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小山の昔語り(4月)


千人同心、天縛皇神社

久保田昇さんの紹介
 今月の語り部は、久保田昇さんです。現在は、こばと児童館の館長さんです。次の世代に、小山の昔を知って貰いたい。それが私たちの世代の役割だという気持ちで、インタビューに応じて頂きました。
久保田昇さんの写真
久保田昇さん

久保田家の先祖は武田家の家臣だった


【久保田家の先祖
 江戸時代の初め、甲斐武田家の家臣たちは住みなれた甲斐の国を離れて、津久井、八王子を経て小山村に移り住んできました。愛川や厚木方面に住んだ人たちも多いようです。私の家(久保田)は有名ではありませんが、八王子千人同心の組頭の一人で萩原某の弟が現在の町田市に分家し{境川翁萩原四郎兵衛}と呼ばれ、当時暴れ川と言われた境川の改修工事などに尽力し、台風による大水の被害を防いだと言われています。翁の墓は福生寺の境内にあります。平成橋近くの町田側にある長屋門や主屋の立派な{萩原大尽}と呼ばれた家は一族です

千人同心の話

【千人同心
 現在の八王子市千人町に千人頭の屋敷と千人同心の屋敷がありました。徳川家康の江戸入府に伴い、1600年(慶長5年)に発足し、代官頭{大久保長安}が統括しておりました。十組、各百人で組が編成され、千人同心組頭がおりました。同心は御家人としての身分を持ち、禄高十俵一人扶持から三十俵一人扶持でありました。代官頭は小田原城主大久保家の弟に当たり、将軍が日光参詣など遠出をするときに護衛を勤めました。将軍家茂を大阪まで護衛したときの「岡本武右衛門日記」が残されています。 岡本武右衛門は小山村に住み、現在の町田市の萩原家、島崎家、淵野辺の小川家などと千人同心を勤めていました。普段は農業などを営み八日と十五日に八王子に出勤しておりました。 幕末のころ、新撰組隊長であった「近藤勇」は現在の調布市の農家で庄屋でもあった家に生まれた「宮川勝太」ですが、武士の身分を得るために島崎家の養子になっています。






天縛皇神社

【天縛皇神社
 天縛皇神社は、室町時代の1532年(天文元年)小山村の鎮守様として創建されました。境川は当時(高座川・たかくら川)といわれていましたが1594年(文禄3年)(彦坂刑部直道)が検地するに当たり相模の国と武蔵の国の国境になり以後境川と呼ばれています。神社は村のほぼ中心にあるために川上を宮上(現在の東橋本)、川下を宮下(現在の宮下本町)と呼んでいました。
 8月29日の例祭には,番田の神楽で賑わっていました。当時徳川吉宗が神崇拝を奨励したため各地で神楽が催されていました。番田神楽は上溝の亀山家が代々受け継ぎ、「日本書紀」「古事記」を題材に「あめのいわと」「やまたのおろち」などの神話が演じられてきました。
 創建時代は、隣の地に蓮乗院があり天縛皇神社の別当でありました。
 明治時代初期、神仏分離の令によって、祭神が帝釈天から伊邪那岐命、伊邪那美命に替わりました。同時に神社名も天縛明神社から、天縛皇神社となりました。
明治時代中期には神社統合により一村一社の方針が出され、相原八幡宮と天縛皇神社、氷川神社を橋本神明神社に統合しようとしましたが実現しませんでした。
このころ、相模原地方に疫病がはやり、牛頭天王(ごずてんのう・すさのおのみこと)の祟りであるとかの噂もあり各神社ごとに地中に埋めるとか、川に流す等の処分を行ったようです。
その後、明治42年宮上にあった足穂(たるほ)神社を合祀し現在に到っています。

参考文献 「新編相模国風土記稿」

天縛皇神社の写真
天縛皇神社




天縛皇神社の神輿飾りと伝えられる飾りの写真
天縛皇神社の神輿飾りと伝えられる




蓮乗院本堂の写真
蓮乗院本堂

〜来月は『お茶にまつわる話』を予定しています〜
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