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小山今昔物語

小山の今昔を写真で紹介するコーナーです
昔の相模原の風景と、同じ場所の現在をご紹介します
昔を知っている方は懐かしい思いに、
知らない方は以前はこんな風景だったんだな、と
タイムスリップ気分を味わってみてください

バックナンバー   
 レクレーションパーク      
東西道路 南北道路 こばと児童館 2 小山公民館 2
昔懐かし相模原駅  六十六部日本回国供養塔  矢掛久保遺跡   江戸時代の小山
懐かしい電車たち  神奈中バスカード  木炭車三太号  陸軍造兵廠 
小山中学校 戦前・戦中の暮らし  補給廠   お稲荷さん
向陽小学校 2  すすきの保育園   六地蔵   こどもセンター
向陽小学校  小山公民館 総合相模更生病院 こばと児童館
相模原市子ども会の歌レコード  相模原駅前   小山地区の航空写真  境川 昭和橋付近


 
撮影場所:「相模原スポーツ・レクレーションパーク」
 
 撮影時期:2020年10月 撮影時期:2020年10月 
撮影時期:2020年10月


内覧式の模様



幼児用遊具



幼児用遊具
 撮影時期:2020年10月 撮影時期:2020年10月 
撮影時期:2020年10月


幼児用遊具


幼児用遊具


幼児用遊具


 米軍相模総合補給廠の敷地の一部が相模原市へ共同使用が認められ、その一部がスポーツ・レクレーションパークとして内覧会が令和2年10月26日開催されました。実際のオープンは、11月14日です。現在は、遊具広場、芝生広場が完成したところです。順次、人工芝グラウンド(R3)、ボール遊び広場(R4)、軟式野球場(R5)が作成される予定です。
 

 
撮影場所:「東西道路」
 
 撮影時期:2018年3月 撮影時期:2018年3月 

記念撮影

平成30年3月22日に地元の関係者で記念撮影

歩き初め

歩き初め!


 昨年夏から工事が始まった東西道路が、いよいよ開通!
 

 
撮影場所:「南北道路」
 
 撮影時期:2017年2月 撮影時期:2017年2月 
撮影時期:2017年3月

平成29年2月16日補給廠の壁が壊される写真

平成29年2月16日 補給廠の壁が壊される

平成29年2月16日補給廠内道路舗装工事中の写真

平成29年2月16日 舗装工事中

平成29年3月14日南北道路に白線塗装中の写真

平成29年3月14日 白線塗装中
 撮影時期:2017年4月 撮影時期:2017年4月 
撮影時期:2017年4月
平成29年4月22日南北道路開通記念式典で挨拶中の加山市長の写真

平成29年4月22日 加山市長挨拶
平成29年4月22日 テープカットの写真

平成29年4月22日 テープカット
平成29年4月22日 パトカー先導により通り初めの写真

平成29年4月22日 白バイ先導による通り初め


 米軍相模原補給廠の敷地の一部が相模原市へ返還されました。これまでは、丸山地区の方は、相模原駅前から小山公民館前まで迂回して行き来しておりましたが、このたび、総合相模更生病院の前を通り、ここを直通できる南北道路が工事中です。2月16日の写真は、補給廠の壁が壊される瞬間の写真です。

 また3月14日の写真は、ほぼ舗装が完了し白線をひいていました。残念ながら車は通り抜けられない様です。

 4月22日に南北道路開通記念式典が、午前10時から現地で開催されました。市長、市道路行政幹部、相模原選出国会議員(あかま二郎議員、もとむら賢太郎議員)の挨拶がありました。とりわけ印象的だったのは、小山地区自治会連合会石井会長の「この時を待ちに待っていました」の喜びの一言でした。地元特に、宮下1丁目地区、丸山地区近辺の方たちの利便性が大きく向上しました。

 これからは、南北道路(約900メートル)が開通したので、相模原駅、小山公民館前、宮下交差点を一回りすると約 3kmが大きな散歩道やジョギングのコースに持ってこいのルートになりました。
 

 
撮影場所:「こばと児童館」
 
 撮影時期:1965年頃 撮影時期:2013年7月 
撮影時期:2014年4月
昭和40年頃のこばと児童館の写真

昭和40年頃のこばと児童館館庭の写真

昭和40年頃のこばと児童館
改築前のこばと児童館の写真

改築前の児童館の壁に絵を描くこどもたちの写真

平成26年7月
改築の為、閉館間近のこばと児童館
最終日に壁に絵やメッセージを書きました。
平成26年新しくなったこばと児童館外観の写真

平成26年に新しくなったこばと児童館室内の写真

新しい外観と室内


 昭和38年に地域の児童館として開館。自治会や子ども会の活動の場として利用されました。
 昭和50年代に消防団の移設に伴い、増改築をしています。

 平成7年の向陽こどもセンター開設時に、統廃合の為、閉館される予定でしたが、地域の皆様の要望によって継続。相模原市へ移管された後も、多くの子どもたちが遊びの場として活躍しました。

 平成25年7月末に、全改築の為、閉館。
 平成26年4月1日、新装開館しました。広くなったホール、外テラスが人気。
「屋根のある公園」をコンセプトに、毎日多くの子どもたちの遊びを見守っています。
 


小山公民館(改修工事中)   レイアウト
改修工事完了間近の小山公民館の写真
改修工事完了間近の小山公民館の写真
2014年2月21日撮影
新小山公民館のレイアウト図 

小山公民館改修工事

 上左の写真は、平成26年2月21現在の小山公民館の写真です。

 小山公民館は、昨年7月21日参議院選挙完了を待って改修工事に入りました。
 7ヶ月後ほぼ工事が完了し、現在外装工事に入っています。
 以前と変わった点は、写真左にある小さな建物が増設された事です。これはコミュニティ室と呼ばれ
 主に地域の方々の会議に利用されます。それから、太陽光発電設備が導入され使用電力の一部を
 まかないます。

 内部では、図書室が1階の旧和室へ移動し、旧図書室が多目的室に生まれ変わります。
 また、料理実習室は、アイランド方式となり料理に専念する形になります。

 市民皆様が利用できるのは、4月8日からとなります。また落成式が4月19日に実施されます。


昔懐かし相模原駅 
昭和33年相模原駅の写真
昭和33年相模原駅
昭和42年相模原駅
昭和42年相模原駅 

昔懐かし相模原駅

 上左の写真は、昭和33年の相模原駅です。駅前の神奈中バスは、ボンネットタイプです。
この頃、相模原駅北側は米軍補給廠で、現在の北口はありませんでした。

 上右の写真は、昭和42年の相模原駅です。懐かしい蒸気機関車とチョコレート色の電車が走っていました。窓は木枠で夏は良いが冬は隙間風に泣かされた思い出があります。この電車は、昭和54年まで走りました。

 右の写真は、昭和37年上溝駅の運賃表です。この当時博多まで2,020円となっています。現在東京博多間は、普通運賃13,440円、のぞみ自由席特急券7,770円と比較すると約1/10でした。昭和30年代は、急行が走っており、特急は走っていませんでした。

      (出典:市制50周年記念要覧)
昭和37年上溝駅の運賃表


六十六部日本回国供養塔 
六十六部日本回国供養塔の写真
六十六部日本回国供養塔

六十六部日本回国供養塔

 安永年間(1772〜1780 年 境川の土橋(現在の大正橋)が、暴風雨で流され住民が困っていました。そこに全国の社寺を行脚する修行僧が通りかかり、建設費を集めることを約束し数年後お金を渡して去りました。そのお金で橋を作りました。当時村の有力者常盤弥兵衛さんが、橋の袂に供養塔を建て、修行僧に感謝の意を表し供養したといわれています。

 、昭和40 年代の境川改修工事の際に常盤弥兵衛さんの子孫である常盤家の邸宅内(宮下2丁目バス停付近)に移されましたが、その後移転され、現在はおそば屋さんになっています。

*六十六部とは…
 正しくは日本回国大乗妙典経聖といい、江戸時代には六十六部または六部の略称でよばれた回国聖のことです。書写した法華経札を全国六十六ヵ国の霊場に一部ずつ収める目的で、諸国の社寺を遍歴する行脚僧です。

 詳細は、相模原市文化財調査普及通信第19号を参照下さい



 
矢掛久保遺跡
 
矢掛・久保遺跡出土品の写真
上段 2区22号住居出土金具(上 表、下 裏)
中段No266遺跡3号出土金具(左 表、右 裏)
下段左 18区26号住居址墨状遺物
下段右 16区出土円面硯
(矢掛・久保遺跡の調査より)
先土器時代の矢掛・久保遺跡出土品の写真
先土器時代の石器
(矢掛・久保遺跡の調査より)
 矢掛・久保遺跡 住居と掘立柱建物の分布図
矢掛・久保遺跡 住居と掘立柱建物の分布図 (相模原市史考古編より) 
 現在の地図
上記の遺跡分布地図は、概略黒枠線の範囲に相当する(Mapionより)
赤い一点鎖線は、緑区と中央区および東京都と神奈川県の境を示す。

矢掛・久保遺跡 (矢掛・久保遺跡の調査、相模原市史考古編より)

 天縛神社の南側の高台一帯は、小山矢掛遺跡調査団(1982年)を手始めに、京王線開発に伴い遺跡調査が矢掛・久保遺跡調査会(1984)他8次調査(2001)まで精力的に行われました。またこのすぐ傍に境川をはさみ東京都側に、田端環状遺跡があります。

 調査により8世紀〜11世紀初の大集落であることがわかった。竪穴住居跡55、掘立柱建物跡24、溝4、土坑79、火葬墓1、土器集中出土地点1などが発見されている。



 
江戸時代の小山
 
江戸時代の小山村の絵地図

江戸時代の小山村の絵地図(相模原市史第5巻より)
昭和2年の小山地域の地図(部分)

昭和3年小山地域の地図(関口迪彦さんご提供の一部)

江戸時代の小山村の絵地図 小山村 (相模原市史第5巻より)

 東は上矢部・矢部新田、南は下九沢上溝、北は境川を隔て武州小山(町田市)に対し、広く相模野の一角を占めている。東西約35町、南北24町。
「東鑑」の建久元年(1190)11月の条に頼朝上洛の際の供奉の列に小山太郎の名が見え、同6年(1195)3月南都着御の際の供奉の列に相模小山太郎の名がある。また建保元年(1213)5月和田義盛の乱の戦死者の中に小山太郎・次郎・四郎などの名が出ている。これらは横山党の一族でこの地に居館をもっていたものと思われる。
 この地はもと下相原村であったものが正保3年(1646)野村彦太夫為重の検地より村高465石9斗5升5合になり、同名相原村が七ヵ村もあって非常にまぎらわしくしばしば村違いなども生じるときがあったので小山村と村名をかえた。検地は寛文4年(1664)久世広行が行い村高は645石1斗1升9合となった。


昭和3年当時の小山地域の地図(関口迪彦さんご提供の一部)

 この頃は、畑だけが広がる農地であった。小山地域には約20軒くらいの集落であった。
 参考 小山の昔語り


 
懐かしい電車たち
 
1号機関車と創業期の客車の写真

1号機関車と創業期の客車
EF58形式電気機関車の写真

EF58形式電気機関車
2号御料車の写真

2号御料車
 

 8月7日小山公民館夏休み子どもバスハイクで、埼玉市大宮にある鉄道博物館に行って来ました。
昔懐かしい歴史ある電車が陳列してありました。

 1号機関車はイギリスから1872年に新橋と横浜を結ぶ日本最初の蒸気機関車で、国の重要文化財になっています。

 EF58形式電気機関車は、昭和20年代後半に開発された、旧型電気機関車の最後の形式だそうです。多くの電車ファンから「ゴハチ」の通称・愛称で親しまれています。

 御料車は、1号、2号、7号、9号、10号、12号までありました。これらはすべてガラス張りに覆われていました。1号、2号は明治天皇専用で、7号は大正天皇専用、9号は専用の食堂車、10号は大正時代にお召列車専用展望車、12号は昭和天皇専用車だそうです。菊の御紋がばっちり入っていました。
                                       (鉄道博物館資料より参照)


 神奈中の「切符」&「バスカード」
神奈中の切符(木炭バス運行時)の写真
東海道乗合自動車株式会社(神奈中)
の切符(昭和14年頃 木炭車以前)
神奈中のバスカードの写真

神奈中の一部のバスカード
(昭和63年〜平成22年)
「三太号」の名前の由来 (神奈中のHPより)

皆さん、あの代燃車(薪バスや木炭バス)が走っていた頃を、なつかしく思い出すことがありませんか。昭和25年頃、まだ戦後の混乱が残り、人心も荒廃していたあのころ−当時、NHKで放送された子供向けラジオ番組「三太物語」は、大人気を博したものでした。

主人公の三太少年を中心にくりひろげられるこの物語はあの頃の人々の心にどのくらい潤いを与えたことか知れません。 また、物語の舞台となった津久井郡の道志川付近は当社のバスが昔から走っておりますし、当時、三太君のような少年達や先生も当社のバスに乗られたものでした。

だから三太君達と当社のバスは昔から大の仲よしだったのです。 それに、たくましく、かざりけはないが正直で、真実一路に生きていく三太君の姿がそのまま当社のイメージではないかと思われるのです。

こういうわけで、この代燃車に「三太号」と名前をつけたのです。 この物語に出てくる人と人との温かい心のふれあいは、現在も、みんなが求めているのではないでしょうか。

三太物語 (神奈中のHPより)

「三太物語」は青木茂先生の作で相模湖に近い道志川付近の山村を舞台として、そこに住むわんぱくで、たくましく、かざりけのない少年三太が主人公となっております。

この三太がまきおこす、ゆかいな出来事を中心に彼の友だちや花荻先生、校長先生、村長さん、駐在さん、それに魚とりの上手な仙じいさんなどの人間愛と正義感をまじえて明るく心あたたまる子供の生活をえがいたものです。

この物語が最初に書かれたのは1946年(昭和21年)で「赤とんぼ」という雑誌に発表された「かっぱ三太」という作品です。 以後つぎつぎに書きすすめられました。

また1950年(昭和25年)4月30日からNHKの子供向けラジオ番組として放送され、「おらあ三太だ」という言葉ではじまるこのドラマは子供達の人気の的になりました。

そして番組が終わったあとも、アンコールの声が強く、昭和27年には続編として再放送、のちには映画化され、これも人気を博しました。


写真左
 前回紹介しました木炭車(木炭バス)運行以前、昭和14年頃の全線共用普通乗車券です。 
神奈川中央交通となる以前 東海道乗合自動車時代の切符です。お金の単位は「銭」となっています。

写真右
 昭和63年〜平成22年まで神奈中で実際使われていました一部のバスカードです。
上のカードは、湘南の海 券面1,100円(販売価格1,000円)、
中央は、宮ヶ瀬 虹の大橋 券面3,360円(販売価格3,000円)、
下は多摩ニュータウン 券面5,850円(販売価格5,000円)、です。
 
写真提供:神奈川中央交通株式会社 総務課 広報係
       本記事は小山公民館の責において作成しました。問合せは小山公民館へお願いします。
       



 
「木炭車 三太号」
 
昭和56年6月復元された木炭車三太号の写真
昭和56年復元された木炭車三太号
木炭車三太号の後方の写真
木炭車三太号の後方
木炭車三太号のエンジン部分の写真
木炭車三太号のエンジン部分
木炭車三太号の運転席の写真
木炭車三太号の運転席
木炭車三太号の内部(進行方向)の写真
木炭車三太号の内部(進行方向)
木炭車三太号の座席(後部方向)の写真
木炭車三太号の座席(後部方向)

 一般には木炭車自動車として親しまれている木炭車 三太号 を紹介します。
 1940年代第二次世界大戦中から戦後にかけて燃料用ガソリンが極端に不足しました。
これを補うために、木炭(クヌギやナラなどの堅木)を燃料として動力源としました。
正式には「石油代用燃料使用装置設置自動車」と言います。一般には木炭バス、薪バスとも呼ばれました。
 木炭ガスを発生させゴミなどを除去分離し一旦冷却してからガスを清浄化した後空気と混合してエンジンに送り込むという複雑な工程を経ます。
 木炭車は、1940年代(昭和15年頃)から1952年(昭和27年)頃走っていました。実際この小山地域を走っていたのは戦前・戦中の頃と思われます。

 三太号は、神奈川中央交通が創立60周年を記念して復元したバスです。昭和56年に復元されたレプリカで実際に走行していた訳ではありません。昔懐かしいボンネット型です。乗車定員40名、平地では約60Km/Hも走っていたとは驚きです。神奈中HP関連HPも参考にして下さい。

 右の写真は、現在相模原駅北口から橋本駅へ向かう現在のバスです。平成16年に導入されました型名「さ0132」、定員72名です。

写真提供:神奈川中央交通株式会社 総務課 広報係
       本記事は小山公民館の責において作成しました。問合せは小山公民館へお願いします。
       
撮影時期:2013年7月現在のバスの写真
現在のバス(相模原駅北口ー橋本駅)


 
撮影場所:「旧陸軍造兵廠」
 
 撮影時期:1938年頃 
撮影時期:2013年6月 
撮影時期:2013年6月
旧陸軍造兵廠正門の写真

昭和13年頃 旧陸軍造兵廠正門
旧陸軍造兵廠正門付近で現在の写真

平成25年6月
旧陸軍造兵廠正門付近を望む
矢部駅北側にある旧陸軍造兵廠記念碑の写真

平成25年6月
旧陸軍造兵廠記念碑(矢部駅)

写真(左側)
 旧陸軍造兵廠(現米軍相模補給廠)の正門写真です。旧陸軍造兵廠は、近隣の農地を買収し、昭和13年8月13日開所されました。旧陸軍の兵器製造や修理を行ってきました。その当時、正門は東側(町田街道側)にありました。

写真(中央)
 現在の正門付近の写真です。北側の一部返還が決まり、その準備でしょうか?米軍と市の共同使用領域へ通じるための陸橋が作られました。

写真(右側)
 横浜線矢部駅の北側に陸軍造兵廠記念碑が建てられました。
 
写真(下側)
 旧陸軍造兵廠の地図です。

写真出展:相模原市史ノート第10号(2013年3月)より 


 
撮影場所:「小山中学校」
 
 撮影時期:1986年春 
撮影時期:2013年4月 
撮影時期:2013年4月
昭和60年創立当初の卒業アルバムより小山中学校全景の写真

昭和60年頃の小山中学校
現在の小山中学校玄関の写真

平成25年4月
小山中学校玄関より校舎を望む
小山中学校廊下に展示中のトロフィーや入賞盾の写真

小山中学校の2階廊下に展示してある
数々のトロフィーや入賞盾

写真(左側)
 小山中学校は、昭和58年4月1日創立され、昨年創立30周年を迎えました。写真は、昭和60年度第1回目の卒業記念アルバムから引用させて頂きました。写真の手前には大きな工場が出来ていますが、学校そのものは創立当初から大きな変化はありません。

写真(中央)
 現在の小山中学校の玄関です。建物自身はほとんど変っていませんが、30年間中学生達を見守ってきた松はその歴史を無言のうちに語っています。

写真(右側)
 小山中学校の教育目標を以下の様に定めている。
 お「思いやり」(命を大切にし、互いに認めあう生徒)、
 や「やる気」(主体的に判断し、行動する生徒)、
 ま「学び」(自ら考え、自ら学ぶ生徒)。
 アルバムや30年記念誌からも読み取れるが、部活動が盛んでトロフィーや盾はその一部です。

写真提供: 小山中学校



 
撮影場所:「戦前・戦中の暮らし」 清新のしるべ(昭和編より)
 
 撮影時期:1955年春 
撮影時期:1935年頃 
撮影時期:不明
昭和30年春氷川神社近くの火の見やぐらから見た風景

昭和30年早春
氷川神社近くにあった火の見やぐら
の上から南西方向を望む 
小山三郎氏撮影(部分)
戦前・戦中の男性の普段着(ももひき、半天)の写真

昭和10年頃
戦前男性の普段の仕事着は、
上記のももひきやもじり半天でした。
天長節(現建国記念日)に正装した女児の写真

天長節(現建国記念日)に
正装した女児

写真(左側)
 昭和30年頃の相模原の写真です。造兵廠ができた昭和11年の後でも広陵とした台地でした。人家はほとんどありません。

写真(中央)
 戦前、戦中の男性の仕事着はももひきや半天でした。

写真(右側)
 現在の建国記念日は、戦前天長節と呼ばれていました。この頃の女児の正装写真です。

写真提供: 清新のしるべ 昭和編より


 
撮影場所:「補給廠」
 
 撮影時期:1970年頃 
撮影時期:1965年頃 
撮影時期:1967年8月
昭和45年頃戦車運搬中の写真

昭和45年頃
戦車の運搬(横浜埠頭)
昭和40年頃戦車を運ぶトレーラの写真

昭和40年頃
戦車運搬用トレーラ(補給廠内)
昭和42年横目のセドリックの写真

昭和42年8月スナップ
横目のセドリック

写真(左側)
 昭和45年頃の写真です。相模補給廠で製作・修理された戦車が、横浜北埠頭へ運ばれていました。米軍の軍人さんや日本人の作業員が仲良く写真に納まっています。

写真(中央)
 昭和40年頃の写真です。戦車を運ぶトレーラの頭の部分です。戦車を運ぶためかなり大きいものであったことがわかります。

写真(右側)
 昭和42年8月自宅の車庫前で横目のセドリックと子供さんのスナップです。横目とはヘッドライトの模様が横線となっているもので、昭和38年頃は縦目だったそうです。

写真提供: 元小山公民館々長 稲場さん


 
撮影場所:「お稲荷さん」(宮下1丁目)
 
 撮影時期:2013年2月9日 
撮影時期:2013年2月9日 

宮下1丁目のお稲荷さんの御祓いの儀式の写真

今年の初午の日(2月9日)
御祓いの儀式。

旗の下部分を拡大した写真

旗の下部の写真

写真(左側)
 初午はお稲荷さんの誕生日で、2月の最初の午の日。この日は全国各地の稲荷神社で狐の好物とされる油揚げを奉納して、五穀豊穣を願います。氷川神社の神官さんを迎え、御祓いをしていました。
 旗の大きさは、通常人の4倍位でしょうか?かなり大きいものでした。

写真(右側)
 旗には、安政2年(1855年 乙卯)霧生伊左衛門が作成したという表記がされていました。この年は、安政江戸地震が記録された年でもあります。江戸幕府は徳川家定の時代でペリーが来航したのが1853年、安政の改革、安政の大獄と世の中が騒然とする頃でした。

写真提供: 坂内さん


 
撮影場所:「向陽小学校 2」
 
 撮影時期:1953年9月頃 
撮影時期:1957年8月頃 



昭和28年9月 創立当初の旧向陽小学校校舎。
当時は相模原町立旭第二小学校。
米軍補給廠内から移転時の建物




昭和32年6月15日 増築された校舎。
(昭和2911月20日相模原市制移行に
伴い、相模原市立向陽小学校と改称)


写真(左側)
 向陽小学校は、当初米軍補給廠内の従業員宿舎を利用して、昭和23年4月1日相模原町立旭第二小学校として開校した。その後昭和28年9月1日現在の場所に移転した。本写真はその当初のもので1棟のみであった。11月に1.4,6年生が入った。
昭和29年11月竣工。この11月相模原市制施行移行に伴い相模原市立向陽小学校と改称した。

写真(右側)
 昭和32年6月15日、第3校舎が増築された。
 これまで毎年約100名の卒業生を輩出してきた。

写真提供: 向陽小学校


 
撮影場所:「すすきの保育園」(すすきの)
 
 撮影時期:1945年11月、1954年11月 
撮影時期:1972年4月、2011年4月 
昭和20年秋 発足したすすきの保育園園舎の写真
昭和20年秋 発足したすすきの保育園園舎
昭和29年11月10日新築された園舎の写真
昭和29年11月10日新築された園舎
昭和47年4月22日改築された園舎の写真
昭和47年4月22日改築された園舎
平成23年4月1日改築された園舎の写真
平成23年4月1日改築された園舎

1945年秋の写真(左側上段)
 すすきの保育園は、創立者白鳥信子を中心とした地元の運動により旧陸軍所有建物(将校クラブ)を借用して昭和20年秋「すすきの幼園」として開設された。定員70名で発足した。

1954年11月の写真(左側下段)
 米軍補給廠拡張に伴い、敷地を現在の場所に移転し木造の園舎を新築した。定員120名。

1972年4月の写真(右側上段)
 米軍補給廠や近隣への工場進出に伴い地域の人口が急増するに伴い、園舎も拡張を迫られ2階建て鉄筋コンクリートへ改築された。
当時の定員は200名

2011年4月
 建物の老朽化にともない、遊具や施設の刷新のため改築された。現在の定員は220名です。



 
撮影場所:「六地蔵」(宮下本町一丁目)
 
 撮影時期:2006年4月 
撮影時期:2012年10月 

2006年撮影時の六地蔵の写真

宮下本町一丁目の六地蔵
現在の六地蔵の写真

現在の六地蔵

2006年の写真(左側)
 六地蔵は、子どもの死亡率が高かった時代に、子どもたちの健やかな成長を願って建てられたといいます。平成3年、新しいお地蔵様に生まれ変わりました。右端の石仏は、1814年に建立された薬師如来像です。

現在の写真(右側)
 六地蔵そのものは、大きくは変化していません。(よくみると一番左側の石碑が右側へ移動しています)変わったのは後ろの景色です。以前は、所有者の方のプールと母屋がありました。2004年11月にアパートに建て替えられました。現在は、地蔵さまの後ろに廻ってみることが出来ます。



 
撮影場所:「こどもセンター」
 
 撮影時期:2012年9月 
(昭和48年4月以降) 
撮影時期:2012年9月 
(平成7年7月以降)
向陽小学校敷地内にある当初のこどもセンターの写真

向陽小学校敷地内にある当初のこどもセンター
(現在も残っています)
向陽小学校横にある現在のこどもセンターの写真

向陽小学校横にある現在のこどもセンター

当初のこどもセンター
 昭和45年頃からすすきの保育園の園長をしておられました白鳥先生が、当時保育園を卒園していく多くの児童が「かぎっ子」になってしまうと心配され、向陽小学校の隣にありました「向陽児童館」のいち部を利用して放課後の児童を預かりはじめました。預かる対象は1年生から6年生まででした。向陽小学校敷地内にプレハブの建物を建てていただき、昭和48年4月より「向陽留守家庭児童ホーム」が開設されました。市内で初めての施設でした。

現在のこどもセンター
 各小学校に1つ子どもセンターを作るという市の方針により、平成7年7月に向陽小学校の横にある向陽児童館の場所に現在の「向陽こどもセンター」が建ちました。市内で7番目の設置でした。
 現在は約100名以上の児童が利用しています。



 
撮影場所:「向陽小学校」
 
 1948年4月 
(昭和23年)
撮影時期:2012年8月 
(昭和29年4月以降)
補給廠内の旭第二小学校位置

補給廠内の旭第二小学校位置


補給廠内の旭第二小学校校舎の絵
 

補給廠内の旭第二小学校
(向陽小学校の前身)

現在の向陽小学校の写真


現在の向陽小学校

 現在小山工業団地(宮下一丁目)三菱電機株式会社正門付近にあった旭小学校第二分教場(小山分教場)は、当時50坪の建物で2教室、教師は4〜5人と小規模であった。小山地域には各地から人が集まり急激に人口が増加し収容できなくなった本校も1000人を越える状況であった。
 このため、当時戦後の混乱期関係者の努力により補給廠内の女子工員寮を仮設校舎として昭和23年4月開校した。その位置とその当時の学校の描写である。(出典 向陽小学校30周年記念誌より)
 
右端は、現在の向陽小学校の写真である。



 
撮影場所:「小山公民館」
 
 撮影時期:1950年 
(昭和25年)
撮影時期:2012年7月 
(昭和32年2月以降)
旧小山公民館の写真(現向陽小学校の中にありました)

旧小山公民館
現在の小山公民館の写真

小山公民館 

 旧小山公民館は、昭和25年5月に当時「相模原町立公民館設置条例に基づき旭第二小学校(現向陽小学校)に設立されました。初代館長として林均氏(向陽小学校校長)が就任されました。

 現在の公民館は、昭和56年4月に完成しました。現在の館長は第7代永冨氏です。小山公民館は、地域のこども達の教育に熱心に取り組んでいます。尚、来年(平成25年7月〜)改修工事が予定されています。



 
撮影場所:「総合相模更生病院」
 
 撮影時期:1971年9月 
(昭和46年)
撮影時期:2012年5月 
(平成19年10月以降)
総合相模更生病院旧病棟の写真

旧病棟
総合相模更生病院新病棟の写真

新病棟

 総合相模更生病院の開設は、昭和20年11月(終戦直後)です。左の写真は、以前の木造から建て直した2代目の建物が完成した直後のものです。(昭和46年9月)この建て直しで病床数が50床増えたそうです。
 また左下には、旧相模原駅舎が見えます。この頃横浜線は、単線(東神奈川〜菊名が複線)でした。電車は焦茶色、電車の間隔は20分程でした。

 新病棟は、平成19年10月に竣工しました。建物は3階建て(病棟は2階まで)から7階建て(病棟は6階まで)に生まれ変わりました。内科、外科、小児科他小山地域の身近かな病院として親しまれています。地域の皆様との触れあいを増やすため、夏まつりや入院患者を励ますためクリスマス会等を行なっています。新病棟に入ってすぐ感じる事は、病室の明るさは勿論、医師や看護師さん達の明るい対応です。
 


 
 
 
撮影場所:「こばと児童館」

 
 
 撮影時期:1965年 
(昭和40年)
撮影時期:1965年 
(昭和40年)
 
撮影時期:2011年 
(平成23年)
 
 昭和40年の少年野球大会優勝旗の写真 昭和40年少年野球チームの写真 現在の地区運動会優勝旗の写真
現在の地区運動会優勝旗

  こばと児童館に保管されていた古いアルバムの中の写真です。
少年野球大会の優勝旗。ペナントに昭和40年と書かれいます。
 同じものが2本あるようです。このような優勝旗は、すでに公民館でも残されておりません。
 現在は、各スポーツイベントでは優勝カップやトロフィーが主で、優勝旗は小山地区運動会のみ活用されています。

 当時のメンバーの写真も見つかりました。
この写真にお心あたりのある方がいらっしゃいましたら、ご一報頂けますとありがたいです。
ぜひ、当時の情報をお知らせ頂きたく、皆様のご協力をお願い致します。
 
 


 
 
 
撮影:「相模原市子ども会の歌レコード」

 
 撮影時期:1970年前後 
(昭和40年前後)
 相模原市子ども会の歌のレコードのジャケットのイラスト 子ども会の歌の歌詞と振り付けの写真

 こばと児童館所有のレコードです。小山地区子連でも所有しています。発行年度は不明ですが、昭和40年代の小学生達が、子ども会行事や、盆踊りにて、写真の振り付けで皆で輪になって踊ったという記憶を残しています。
 現在は、相模原市子ども会の歌としこれん音頭共に、CDとなって存続しておりますが、踊りが伝承されている子ども会はごく僅かではないでしょうか。
 
 


 
 
 
撮影場所:「相模原駅前」

 
 撮影時期:1945年頃 
(昭和20年代)
撮影時期:1945年頃 
(昭和20年代)
撮影時期:2011年 
(平成23年)
昭和20年代の相模原駅ホームの写真  昭和20年代の相模原駅正面の写真 現在の相模原駅南口の写真

模原駅が改築されたのは、平成8年9月でした。それ以前の駅は、木造で、駅の反対ホームへは写真の様な細い階段を登って行きました。駅前広場はまだアスファルトではなく、昭和43年頃はまだ土の状態でした。現在の駅舎は、商業施設NOWの一部になりました。線路のすぐ向こうは、補給廠でした。昔は、北口はなく正面まで回っていました。現在の北口は、自転車置場、タクシーやバス乗り場ができています。
 
 


 
 

撮影場所:「小山地区の航空写真」

 
撮影時期:1947年 
(昭和22年)
撮影時期:1982年 
(昭和57年)
撮影時期:2011年 
(平成23年)
 
昭和22年の小山地区航空写真 昭和57年の小山地区航空写真 現在の小山地区航空写真 
googleより

 私達が住んでいる小山地区の航空写真です。昭和22年頃は、すすきのと宮下にまばらに住宅があります。昭和57年には、ほぼ現在に近い人家が密集しているのがわかります。一部だけしか見えませんが、変わらないのは、米軍補給廠の空間でしょうか。また、昭和22年の境川は、各所で蛇行しています。昭和57年には、河川の改良工事が行われ、スムーズな流れになっています。以前は、川の両側で相模原と町田に分かれていましたが、現在も両者が入り組んだ状態になっています。
 
 

 
 

撮影場所:「境川 昭和橋付近」

撮影時期:2008年 秋 撮影時期:2011年4月
2008年秋トトロの森の写真 トトロの森ではなくなってしまった今の写真

 境川の昭和橋と平成橋の間にある河川敷に小さな森があります。宮下おやこ村のすぐ手前です。以前は、トトロの森の如くけやきの木が何本も聳えていました。
今ではほとんど切り取られ、反対側の家も見えています。また川の内側には、周囲の家が床下浸水の水害にあった以降土嚢が積んであります。

 
 



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