田名の地名
< たな(田名) >
田名は、相模原市の一大字(おおあざ)で、昭和16年町村合併により、相模原町の一地域となるまでは一つの村でした。 田名の地名は、*名田制(みょうでんせい)の名残りとする説と、相模川の対岸から望んだ地形が段々の棚のようになっているので、棚村(たなむら)とつけられたとの説があります。 :田名の歴史 *名田制(みょうでんせい)=名田という用語は、*田堵や名主が自らの経営する土地を明示するために、その土地へ名称をつけたことに由来する。名田の名称を、田堵本人の名前と同じとする場合が多く、人名のような名田の例は日本各地に見られる。:Wikipedia *田堵(たと)=9・10世紀ごろ、営田活動により富を蓄積した富豪層:Wikipedia |
< たき(滝) >
断崖にかこまれた地区で、地方(主に中国地方)によっては、断崖を『ダキ』と呼ぶところもあり、断崖にかこまれていることから名づけられたとも言われる。
:田名の歴史 |
< すいごうたな(ぐぞ)(水郷田名)(久所) >
昔、久所に公文所(くもんじょ)といって、今の市役所のようなものがあり、『文』の字を省略して公所と呼んでいたという。その後公所は大山街道の宿場町として栄え、相模川の洪水のたびに、人々が久しく宿屋にとどまることが多く、同音であったので久所と称したと言われる。 水郷田名は、昭和10年(1935)『鮎の水郷田名』として、横浜貿易新報社(現神奈川新聞)による、県下45佳選に当選した。その後、昭和58年(1983)久所のたんぼに水郷田名団地ができたことから、久所も水郷田名に改名した。 :田名の歴史 |
< ほりのうち(堀之内) >
昔、平安時代に武士の館があり、その館の周囲に堀をめぐらせていたことから「堀之内」と呼ばれるようになったという。各地にこの地名は多く残っている。 語源的には、中世から近世にかけて「城や館」のあったところとされているが、むしろその地域の生活や開発の中心であったと考えられている。機能的には、農業用水の水源や用水路、排水路などの役目を持っている「堀」に囲まれたところであると考えられているが、大杉の池を源流としている八瀬川流域の農耕地を考えるとこの考え方に共鳴したい。。 :田名の歴史 |
< はんざいけ(半在家) >
地元の古老は、「はんぜーけ」と言いました。 堀之内の東、紅葉川(もみじがわ)(通称:やくばのかわ)にそった南向きの小さな段丘の斜面に広がった集落で平安後期には既に居を構えた人々がいたと思われます。 平時は農民として、田畑を耕し、いざ非常時ともなれば、たちまち武士として山野を駆け巡り、戦(いくさ)が終わればまたもとの農民に戻る。 つまり半分は在家武士であることから、「半在家」という地名になったのではないかという説。 *1 半在家と言う地名は寺領と官領が折半されていた所から生れた名であるという事。官領は公地を意味するもので、寺領の拡張が官領を押領していく過程で生れたものであるという説。 *2 荘園制の土地支配の状態に「在家」と呼ばれた、徴税負担の単位がある。「半在家」の呼称も、この考え方から類推すれば、在家役の負担が「一在家」に足りない地区であったと考えられるが、田名地域の農耕地の中心的な地区であったと考えられる(田所の姓が多い)。という説。 *3 在家は一般に農民の住宅のことですが、寺域の農家をいう場合もあります。 *1:ズームイン・田名 *2:「ふるさとニュース喜多方」 *3:田名の歴史 |
< よつや(四ツ谷) >
四ツ谷交差点を清水方面に向かい、県道大磯線の交差点に、四軒の家(原、小野、木下、篠崎)があり、そこから始まったと言われ、四ツ家が同音の四ッ谷になったと言われる。四ツ谷の北方に三谷(三家)という集落があったが、人々は清水に移住している。
:田名の歴史 |
< しおだ(塩田) >
地元では、「しょだ」と言いました。 約千年位前の(九三四)承平四年に、源順(みなもとのしたごう)という人が著わした和名類聚抄の相模国高座郡の一三郷の中に見える。 昔、塩を造った塩田(えんでん)があったという説や塩を交換した所という説もある。塩田の北の方を上塩田と称し、南の方を下塩田と呼んだ。 :田名の歴史 |
< もうち(望地) >
昔は毛地と称し、非常に良く肥えた土地で、農作物の収穫が多かったという。また、農作物が畑に立っている状態を立毛(たちげ)と呼び、その状態を小高いところから望める意味の「望地」を地名にあてたとも言われている。
:田名の歴史 |
< みなばら(陽原) >
「ミナバラ」とは平担な台地を示す言葉で昔は皆原、または南原とも書いた。今の「陽原」という文字は陽原山南光寺の山号からとったと思われる。 :田名の歴史 |
< くずわ(葛輪) >
下九沢の人々が鳩川の対岸の土地(葛輪)を開墾したと言われている。入植当時は『くづのつる』が輪になっており開墾に苦労したともいう。別名この附近を田名分九沢とも称した。
:田名の歴史 |
< しんじゅく(新宿) >
戦国時代の当麻宿の新宿として作られたと思われる。北側の上新宿は多くが木下姓で、武田の遺臣と伝え、飲料水は田名宿坂まで湧水を汲みに行ったという。南側の下新宿の多くは小川姓で一遍上人の従者の一人で、塩田より移り住んだという。
:田名の歴史 |
< たかたばし(高田橋) >
久所の渡しと初代の橋 江戸時代中期に大山講が隆盛し(大山道)、武州から相州大山への参詣者の渡河のために久所(田名)・小沢(高峰)間に渡船が行われていた[1]。 その後高峰村・田名村間の渡船は、神奈川県道として整備された愛川・八王子線の一部となっていたが、度重なる洪水で渡船が流失破壊し、請願や寄付の結果、1924年(大正13年)に竣工した[2]。名前の由来は当時の右岸(高峰村)と左岸(田名村)から一文字ずつ抜き出して名付けられました。 2代目 橋は1925年(大正14年)、県に移管が決定したが、同年の豪雨で流失してしまった。県費により高峰村が請け負い、仮橋が同年竣工。翌1926年(大正15年)には橋脚の起工式が始まったが、その頃相武電気鉄道の厚木に至る経路において、橋を共用する計画が企てられた。しかしその後経済不況により計画は頓挫、橋自体の工事も3年中断し、1929年(昭和4年)8月25日にようやく竣工した[3][4]。 現在の橋 3代目 現在の橋は1975年(昭和50年)に完成したものである。田名の側には橋の100選(橋の由来)、篠崎隆像、鮎供養などの碑が並んでいる。 注 1.^ 相模原市史2、p343 2.^ 相模原市史4、p167 3.^ 相模原市史4、p439 4.^ 田名の歴史、p71 |