小山の昔語り(9月)


順席発見〜神崎先生のお話Part2

 今月は、先月に引き続き東橋本・蓮乗院で、『順席』を発見された神崎先生のお話です。
 今回は、何故『順席』が蓮乗院にあったのか、また、『順席』の歴史的な価値についてうかがいました。
神崎彰利先生の写真
神崎彰利先生

『順席』が蓮乗院にあるミステリーを解く
江戸城跡の写真
現在の江戸城跡
(出典:人物日本の歴史 学習研究社)





慶喜と勝海舟の写真
慶喜と勝海舟
(出典:人物日本の歴史 学習研究社)

 徳川氏が持っているはずの『順席』が蓮乗院にある、これは何故か。この謎を推理すると、そこで、当時、蓮乗院のある小山村の領主が誰であったかを考えます。それは旗本の藤沢次謙(ふじさわつぐよし)という人でした。

藤沢次謙の話
 この人は徳川幕府の医者である御典医(ごてんい)の家に生まれました。そこから、二千石の旗本、藤沢氏の養子になりました。とても優秀な人で、その頃のトレンディな学問-蘭学(らんがく)ができ、すばらしい画家でもありました。
 
 藤沢次謙は、※天狗党の乱(てんぐとうのらん)が起きた時には、幕府の軍監(ぐんかん)として乱の鎮圧(ちんあつ)に行きました。軍監というのは、戦争に行く軍隊を監督する役のことです。また、幕府の陸軍ができたときには、勝海舟が陸軍総裁(りくぐんそうさい)で、副総裁(ふくそうさい)が次謙でした。しかし、次謙は、幕府の軍隊がどんなにだらしないかを上司に訴えて、反対に幕府から危険な人物と思われ、仕事をやめさせられてしまいました。徳川幕府が滅びてからは明治の新しい政府の下でしばらく仕事をしましたが、政府の方針と考えが合わず、やめてしまいました。
 その後、次謙はかつての藤沢氏の領地を訪れ、各地を何日間か滞在しながらまわりました。藤沢氏の領地は、小山村・橋本・川尻・飯山・散田・寺山といったところでした。次謙は領地巡りが終わって4ヶ月後になくなりました。

※天狗党の乱 1864年、水戸藩の天狗党が外国を追い払い天皇を最も尊敬するべき君主である、として乱をおこしました。幕府はそれを鎮圧するため軍を出しました。

この『順席』は藤沢次謙の形見分けだった?
 次謙は領地をまわりながら、自分の持っていたものを世話になったところへ形見分け(かたみわけ)していきました。次謙が滞在した家には、今でも多くの武家が持っていた文書などが残っています。その中に原清兵衛の家がありました。原家の菩提寺は蓮乗院です。その関係で次謙が蓮乗院を訪れ、何日か滞在したことも考えられます。その時、この『順席』を蓮乗院に形見分けしたのではないか、というのが私の推定です。そして、これはおそらく間違いないだろうと思います。

蓮乗院『順席』の価値

相模原のただの農村から『順席』が・・・!
 この『順席』と同じ形のものは、日本全国広しと言えども、国立国会図書館にある天保十四年の『順席』のみです。ただそれについての研究は全く行われておりませんでした。そんな中でこの小山の蓮乗院から『順席』が見つかり、それを活字にしました。これが活字にされると、相模原にこんなものがあったのか、何故相模原の、しかもただの農村にあったのか、と評判が立ちました。もっと悪いことを言えば、私が相模原市史編纂(さがみはらししへんさん)を始めた時、専門の研究の仲間から草ぼうぼうの相模原に文化があるのか、とさんざん言われました。専門家の間では、相模原はそんな場所でした。ところが、『順席』や他の古文書などが見つかったことで、相模原は重要な資料がある場所として評判になりました。

幕末の歴史って案外わからない・・・?
 近世の多くの古文書によって多くの歴史的な事実がわかってくるなかで、実は、案外わからないのが幕末から明治初年にかけての問題です。今、私は厚木市史編纂(あつぎししへんさん)をやっていますが、厚木の村々が明治政府が成立するまで、荻野山中県と言ったり、韮山県、足柄県と言ったりしてたびたび行政が変わりました。このことは、実はやっと昨年、事実としてわかったわけです。相模原の方も、もっともっと複雑な行政の変革があると思うのですが、同じように幕末における全国の歴史の事実も案外まだ解明されていません。

 旗本や大名の問題も同じです。旗本は、江戸中期まで(1603年〜1829年)の系図は有りますが、その後の完璧な系図は無くて、その旗本の行動などがわかりません。そして全国の260諸侯の大名の行政や資料も、中期頃まではなんとかわかりますが、幕末はあまりわかりません。たとえば、九州の延岡藩(のべおかはん)の幕末の調査をやりました。この延岡藩は一番南端の藩でありながら、※佐幕派(さばくは)の筆頭でした。そのために、明治政府ができてから幕末の文書は焼き捨てられました。幕末史がわかる文書が焼き捨てられてしまったのです。このように幕末の大名の動向は今でもまだはっきりしない点が穴が開いたように相当残っています。


※佐幕派 幕末、天皇を権力の中心に考える藩と徳川幕府を中心に考える藩が争うようになりました。その時、徳川幕府を支持した藩や人のことを佐幕派といいます。


蓮乗院の『順席』が幕末史のわからない穴を埋めてくれる?
 この『順席』は慶応三年に作られたものですから、その前の安政よりもっと前の天保年間ごろからのことが書かれていて、慶応三年十月までの記事が見られます。全国諸大名の幕末の不明であった事実が、この順席によってその穴が埋まるという大きな性格を持っているわけです。歴史的事実がまとまって拾えるということは、他の資料と違って、『順席』だけが持つ日本的な全歴史的な性格を持った資料であるといえます。ですから、これを補うに他の資料は今のところみあたりません。全国唯一のものです。それ程この順席は歴史的な、そして資料的な価値が高いと言えるわけです。









幕末の動乱の図
幕末動乱の図
(出典:人物日本の歴史 学習研究社)




〜来月は『小山の子どもの生活』を予定しています〜
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