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小山の昔語り(9月)

 

  小山の養蚕

 今月の語部は、宮下本町2丁目にお住まいの関口貞子さん、原きみさんです。
 関口さんは、実家が麻溝に近い番田というところです。姥川沿いに農地があり、娘時代に養蚕をやっていました。結婚してからは、毎日忙しく休める時期はありませんでした。原さんの実家は、柚木のひな鳥山の近くでした。結婚してからはあまり養蚕はやっていませんが、結婚するまでの実家では、一生懸命養蚕をやっていました。
 
 
関口さんと原さんの写真
関口貞子さん(右)
原 きみさん(左)


養蚕準備からはきたてまで
蚕棚の写真
エガ(エビラ)ダン(蚕棚)
はきたての写真
はきたて
(毛蚕を種紙から羽ぼうきで掃くように落とす)
養蚕準備はどんなことをしましたか?
 
養蚕は、実家で娘時代にやっていたときの方がよくわかっていますが、ここにきてからは暗室のホルマリン消毒から始まりました。私は、ここに来てからは、蚕はやらないけれども、生まれた柚木ではやっていました。蚕の棚、えが(棚に差込む竹で編んだ平籠)、いろんな蚕に使う道具を、全部ひとつの部屋に集め、部屋の目張りをし、密封して全部一度にホルマリンで消毒しました。子どもの頃、「部屋に入るんじゃないよ」と親が言っていました。
 消毒は丸1日ぐらいかかりました。それは蚕を飼うための準備の仕事で、準備期間は一週間くらい必要でした。消毒する前にすべての道具を川で洗っていました。

 私は、実家の近くに川があったので、蚕を飼うエビラ(棚に差込む竹で編んだ平籠で「えが」とも言う)を川で洗いました。エビラは、12段ほどの蚕棚に差込むトレイ状の竹の平籠です。幅が1m、奥行きが1.2m、厚さが数センチくらいと記憶しています。エビラは、3尺5寸と覚えています。
 竹で12段の棚を作り、そこにエビラを差込み、そのエビラの中で蚕を飼育しました。養蚕は準備が大変です。準備ができてしまえば、あとは桑の葉を取ってくれるだけなので、それまでの間に手がかかりました。

養蚕の規模は?

 私の実家では春蚕70g、夏蚕50g、秋蚕30gぐらい飼育しました。1年に一般的には3回で、4回は聞いたことはありますが飼育したことはありませんでした。 3回でも春蚕、夏蚕、秋蚕と順々に桑が成長するように計画的に作っておかなくてはならないので大変です。
はきたてとは?

 春蚕のはきたては、まだ孵化していない種紙から飼育しました。目張りした部屋を火鉢で32度くらいに暖房して、飼育しました。夏蚕、秋蚕はうちでは共同飼育でやってもらっていました。二眠を過ぎてから受け取り、蚕の大きさは5mmくらいでした。
 私の実家では、孵化して、それこそ動き始めた時分、毛蚕のころから飼育しました。
 種紙と言っていましたが、A3用紙くらいの茶色の厚紙に、B4用紙ほどの黒い地に蚕の蛾が卵をぎっしりと産みつけてありました。どれが卵か、毛蚕かわからないほどで、よく見ると種紙にむじむじ動いている感じでした。その毛蚕をやわらかい刷毛で、はきおろして飼育しました。それから1週間から8日ぐらいで、初眠になリました。1回目が春蚕で、5月初旬のはきたてでした。種紙1枚がたしか10gと言っていた覚えがあります。種紙に卵があり、その上に紙がのっていました。たしか、種紙と種紙の間にあいしがあり、空間を作っていました。
  夏、秋蚕のはきたては共同飼育で二眠まででした。共同飼育は、農協にはなかったですが、種屋さんはお天縛さんの近くの井上さん、この辺でしたら、めけ屋と言って関口さんところで稚蚕飼育をやっていました。先に頼んでおいて、めけ屋さんから稚蚕を受け取りました。


蚕の飼育
蚕はどのように成長するのですか?
  蚕は、はきたてで一齢、その後、およそ一週間ごとに一眠〜四眠を経て五齢になります。その後、一週間で繭づくりにはいります。

  蚕は、一齢毎に脱皮を繰り返しますが、その前兆がトマリと言う現象で一日くらい桑を食べなくなります。脱皮を四回繰り返して、五齢が終わると繭つくりになります。その前に最後の糞尿を出してマブシに入り繭を作り、中でさなぎになります。
 蚕は5齢が過ぎると、体が透きとおるようになります。そうすると、もうじっとしていて、桑は食べません。1眠から〜4眠はやはり蚕は1日か1日一寸くらい何も食べずにじっとしています。桑はくれなくてすむけど、休むひまはありませんでした。蚕は大きく成長するので、部屋を広げたり、蚕棚を増やしたりしました。また4眠からおきれば、外へ条桑棚(蚕棚)を作って飼育しました。
 私の実家では、住まいの部屋だけだと狭くなってくるので、外の物置みたいな所に、奥行きが1.5mくらい、3段の細長いベッド状の蚕棚を作りました。

蚕には餌をどのように与えたのですか?

 桑をやる回数は、稚蚕のほうが多く、1日に6〜7回でした。 稚蚕の頃は桑の葉をきざんでました。食べやすいように、2ミリぐらいに細く切って稚蚕に与えました。蚕がだんだん大きくなるにしたがって、桑の幅がひろがり、与える回数も少なくなりました。
 蚕が大きくなると、1日に3回から5回程度、桑を与えました。4眠から覚めると桑を食べる音が大きく、「ざわざわ」と、まるで雨が降ったような音でした。
 稚蚕は、桑のてっぺんから2枚目と3枚目の柔らかい葉を摘んで与えました。桑摘みは、両方の人差し指にはめた金属製のツメと呼ばれるもので摘み、桑がしおれないように一番小さい籠で風が通りにくい「目無し籠」に入れ、大切に運びました。
 桑の下方の葉は、だんだん硬くなるので稚蚕には与えませんでした。摘んできた桑の葉は、ベルトコンベアのような台に載せて送り、手動の押し切りで細く切って与えました。
 私の実家では、蚕が小さいうちは、家の近くの畑で用が足りるけど、大きくなると大量に食べるのでたくさんの桑が必要になります。春蚕のときは枝を根元から切って与え、夏・秋蚕には枝を切らず、葉だけを摘んで与えました。夏蚕の時期は夏休みで、家にいて終日手伝いました。3回目の秋蚕のときは、学校に行く前に桑摘みをしました。私の家では、自宅から歩いて30分くらいかかる遠い場所に桑畑がありました。小学校5,6年のころでしたか、9月になると、朝暗いうちから30分くらい歩いて畑まで行き、大きな籠いっぱいの桑を摘み、それを背負って帰りました。その後、学校に行きました。籠は大きな籠、中籠、小籠、があり、さらに肩にかける「びく」がありました。
 桑とりは大変な重労働ですが、男は父親一人で、私は長女だったので、男の力仕事も全部しました。何年もこのようなことを行ってきました。

 四眠から覚める頃になると、体長が数センチになり、桑を食べる量も多くなり、食べる音もどしゃぶり降りの雨のように、ざわざわと音を立てました。桑は3、4センチもある太い枝を切って束ね、リヤカーや荷車に載せて運びました。大きな枝をもいで、そのまま蚕に与えました。雨で濡れた桑を与えると、蚕が病気になるので、軒下に吊るして水切りをしたりもしました。また、雨に備えて桑室があり、そこに保存したこともありました。

蚕の手入れはどのようにしましたか?
 給桑とあみあげ(桑の葉を食べたあとの枝や蚕の糞尿などを取り除くこと)を能率よくするために、二,三齢頃までは糸網を、四齢あたりから縄網を使いました。これは、新しく桑を与える時に、これらの網を蚕の成長段階に使い分けて載せ、この上に給桑しました。すると蚕はやがてこの網の目をくぐりぬけて、新しい桑の葉を食べ始めます。そしたらこの網を持ち上げて、別の蚕座に移せば古い桑と糞便(コシリ)などは、そのまま下に残りますから、一括して堆肥として捨てました。

いつ繭をつくりはじめるのですか? 
 4眠が過ぎて5齢が1週間くらいで蚕の体が透き通ってきます。それを、ヒキるといいます。繭を作り始める前兆です。だんだんヒキてくるので、ヒキた順から繭を作るまぶしに入れてやります。これをヒキ拾いと言います。

給桑の写真
給桑(桑の葉を与える)
コシリとりの写真
縄網で除沙(コシリとり)
条桑棚での飼育の写真
条桑棚での飼育
(2段、3段の蚕座)
・・・昔語りは、来月に続きます・・・
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