境川と農業
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今月の語り部は、宮下本町にお住まいの関口迪彦さんです。 関口さんは建てられてから100年以上も経過しているお宅に現在もお住まいです。関東大震災のときにもびくともしませんでした。現在の宮下は、開発が進んで畑がほとんどなくなってしまいました。昭和(主に半ばまで)の農業を中心に昔の宮下のことをお話していただきました。とても興味深いものでした。 |
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![]() 神奈川県高座郡相原村全図より (昭和3年8月製図) |
この辺は火山灰の土地で水はけがあまりよくなく、雨が降るとべたつくし、晴天が続くと極端に乾燥し、その上、肥料・養分もありませんでした。特に野菜には、肥料がすごく必要なので栽培には向きませんでした。この辺でいちばん確実なのは、やはり養蚕で多くの農家がやっていました。 養蚕では、桑の木は今日明日植えてすぐに取れるというものではなく、長年丹精こめて育てた木があるからこそできるものでした。蚕は春子、夏子、秋子、初秋蚕、晩秋蚕の5季やっていました。 その他に大麦・小麦・山芋・里芋・陸稲・酪農などをやっていました。陸稲はぼそぼそしておいしくなかったのですが、この辺では主食で、それに大麦を入れて食べていました。 |
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境川には護岸工事もなく、川は大きく蛇行していました。降雨で増水するときは急激で、家のすぐそこまで水がきたことがあります。川っ渕の住人は少し高くなっている家に避難することも何回かありました。天縛皇神社から大正橋のところと丸山の手前が特に激しく蛇行し、全体にくねくねしていました。近くの家では、よく床下浸水していました。 私が子どもの頃は、川の水はきれいでした。川の氾濫が収まり、水が急になくなると川底には魚がたくさんはねていました。 小山橋は大正時代にはいってから東京側と相模原側の両方の部落から出会って素人がセメントを買ってきて、自分たちでつくりました。この橋はよく皆が使い、古くなったので、昭和初期に作り直しました。工事会社が橋をかけていたら、増水して流されてしまい、当時の監督さんが夜中に飛んできて、「えらい川だな」「相模川じゃ考えられない」と言っていました。夕立ぐらいでもすぐにあふれ、当時は『暴れ川』として有名でした。 |
![]() 今は護岸工事された元暴れ川 |
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![]() 田植えの準備−もうすぐ田植えの始まりです。 |
境川の渇水時には、水がなくなってしまうというので、50メートルの井戸を掘りました。そうしたらなんと不思議なことに50メートル下から貝が出てきました。昔このあたりは海で、さらに隆起して陸となり、そこに富士山の火山灰が積もったということでしょう。 当時町田市小山町沼というところには、9反歩の自然の田んぼがありました。こちらでも、陸稲ではいくらも米がとれないので水田にしようと考えました。家の裏に掘った50メートルの井戸から水をくみ上げてプールに貯め、暖めてから水田に流す計画でしたが、水量が足りなくてさらに水田の近くに20メートルの井戸を掘りました。9反歩の水田をつくる計画をしたら一緒にやりたいと何軒かが言ってきました。お米を本格的に作ったのはこの9反歩で、これが水田の始まりでした。今でも水田を続けているのは、代は代わったが、蓬莱橋を東京都側にわたってすぐの左側にあります。今年も田植えの準備が進んでいました。その田んぼも最初は境川の水を利用していましたが、ときどき渇水があり、困って井戸を掘ったということです。そのポンプ小屋が今でも見られます。 |
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境川にかかる小山橋の東京都側の対岸に直径2m高さ3mぐらいの筒状のものが見えます。これは川崎水道の監視塔で水道の様子を監視しています。川崎水道は地下鉄のトンネルのような巨大な地下道になっています。全部手掘りでした。川崎水道は川崎市の飲み水用として相模湖の上水場から川崎まで続いています。市民はこの水で潤っています。トンネルの直径は2mほどあり、自転車で通ったことがあります。水道管はパイプではなく、型枠にモルタルを流し込んで作ってあります。地下道を掘ると地下水が湧いてくるのでこの水を集めて吸い出さないと地下道が流水で流されてしまいます。地下道の下に直径50cmぐらいのパイプを3本入れて暗渠排水していました。 この川崎水道は昭和橋のあたりから現在のセブンイレブンのあたりを結ぶ線上に通っています。 |
![]() 川崎水道の監視塔 |