小山の昔語り(12月)


戦後の国鉄相模原駅-Part1

 今はJR相模原駅、ショッピングもできる駅ビル。終戦直後の相模原駅はどうだったのでしょう。昭和20年から34年間、国鉄に勤めていらした宮下出身で現在は駅前にお住まいの霧生芳作さんに昔の国鉄についてお話を伺いました。 霧生芳作さんの写真
霧生芳作さん

国鉄勤務の経緯と当時の相模原駅
旧国鉄相模原駅改札の霧生さんの写真
旧国鉄相模原駅改札の霧生さん
 「自分はね国鉄へはいったのがよ、兵隊から帰ってきて昭和20年の9月の7日だよ。ちょうど家で遊んでたらね、うちの畑がね、ちょうど駅長のそばにあって、じゃあ、たのんでんべーって」味のある語り口で始まりました。

そんときにはね、下だよ。 宮下の、そこが家だったからね、それでもって更生病院の前の道を行ったり,こっちをあがったりして通えたわけだ。そんときにはまだまだこの前なんかは宿舎があった、丸いね。そいで20年終戦の年に米軍がここへ入ってきた。そのときに、先ずそばにあった防空壕を埋めた。



駅名喚呼(かんこ)「さがみはらあ〜、さがみはらあ〜」
 「駅名喚呼」を知っていますか?昔は、駅員が大声で駅名の案内をしていました。それを「駅名喚呼」といいます。「駅名喚呼」といえば霧生さん、というぐらい霧生さんの「駅名喚呼」の声は遠くまで聞こえたそうです。

 (^=^) 一番先は、あれだよ、駅名喚呼。その時分はほら、相模原駅から、ネ、東神奈川までと八王子までのやつを隣の駅を何時に出るだとか、交換だとか、それをやったんだよ。「相模原ー相模原ー」 「次は淵野辺ー淵野辺ー」 「ただいま〜時に列車がはいってきますから、一歩後ろに下がってください」つって。

 一番最初は拡声器が無いからよ。そうするとね、女学生がな、今日は5分前の人が出てるよって言っただ。聞いたらね、霧生さんの事だって。何で5分前? 駅名喚呼をやるとき、かならず首をちょっと曲げるって。駅名喚呼が聞こえないときがあると、夕べはだれだ?と当直が文句を言われ、そんな時は朝礼で、駅名喚呼の見本をやらされただよ。町田市の山まで聞こえただとか、星が丘あたりまで聞こえたっちゅう人がいた。いまだに「霧生さんの駅名喚呼が夜なんか聞こえたものな、と母さんに話をしてるだよ。いまだに霧生さん元気だな」と、氷川町に住んでる人が言ってるだよ。だから、それで表彰なんかされたんだ。









駅舎

昔の相模原駅
「目で見る相模原の100年」より
昔の相模原駅

 そのころの相模原駅の駅舎はどんな様子だったのかを聞きました。

(^=^) 昔、平屋建てで1軒だけ建ってた。俺が兵隊に出るときには上り線の上りのほうの向こう側に6尺四方の駅があった。それでこっちかたに駅舎をつくったときには俺は兵隊に行っていなかった。それを国体ができるってんでこれ(駅舎)つくったんだから。ゆめ国体のときだ。それでそこんところ全部やっちゃったの。米軍の中に線路があってホームが残っているが、あれは大砲の弾を向こうから入れたり出したりした引込み線だよ。

(^=^) 一番先は、駅に20人ぐらいいた。2交代だからな。それへほら、休みやなんかとるから。主札改札、駅長助役、ホーム、小荷物。毎晩6人から7人ぐらいやってるから。

(^=^) 冬なんかは雪は結構降ったよ。その時だってよ、交換するとこだけ雪かきやればいい。上りと下りがあるから。それをやるんだよ。カンテラっていうやつを下に入れて。雪がたんと降ると。

(^=^) 線路の保守点検は保線区があってね。別にやるんだよ。秋になると旅行が始まるので、そのときに駅がきれいになってないと、もし他の駅がきれいになってると恥ずかしいから、自分の駅はだいたいこっからこのへんまでだ、ということでそこだけは草刈っとこうと・・。


春夏秋冬
 駅のまわりは四季の移り変わりととともに変わっていきました。駅のまわりに畑を作ったり、駅前広場で力道山の試合をテレビで見たり、夏には駅のまわりの家に迷惑をかけないよう草刈をしたり。
 
(^=^) 駅のまわりの線路のこっちかたはみんな畑だったんだ。いまの駐車場やなんにかがあるでしょ。ちょうど塀があるところに土嚢があったんだよ。そのこっちに畑があったんだ。草っぱらが。それを農場にして駅員が耕作したんだよ。駅の親方や八王子から駅長なんかが来てよ。そこでねぎをつくったりなんかして、そんなところだったよ。      

(^=^) 駅なんかほとんど草むしりしてなかった。夏になると、背の高ーいひまわりなんかが生えるんだよ。黄色い。蚊がすごいだ。ちょうどね、駅前に金子時計屋と4軒の店屋があった。その人に申し訳ないからって、おれがあったかい中を帽子をかぶって刈ったの。そのうちいやーでもよ。まわりの人の言うこと聞かなきゃなんなくなっちゃった。草ぼうぼうにしとくわけにも行かないからね。

(^=^) 昭和30年ごろかな、冬は電車でも寒いんで、みんながおりて来ちゃあ、「霧生さん寒いよー」「うん、寒いものなー、じゃあ少しあたってけ」って、駅長室にストーブがあるからね。切符は女の人が売ってただよ。車掌さんも女の人がやってただよ。男は軍需工場や軍隊に行ってたからね。

(^=^) かあさんが入院した時は、1年生の一番でかい子がね、学校から帰ってくると武蔵小山へ行ってくるんだよ。かあさんがどんな様子だか、こういうわけでだいじょうぶだったと、おれが駅に出てるときに言ってくるんだ。そうかよって・・・。近所の人に、始終、子どものめんどうみてもらって、夕方になって連れにいくと、ごはんも食べさせてもらってた。それでうちにきて寝かすだけだったよ。

(^=^) 駅前広場の写真屋の前に初めてテレビがきた時は、子どもが小学校のときだったから昭和30年ぐらいかな?力道山がレスリングをやっていた。それをやるときは遠くのほうから、八王子あたりからも、大沢の小学校あたりからも、みんな見に来てた。それで、自分が休みのときにはそこへ見に行ったけど、息子に怒られちゃった。「たまには母さんの手伝いやんなきゃだめだんべっ」て。それっきり行かなかった。

駅前商店は5,6軒?
昔の西門商店街
「相模原市史現代図録」より
昔の西門商店街

 終戦後の駅前や西門の様子を聞きました。

(^=^) 駅の南方は草ぼうぼうだった。広場がずっとあってね。広場の真ん中にね、1本の桜の木があった。その駅のまわりに、1膳飯屋の小屋が裏方にあった。角に本屋、ケーキやなんかを売ってるところ、そして食堂。そのころはあまり店がなかった。かつぎやさんといって、甲府から野菜やなんかをしょって、それで売って歩いてた。それでとうとう、こっちに店を出したのが西門市場。西門市場の中に3軒出した。いまでも漬物や何かを売っている店がある。西門は米軍のゲートの前で門があるから、それでちょうどそこに店ができた。

豆知識
横浜鉄道(東神奈川・八王子間横濱鉄道會社) 明治41年私鉄として開業。横浜港への貨物需要。
東神奈川〜小机〜中山〜長津田〜原町田〜淵野辺〜橋本〜相原〜八王子9駅を結ぶ全長42.6q、蒸気機関車連結3両編成、1日7往復、1時間40分。
昭和 7年10月、 東神奈川〜原町田が電化。
昭和 8年10月、 原町田〜八王子間がガソリン機関車で運転。
昭和16年 4月、 横浜線全線電化。
昭和16年11月、 軍都相模原の中心として相模原駅が開業。
昭和21年 1月、 駐留軍専用車(白帯車)走る。昭和26年廃止。
昭和24年 6月、 日本国有鉄道発足「国鉄横浜線」
昭和32年10月、 矢部駅開業。
昭和47年 6月  小机〜八王子間複線化工事着工
昭和53年10月  小机〜中山間複線化完成
昭和54年 4月  東神奈川〜橋本間複線化完成
昭和62年 4月  JR誕生(JR東日本)

 *ホームページ「横濱鉄道と幻の相武鉄道」「横浜線の歴史」より引用

〜来月は『戦後の国鉄相模原駅 Part2』を予定しています〜
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