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小山の昔語り(8月)

 

  夏の風物詩

 今月の語り部は、宮下本町2丁目にお住まいの関口茂夫さんです。関口さんは現在82歳。関口さんのお宅周辺にも「関口」という苗字が多いこともあり、かなり昔からこのあたりに住んでおられたことが推測されます(茂夫さん宅の先祖は7代前の関口英吉氏宅だそうです)。そのことについて関口さんが語ってくださいました。関口家の墓石にする碑には、永享(えいきょう)という文字が刻まれており、少なくともその頃にはここに住んでいたことがわかっているそうです。永享とは、1429年からで鎌倉時代より少し後。500年以上の歴史があることを知り、インタビューをした面々も感歎の声をあげました。
 今回は戦前戦後の夏の風物詩についてお聞きしました。
関口茂夫さんの写真
関口茂夫さん
日本画牡丹の絵の写真
日本画家吉川啓二先生の牡丹

お盆の話


お盆の時期はいつごろでしたか?
 このあたりのお盆は7月でした。8月は養蚕真っ盛りでとても忙しく、それを避けたと思います。
お迎えと送りはどのようにしましたか?
 13日の夕方にお寺にお迎えをしに家族全員で行きました。申し合わせをして行くということではなくて、夕方になるとなんとなく、それぞれがお寺に向かいました。お墓でお線香をつけ、自宅の入り口前まで運びます。入り口で麦わらに持ってきたお線香から火をつけ、そこでまたお線香をつけて、家の中に持って入りました。
 今はできませんが、16日がお盆の終わりで、お供えものを全部くるんで境川に流していました。
お供え物はどんなものをあげましたか?
 家では、新しく竹飾りを作ります。そして仏壇の中身を出して、仏壇をふさぎ、竹で棚を作って後ろに13仏を飾り、前にお供え物を飾ります。お供え物は、なすの馬、きゅうりの馬とサトイモの葉っぱをおわんがわりにして白御飯をのせたもので、ご飯は毎日お供えしていました。お供え物の牛や馬の足には「おがら」を使いました。そのほかにお供え物として、とうもろこし、枝豆、しょうが、梅などの新しいものをとってあげました。
 おがらとは、大麻の芯のことで、大麻から麻を取ったあとの芯が「おがら(麻幹)」といいました。

七夕、竹、萱(かや)
 七夕は、学校が中心でひとつの行事として行いました。家庭ではほとんどなにもしませんでした。
当時、宮下では
のある家は少なく、竹は貴重な財産でした。養蚕の棚にしたり、屋根の藁を組むための枠組みとして使っていました。屋根の藁を組む枠組みには、鉾竹(ほこだけ)という細い竹を使いました。
 まだ藁屋根がほとんどの時代でした。本来なら、屋根には
(かや)が一番良いのですが、手に入れるのが難しく、ほとんどの家では、麦わらを使いました。萱で作った屋根は30年持ちましたが、麦わらは10年持ちませんでした。萱を刈ろうにも萱は空いた土地でなければ生えてきません。空いた土地でも、すぐに生えてくるのではなく、最初に葉草が出て、1,2年後に別の葉草に代わり、そのあと、ちがや(・・・)(赤くて背が低い茅に似た草)が出て、その後、萱が出てきますが、それまでに5,6年かかります。自然は良くできていて、空き地に木が生えてくると萱は枯れてしまいます。また、萱で必要なのは、芯の部分で、あとは不要だから、すいてとらないといけません。手も切れるし、芯だけを集めるので量をそろえるのに大変手間がかかりました。


夏祭り、盆踊り

 夏祭りは、天縛皇神社のお祭りが昔からありました。しかし、上溝の亀が池八幡宮から神主を呼んだりと、準備するのにお金がかかります。戦前は横浜に出て成功した人が、お祭りの費用を出してくれていました。しかし、戦後は費用を出すのが難しくなったため、お祭りの役を作って費用を分担しました。現在は、世話人がいますが、ほとんど奉納でやっています。奉納費用を出すのは250軒ぐらいで、新しく来た人は氏子にはならないので、費用負担が大変です。
 天縛皇神社には、帝釈天(たいしゃくてん)と午頭天王(ごずてんのう)が祀られていましたが、明治時代になって廃仏毀釈で、追い出してしまいました。そして、別の神のいざなぎのみことと、いざなみのみことを持ってきて祀りました。
※ 今では天縛皇神社のお祭りは8月29日と決まっています。

 盆踊りは、昔は行っていませんでした。こばと児童館ができた頃(昭和35年ごろ)から始まりました。当初は、こばと児童館の小さな庭でやっていました。盆踊りが始まってから夏に集落の人が集まる機会ができました。

※天縛皇神社については、「小山の昔」に次のような説明があります。
天縛皇神社1532年(天文元年)創建。小山村の鎮守(土着の神をしずめて村を守る神)として、1532年に集落が開発された時に建てられた。当初天縛明神社といわれ、近くの蓮乗院持ちとして帝釈天(仏教の神で東方を守る神)をまつっていた。明治時代になると神仏分離により、名前を天縛皇神社とし、祭神をいざなぎのみこと、いざなみのみことに変えた。その後1909年(明治42年)に近くの足穂神社と合祀して、天照皇大神、神呂岐命、大山昨命もまつられた。

 こぼれ話

昭和22年の宮下・すすきの地区の航空写真
昭和22年の宮下・すすきの地区

昭和57年の宮下・すすきの地区の航空写真
昭和57年の宮下・すすきの地区






2つの航空写真
 関口さんのお宅には、昭和22年と昭和57年の宮下・すすきの地区の航空写真が、飾ってありました。宮下・すすきの地区の発展の状況が対比してわかります。
 22年の写真には、三角畑、岡本坂、大正橋、分教場(今の三菱の工場地帯)、浴場の煙突(すすきの)などが写っています。境川周辺は、ほとんどが桑畑です。100戸程度の家が境川から少し離れたところに建っています。境川はおもいっきり蛇行しており、運んできた沖積土を、川の周辺に蓄積していきました。沖積土は重くて、米やさつまいも、大豆には適していません。洪水になっても大丈夫なように桑を植えました。沖積土は落ち葉などをすぐ腐らせます。そのため、桑は良くできたそうです。今の工場周辺、ほとんどが畑です。そこに植えた桑と境川周辺の桑では、出来が相当違ったそうです。
こどもの楽しみ・お手伝い
 夏には、キャンデー売りがきていました。砂糖水を氷にして、割り箸につけたようなものでしたが、当時は子どもにとっては、相当のごちそうでした。
 夏の遊びは、川での水遊びぐらいでした。川の水は、子どもの股下くらいでしたから、水浴び程度でした。 6月の下旬から7月中旬頃までは、養蚕とともに小麦の刈り取り・乾燥で目がまわるほど忙しく、子どもの夏休みを前借して、子どもに養蚕の手伝いをさせました。夏休みはそのために短縮されていたそうです。


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