くの遺跡が発見されています。また明治時代には、当時としては珍しい異人館や塩田分校がありました。
その塩田も区画整理で大きく変わろうとしています。

異人館  『異人館』
 明治の中ごろ、塩田の相模川沿いの崖の上に異人館と呼ばれた洋館造りの建物がありました。英国人の貿易商が別荘として建てたものです。
 今でこそ洋館はめずらしくもありませんが、明治という時代を考えるととてもハイカラな建物だったようです。木造で外にはサンデッキ、ホールにはボーリングの施設もあったということです。
 そのころの子どもたちは、着物に三尺帯をしめて生活をしていました。しかし、異人館の人たちは洋服に革靴姿で目・髪・肌の色が違うなど、すべてがめすらしく驚きだったようです。運転手付きの箱型の乗用車が走ってくると、子どもたちは車の後を追いかけたり、道路に顔を押しつけてガソリンの匂いをかいだりしたそうです。また、異人館へ行ってはパンをもらうのが楽しみだったということです。
 現在、建物は取り壊されてかつてあったところは往商液化ガスのプロパンの集配センターとなっていて、昔の面影をしのぶことはできません。
『塩田の遺跡』
 塩田は相模原市の中で最も古くから人が住みついたところで、現在は区画整理が行われています。その工事の途中に埋蔵文化財の調査が行われ、多くの遺跡が存在することがわかりました。そこには約1300年前の当時の有力者たちを葬る墳墓があり、塩田にある谷原(たにはら)12号墳は直径20メートル規模の円墳であったことが明らかになりました。
 副葬品は武器類として直刀(ちょくとう)、鉄鏃(てつぞく)、装身具としては耳環(じかん)、管玉(くだたま)、切子玉(きりこだま)などが発見されました。また前庭部には火熱を受けた土師器(はじき)や杯(つき)が出土したことから死者を弔う墓前祭が行われていたと考えられます。
 実際に見てみると当時の生活がどんなものだったか私たちの想像は尽きないでしょう。
古墳、出土品
『もうひとつの学校』
 田名学校(小学校)は、1873年(明治6年)に滝の宗祐寺と陽原の南光寺に創設されました。その後明治9年に2つの学校を合併し、堀之内の大杉公園の近く田名の明覚寺に置き、覚明学舎(かくめいがくしゃ)と呼びました。 そのとき塩田では、通学路が遠いので塩田児童館跡に「塩田分校」を設けました。  覚明学舎は、明治25年4月名称を尋常田名小学校に変え、(以来4月15日を田名小学校の開校記念日としています。)その後明治28年4月に尋常高等小学校となり、翌年4月に現在の場所に移り今日に至っています。
 塩田分校は、明治29年7月の児童出席簿が現存していることから、少なくともそのころまではあったと思われます。

覚明学舎

『協力 郷土懇話会』


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ズームイン田名 -03- 平成8年9月


< 相模川のう飼い >


相模川は、昔からう飼い漁がさかんに行われていました。もともとは、生活のためのものでしたが、戦後は屋形船のお客さんに見せるための観光う飼いへとかわっていきました。
う飼いの様子
 相模川でも、「う飼い」が行われていたのをご存知ですか。
 う飼いというと、「夜にかがり火をたいて舟の上で手綱を操る」岐阜の長良川を思い浮かべると思います。しかし相模川では舟を使わず、川の中に入って網を操る「巻き捕り」という方法で行っていました。
 うはもともと野生の鳥ですが、人間に対する恐怖心がなくなれば人前でもアユを捕まえるようになるのです。その性格を上手に魚捕りの道具として利用したのがう飼いです。うを本格的に使えるようになるには、3大月ほどの調教が必要だったそうです。
 うを使うコツは、えさを加減することです。それは、体重が重いと急流では敏しょうに動くことができないからです。
 捕模川にどのくらいのアユがいたかというと、毎年3月初旬から中旬ころの南風の強い日に、数百万匹の子アユの大群が捕し寄せて川が帯状に黒くなるのが見られたそうです。
 う飼いがいつごろから行われていたかははっきりしませんが、清水地区に鵜飼免という地名が残っている ことから、相模川には大勢のう飼い師がいたことが想像できます。
 明治3年に、2人のイギリス人の新聞記者が、相模川の川下りをした時にう飼いを見ています。その様子は、ロンドンタイムスに掲載され、そのことは相模原市史にも紹介されています。
 実際に田名でう飼い業をしていた小川稔さん(水郷田名在住)のお話によると、お父さんの延太郎さんがう 飼いを始めたのは昭和7年で、68歳の時でした。そのころは、東京や横浜からもお客さんが大勢来て景気が良かったそうです。ところが昭和19年ころには戦争が激しくなり、うの餌どころではなく、やむを得ずうを手放してしまいました。
 その後、昭和27年に観光協会よりう飼い再開の話が出ました。ところがうの捕獲場所だった羽田(東京都)の松林は進駐軍に接収されて捕ることができませんでした。そこで県の観光課に頼んで、指定捕獲人から2羽を特別に譲り受け、やっと再開することができました。
 しかし、アユを捕って売るだけでは、収入が少ないため、水郷田名の料亭が出す屋形船のお客さんに見せるう飼いへとかわっていきました。
 中には芸達者なうもいて、アユをホーンと投げては上手に受け止めて見せるので、客が大変喜び拍手をすると調子に乗って繰返すのでとても人気者だったようです。
 その後、城山ダムができ水量も減少し、相模川の上流は砂利の採取が盛んになり水が濁ってしまいました。そのため、昭和38年ころにはう飼い業もなりたたなくなり、次第に姿を消していきました。

鵜飼免(うかいめん)の話

<<かち使い(徒歩)>>
 3人一組となり、川の中でうを操る人の足に、幅40センチメートル長さ20メートル程のう網といわれた網をかけます。そして2人が川下に向かって駆け足で網をだ円形に撒きながら魚を取り囲むようにして、段々と網を縮め魚を追い込んで、うが捕らえ易いようにしてあげる方法です。

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ズームイン田名 -02- 平成8年7月


< 始まりは4軒だった・・・四ツ谷 >


『地名のいわれ』
 四ツ谷は、昔は上四ッ谷交差点が中心とされ、4軒の家が始まりといわれています。
 上四ッ谷は、大山街道と久保沢街道が交わる所で、大山街道を示す道標や道祖神などがありました。現在では、それらの碑などは石神社(いしがみしゃ)に移されています。
 四ツ谷は田名の中でも比較的新しい集落(350~400年前)で、主に堀之内および久所(水郷田名)から分家した4軒が姑まりといわれています。
 現在では、県道相模原・愛川線の「田名四ツ谷」の付近が中心とされていますが、昔は、大山街道と久保沢街道が交わる上四ツ谷交差点が、交通の要所で中心とされていました。
 そもそも、その十ト字路付近に4軒の家があったとされそのことは、石神社にある道標からも想像できます。その碑には「相州高座郡田名村四屋」、1714年(正徳4年)という文字が刻まれています。その後集落が形成され、明治の初期には47軒あったそうです。
 なぜ、「四ツ屋(家)」から「四ツ谷」になったかは、はっきりしたことはわかりませんが、野水(のみず)の話と開連性があるかも知れません。
 ちなみに、東京の四ツ谷は江戸時代初期4軒の茶屋があったとされ、田名の四ツ谷と似ています。

 『石神社』
 田名四ツ谷の交差点の角にある「石神社」は集洛の守り神として信仰されています。
 境内には、集落の石造物が集められており、地神塔(じしんとう)、庚申塔(こうしんとう)、秋葉塔、六地蔵、二十三夜塔(やとう)さらには大山街道の道標や1805年(文化2年)の三力所橋供養塔などがここに保存されています。
 石には神秘的な霊力があるとされ、病気を防ぐために、また旅人の安全を願うために村のはずれやつじに岐(くなど)の神、道の神、塞(さい)の神、道祖神、庚申などを祭って、悪魔を追い払ったり、村に入るのを防ぎました。また、生産の神として陰陽石(いんようせき)を祭り招福の神々を村はずれに併せ祭った、これが石の神で神です。
 元々道標などは、現在の上四ツ谷の交差点の角にありました。しかし、県道相模原・大磯線の拡幅に伴っ て、交差点が改良され昭和40年に移されました。
 なお、祭礼は毎年の9月第一土曜日に行われます。

石神社石神社の石碑


『大山街道』
 大山は丹沢山地の南東部にそびえる標高1252メートルの山です。この山は「アフリサン」(雨降山・阿倍利山・阿夫利山などの文字が当てられる)とも呼ばれ、その秀麗な姿は相模平野の各所からも望め、古くから信仰の場として人々にあがめられてきました。
 その人々が行き来した道が「大山街道」と呼ばれ、大山を中心に放射線状に無数に広がっていて、近県からも訪れる人が多くいました。
 現在の埼玉県方面からの道は、ハ王子の宿場を通り、御殿峠を越え、境川(両国橋)を渡って橋本村の宿場へ続いていました。橋本村を過ぎてからは二筋に分かれ、一方は上溝村を抜けて当麻村へ、もう一方は下九沢村の塚場を通り、田名村へと続いていました。
 田名村では、上四ツ谷~現田名公民館~南光寺(陽原)~望地~「うま坂」を下り、「望地の渡し」を渡って、六倉(むつくら)(愛川町)へと続いていました。江戸中期以降は、上四ツ谷から久所へと続いて、「久所の渡し」を渡り、小沢(こさわ)(愛川町)へと続いていました。

野水の話

<<田名の地名>>
 田名は、現在15の地区に別れていますが、昔は図のように小字(こあざ)名が53に分かれていました。
 田名は、相模原市の大字(おおあざ)で、昭和16年町村合併により、相模原町の一地域となるまでは一つの村でした。
田名の地名は、名田制(みょうでんせい)つまり昔の田や畑を所有した人の名前を付けた名残とする説と、相模川の対岸から望んだ地形が段々の棚のようになっているので棚村とつけられたという説があるそ うです。
土地利用図

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ズームイン田名 -01- 平成8年5月


< 生活を支えた『滝の渡し』 >

生活を支えた『滝の渡し』  みなさんは、田名地城の相模川に3つの渡しがあったのを知っていますか?
川上から「滝の渡し」 「久所(ぐぞ)の渡し」 「望地(もうち)の渡し」がありました。
 今回は、 滝在住の篠崎久作さんと葉山島在住で実際に渡しを利用していた大島まり子さんに「滝の渡し」 についてお話をお聞きしました。
 渡し舟は高田橋(大正13年竣工)や昭和橋(昭和6年竣工)が架かる以前からあったそうです。
 「滝の渡し」は、高座郡田名村字滝(相模原市田名滝の宗祐寺の下あたり)と津久井郡湘南村葉山島(城山町葉山島の町田乗馬センターあたり)とを結ぶ交通手段でした。〈現在は碑が建っています〉滝の人たちは、三栗山へ山菜探りやお風呂の燃料(まきなど)をとりに行き、葉山島の人たちは、久所(現水郷田名)に買い物や久楽館と呼ばれた映画館などに遊びに来るために舟を利用しました。
 当時は、高田橋までの三栗山側の県道は、道幅が狭く牛車がやっと通れるほどでしたので、「滝の渡し」は生活に欠かせないものでした。
 篠崎久作さんのお話によれば、お父さんの嘉七さんが交通の不便なことに困った人を見兼ねて持ち舟を出していたのを、久作さんも時々手伝ったことがあるそうです。
 台風や洪水のために何回か木の橋が流されたり、トラックで砂利を運搬するための橋は、人が通れないので舟を利用するようになったのが、昭和16~17年ころでした。当時は、一回渡るのに地元の人が4銭で、それ以外の人は5銭でした(ハガキが1枚2銭の時代)その後、昭和20年ころには、滝の篠崎角太郎さん、大貫源八さん、梅沢敬三さん、篠崎友治さん、葉山島の江成さださんの5人の船頭さんが話し合って交替で舟をこいでいました。

針金渡しの方法
 昭和29年に高座郡から相模原市になった時、市の補助で作った舟を使い始めました。当時、一そう5~6万円だったそうです。
 渡しの方法として最初はさおでこいでいましたが、水はも多く川の流れが速く舟が流されるので、村岸にワイヤーを渡し、舟のへ先とロープで結び、手でたぐり寄せて進む、さらにワイヤーに滑車を取り付け水の流れを利川して進む方法(伊井国太郎さん考案の針金渡し)へと変わっていきました。
 葉山島には中学校がなく、城山町にある中学校に通うより田名中学校に来たほうが近いということで、この舟を利川していました。その当時は10円で渡れました。
  大島さんの話では、部活動をしていると最終の舟の時間には間に合わないので、急いで滝坂を走っていき、「おじさ~ん」と呼べば向こう岸からでもすぐに飛んで来てくれたそうです。
 人の他にも荷物や自転車を乗せることもできたということですから舟は横幅が1メートルぐらい、長さが8メートルぐらいと結構大きいものでした。当時の舟のいかりは今でも、篠崎久作さんのお宅で大事に保存しています。
 渡し舟は、上流にダムが造られ、水量も減ってすこしずつ衰退して昭和48年ころにはバスの開通とともに消えてしまいました。
 毎年、泳げ鯉のぼりの時期には、内水面まつりで相模川第1漁業組合が帆掛け川を飾るそうです。
 お話を聞いていると相模川とともに生きてきた昔の人々の生活をかいま見ると同時に今も昔も川と切っても切れない歴史を感じずにはいられませんでした。そして、現実に渡し舟を相模川に浮かべてみたいと思うようになりました。

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