順席発見〜神崎先生のお話Part2
今月は、先月に引き続き東橋本・蓮乗院で、『順席』を発見された神崎先生のお話です。 今回は、何故『順席』が蓮乗院にあったのか、また、『順席』の歴史的な価値についてうかがいました。 |
神崎彰利先生 |
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『順席』が蓮乗院にあるミステリーを解く | |
現在の江戸城跡 (出典:人物日本の歴史 学習研究社) 慶喜と勝海舟 (出典:人物日本の歴史 学習研究社) |
徳川氏が持っているはずの『順席』が蓮乗院にある、これは何故か。この謎を推理すると、そこで、当時、蓮乗院のある小山村の領主が誰であったかを考えます。それは旗本の藤沢次謙(ふじさわつぐよし)という人でした。 藤沢次謙の話 この人は徳川幕府の医者である御典医(ごてんい)の家に生まれました。そこから、二千石の旗本、藤沢氏の養子になりました。とても優秀な人で、その頃のトレンディな学問-蘭学(らんがく)ができ、すばらしい画家でもありました。 藤沢次謙は、※天狗党の乱(てんぐとうのらん)が起きた時には、幕府の軍監(ぐんかん)として乱の鎮圧(ちんあつ)に行きました。軍監というのは、戦争に行く軍隊を監督する役のことです。また、幕府の陸軍ができたときには、勝海舟が陸軍総裁(りくぐんそうさい)で、副総裁(ふくそうさい)が次謙でした。しかし、次謙は、幕府の軍隊がどんなにだらしないかを上司に訴えて、反対に幕府から危険な人物と思われ、仕事をやめさせられてしまいました。徳川幕府が滅びてからは明治の新しい政府の下でしばらく仕事をしましたが、政府の方針と考えが合わず、やめてしまいました。 その後、次謙はかつての藤沢氏の領地を訪れ、各地を何日間か滞在しながらまわりました。藤沢氏の領地は、小山村・橋本・川尻・飯山・散田・寺山といったところでした。次謙は領地巡りが終わって4ヶ月後になくなりました。 ※天狗党の乱 1864年、水戸藩の天狗党が外国を追い払い天皇を最も尊敬するべき君主である、として乱をおこしました。幕府はそれを鎮圧するため軍を出しました。 この『順席』は藤沢次謙の形見分けだった? 次謙は領地をまわりながら、自分の持っていたものを世話になったところへ形見分け(かたみわけ)していきました。次謙が滞在した家には、今でも多くの武家が持っていた文書などが残っています。その中に原清兵衛の家がありました。原家の菩提寺は蓮乗院です。その関係で次謙が蓮乗院を訪れ、何日か滞在したことも考えられます。その時、この『順席』を蓮乗院に形見分けしたのではないか、というのが私の推定です。そして、これはおそらく間違いないだろうと思います。 |
蓮乗院『順席』の価値 | |
相模原のただの農村から『順席』が・・・!
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幕末動乱の図 (出典:人物日本の歴史 学習研究社) |