小山の昔語り(8月)


順席発見〜神崎先生のお話Part1

 今月は、東橋本・蓮乗院で、今は市指定有形文化財となっている「順席」を発見された神崎彰利先生にそのときのお話しを伺いました。
 神崎先生の専門は近世の古文書学です。明治大学で教えるかたわら、相模原市立博物館の館長を6年間されていました。現在は大学も館長もやめられ、相模原市史編纂室の特別顧問をされておられます。
 神崎先生は、長年、相模原市の歴史調査にたずさわってこられました。『順席』の発見もそういった調査の中で偶然に起こったことでした。
神崎彰利先生の写真
神崎彰利先生

『順席』発見の驚き
相模原市立博物館の写真
相模原市立博物館
蓮乗院の写真
蓮乗院
順席の写真
発見された『順席』
それは相模原市に博物館を造ることから始まった・・・
 昭和56年、相模原市に博物館を作ることが決まりました。相模原には無かった博物館です。建てるからには、相模原市のことを教えてくれるものにしなければなりません。市内にある文化財をしっかり調査して、展示ができる資料を徹底的に集めようということになりました。そこで、建物、美術・工芸、民俗などの専門家がそれぞれの分野の調査をすることになりました。私は、調査会会長として歴史分野を担当しました。
 歴史は、古文書の調査を中心に行いました。そのため、昔のことを伝える文書が多く残るお寺や神社を調査することが決まりました。

蓮乗院の物置を調べてみると・・・
 昭和58年6月、市内の神社・お寺の調査が始まりました。ある日、私達は、橋本の蓮乗院に調査のため訪れました。
 蓮乗院は、1534年(天文3年)に長尊によって開かれたお寺です。1534年といえば、織田信長が生まれた年です。徳川幕府の三代将軍家光の時代には税金を納めなくてもいい朱印地が与えられたほどの格の高いお寺でした。そのころからの古文書などもあるかもしれません。
 物置を調べているときでした。たくさんの古文書の中から、何枚もの厚紙をそれぞれ二つ折りにしてとじ、1冊になった古文書が出てきました。大きさは縦30cm、横22cm、厚さ8.5cmほどの厚いものです。表紙は虫食いや退色などで読みにくくはなっていますが、そこには、『順席』と墨で書かれていました。

それを見たときはしばらく絶句・・・!
 
私はそれを見たとき、驚きのあまり、しばらく絶句してしまいました。何故これがここに、としばらく声もでませんでした。私が黙ってしまったので、そばにおられた蓮乗院の住職が不思議に思って私の顔をのぞきこみました。私が「ご住職、これはとんでもないものですよ。」と『順席』の歴史的な価値を伝えると、住職も驚いてしまって、何故これがここに、と同じように絶句しておられました。

「順席」とは
江戸城の詰め部屋の話控えの間の見取り図
 江戸時代、大名や旗本は将軍に拝謁(はいえつ)するために、たびたび江戸城に登城(とじょう)しました。その時、拝謁の順番を控え席(ひかえせき)で待つのですが、大名の官位や役職などによってそれぞれ控え席のある部屋が決まっていました。その部屋を詰め部屋(つめべや)といいます。たとえば、水戸黄門でおなじみの水戸家のような将軍の親戚(しんせき)は「大廊下(おおろうか)」が詰め部屋でした。また、江戸幕府ができる前から徳川家に仕えていた城主は「帝鑑の間(ていかんのま)を詰め部屋としていました。このように全部で7つの部屋が詰め部屋となっていました。

「順席」の意味
 詰め部屋の中でも席の順番がありました。「大廊下」では、尾張・紀州・水戸の御三家(ごさんけ)が最高の席に座りました。このような席の順番を「順席」といいます。

奏者番の話
 詰め部屋には、その部屋に席がある大名の名前を書いた短冊が貼ってありました。これを名刺短冊(めいしたんざく)といいます。いっぽう、将軍への拝謁の順番を読み上げたり、大名から将軍へのお土産を将軍に披露(ひろう)したりと、江戸城でのマナーに関係する仕事をしていた大名がいました。これを奏者番(そうじゃばん)といいます。名刺短冊を書くことも奏者番の仕事だったようです。
 奏者番は、大名の名前を読み上げるとき、その大名の名前はもちろん、経歴や系図などを情報として知っておかなければなりません。そのため、今回見つかった『順席』のようなあんちょこを作ったんだろうと思います。このような『順席』は徳川家の書庫「紅葉山文庫」(もみじやまぶんこ)にあるのが普通で、簡単に外に持ち出せるものではありませんでした。

蓮乗院の『順席』
 蓮乗院で見つかった『順席』のそれぞれのページには、名刺短冊と同じような短冊が2枚か3枚貼ってあります。その短冊には、墨で大名の名前を大きな字で書いてあります。名前の横には、小さな字で大名の履歴(りれき)や領地、所領高などの情報が整った字で書かれてありました。
 それらの短冊が順席の順に貼り付けてあるのです。短冊は全部で468枚ありました。表紙には真ん中に「順席」と墨で書かれ、左下に「岩村田」と書かれています。
 そして、この蓮乗院の『順席』は、慶応三年(1867年)の6月から10月の間に作られたことがわかりました。慶応三年といえば、十五代将軍徳川慶喜が大政奉還(たいせいほうかん)した年です。そのころの大名の情報がこの『順席』には詰まっていました。このような形で残っているものは、他に国立国会図書館にある、天保十四年(1843年)に作られた「順席」だけです。


短冊の写真
短冊の写真



大政奉還の様子
大政奉還の様子



御三家の短冊がある写真
御三家の短冊がある写真

蓮乗院『順席』の発見時の状態


 発見したとき、虫食いのあとだらけでした。長い年月が経っているので、死んだ虫がくっついたりしていました。なかなかはがれなかったものもあり、ぴったりくっついているものもありました。私は大学で博物館を運営していました。古文書を長い間研究していましたので、虫食いなどをはがすというのはある程度できました。はがしたのはいいけれど、そのままにしておくとまたくっついてしまいます。また、いつぼろぼろになってしまうかわかりません。永久保存のために、一日大学へ持ち出させてもらい、プロの写真家に頼んで『順席』のすべてを撮影しました。
 そして、その写真をもとに一部だけ複製を作成して、博物館に寄贈しました。翻訳もおこない、相模原の図書館に配りました。

 『順席』発見のときには、短冊がはがれかかっていたり、完全にはがれて別のページにはさまっているものがありました。私はある程度はがれるものをはがし、またはがれてしまったものとあわせて順番に貼りなおしました。その時、特別なのりを使いますが、ペタっとはることができません。完全にはりつけてしまうと、もとの形がなくなってしまいます。いくら良いのりを使っても、そこから虫がはいるという問題もありました。私は永久に保存するにはどのぐらいはりつけたらよいか、ということを考え、落ちない程度にはりつけました。

『順席』の保存
 蓮乗院の住職が保存用に桐の箱を作ってくださいました。中には防虫紙を入れ、箱の底にはアートソープというマットを入れました。それを入れると湿度を一定に保つことができます。古文書にとって最適の湿度は60%です。アートソープを60%にしてもらって箱の底に入れました。

 また、現物の『順席』は公開していません。古文書というのは、外気に触れると凄い変化があります。文化財にも指定された重要な資料ですので、公開はされていません。そのかわり、十分読めるぐらいの大きさで写真を撮って博物館に寄贈してあるので、『順席』がどんなものか見たい方は、それを見てください。


桐の箱の写真
順席の保管状態

〜来月は『順席発見等について神崎先生のお話』を予定しています〜
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