戦後の国鉄相模原駅-Part2
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今はJR相模原駅、ショッピングもできる駅ビル。終戦直後の相模原駅はどうだったのでしょう。昭和20年から34年間、国鉄に勤めていらした宮下出身で現在は駅前にお住まいの霧生芳作さんに昔の国鉄についてお話を伺いました。 Part2 | ![]() 霧生芳作さん |
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![]() 下山総裁名入り表彰状 |
長い駅員時代に思い出にのこるエピソードは山形のおばあさんが切符をなくしたときのお話です。山形から特急で来たおばあさんが切符を全部出してしまって山形に帰ることができなくなったことがありました。霧生さんはさっそく山形の駅に連絡して確認をとり、おばあさんが無事山形に帰ることができるようはからいました。あとで、おばあさんから巻紙のお礼状が届いたそうです。 (^=^) えーと秋田か、いや、山形のお客さんがよ、特急の切符買ってやってきて、橋本へ降りたときに両方出しちゃって帰ることができないっちゅうんだってよ。駅長が、「霧生君なんとかなるか」って。「うん、なるよ」って。それで、おばあちゃん、「駅で切符買ったとこわかるか?」って、山形のこういうとこだって。よしきた!それでそこの駅に電話かけて、〜月に〜列車に売ったかを聞いたら「売ってます」って。「よしわかった、ありがとう」って。そんでこんど駅長に、切符があるから無賃輸送やるからって、各乗り換え駅の車掌なり駅員に連絡するように指示書を駅長に書いてもらって、それを持たせて帰したわけだ。そしたらね、このぐれえの巻紙で手紙が来たんだよ。初めて親切な駅員に会ったって。事故ばっかりやってるけど、こういう人も国鉄にいるんだって。そしたら表彰されちゃっただよ。 |
桜の木は見ていた!![]() |
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駅ではさまざまな出来事がありました。駅に今でもある桜の木はすべてを見てきました。これからも見ていくのでしょう。 (^=^)あの時なんかも、ほら、金がほしかったり、なんか足りねえわけなんだ。それで駅長室へ入って、ちょうどおれがうちにいるときだよ、朝出てったらあね、霧生さん、ゆうべこれだあよ。金庫の上の天井に穴が開いてる。ピストルで金庫穴開けて。(えー!) (^=^)そいでその帰りにね、今の踏切があるでしょ、あれからちょっと50メートルぐらい行ったところかな、淵野辺のお医者さんだったな、それが撃たれてよ、ピストルで。転がってただ。 (^=^)そんなだった。そいであそこにいまでも桜の木が1本あるでしょ。ホームに。木の下に穴が開いてる。あれはね、夜だよ。下りの終電が行って、上りの終電が来たときだよ。教えてったんだよ。桜の根元から煙が出てるよって。火の煙がって。そしたら中がもう朽ちてぼこぼこになって、そこへたばこ入れたんだんべなー。夜の夜中だよ。さっそく行ってバケツに水を汲んでってやったよ。だからあの木が相模原の駅はほとんど見て知ってるわけだ。どんなことがあったかちゅうのを。 (^=^)更生病院の門になってて、そこにちょうどたこつぼ式の穴があったんだよ。そこの守衛が米軍キャンプの中から何かを引っ張り出してるんだ。夜なんか行ってみるとぴかんぴかん光るけんど、なにをやつらが引っ張り出してんかなって。そしたらね、ヤシ油の入った缶だよ。それを引っ張り出してよ、その穴の中にみんな入れちゃっておくだよ。それでやつら、みな、中に入っちゃってるでしょ。よっしゃ。おれたちももらうべーって。入っちゃってね。で、持ってきちゃう。上り線のほうのいまツツジがあるかな、そこに小ちゃい小屋があったんだよ。6尺2間ぐらいの、昔の駅長室なんだ。その床下にしまっちゃって。そしたらちょうどね。石鹸を作ってる駅員がいたんだよ。ちょうど風呂場があったんだ。この下に。それがね、石鹸を作ってやろうって。石鹸を作ってくれただ。家で自分で使うために作ったの。だからみんなほら、ヤシ油や油がないから、家でてんぷらを揚げたね。まっ黄色になっただ。 (^=^)伊藤病院のそばの正門、あそこででかい事故やっちゃってよ。車ひっかけちゃったの、電車が。そんときなんかも、霧生君、こういうわけだからって、そいでそこで、バスを用意したり、あそこで折り返し運転なんかもさしたり・・・・。 |
![]() 相模原駅ホームの桜の木 ![]() 功労賞のバッジ ![]() ![]() |
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横浜線は昔、単線でした。複線化のことを霧生さんが語ってくれました。 (^=^) 寒くってしょうがないからってね、国鉄でOBでいた河村まさるっちゅうてね、衆議院に立つだっちゅうんだよ。「ね、霧生さん、応援してくれよー」、「なんで?じゃあね、おれが応援せんにゃあ。複線化をやるかどうかきいてこい」って。「2年以内ぐらいにやるからよー」っちゅうて。そしたらね、衆議院に当選したでしょ。すぐにあそこの広かった草っぱらやブロックなんかを貸してくれたんだよ。子ども会やなにかに。それで複線化にするんで、駅前の階段なんかも取ったでしょ。その時のね、階段の板がこんな厚いヒノキの板だよ。 昭和45,6年かな、霧生さん鍬入れ式に来てくれよって。鉄道のほうから親方がくるけんど、霧生さんがやったんだからと先にやらせられて、それから一杯飲むだ。おれはやだよ、飲めねえとかいったってしょうがねえ。やっぱそれがね鉄道関係だよ・・。 |
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1960年〜70年代、日本中がベトナム戦争の影響を受けました。戦争反対運動が沸き起こり、米軍基地を持つ相模原は、その真っ只中にありました。霧生さんが勤める相模原駅にも、機動隊に追いかけられた学生達が逃げ込んできたりしました。その時、霧生さんは他のお客さんを守らなくちゃならないから駅に入ってくれるなと機動隊に言いました。また、畑仕事をしているときに逃げてきた学生達には、国会に出なきゃあだめだ、と話したそうです。 (^=^) ベトナム戦争があったからね、戦車の搬出だよ。ねー、西門通り、こんときなんかだってよ、すごいもんだよ、機動隊も。それで、各学校だー、大学だーね、反対だよ、それがみんなね、西門の桜並木、ザアーっとそれを機動隊がぶっ飛ばすわけだ。それで追い飛ばしちゃあ皆駅に逃げてくるだあよ。だけど、今日も家にいたってむかえにくるだよ。霧生さんこういうわけでまた機動隊がくるんで、来てくれよって。もうそんときは、そうだ今のちょうど団塊の人なんかちょうど20代だったんでな、団塊、学生がな。ちょうど、うちのあたりがね、駅からずーっといまの中央小学校かそのあたりに畑があったんだよ。そこで仕事をしているとね、逃げてくるだよ、学生が。それが、おいおめえなんかね、いまのやつをな、生かすには、なんとしたって、国会なんかに出てかなきゃあだめだって、ネ、それでかたきをうちなっつって。今やったって機動隊にはかなわねぇんだからって、ね。それでもって駅なんかも、逃げ込んでくるでしょ。ガラス戸なんかも破って入ってきちまう。追っかけられてんからよ。だからもう、そんなときだってね、鉄道の地所はここだから機動隊はここから中には入ねえでくれって。なぜって、お客さんはわれわれが守ってやらなきゃあなんねえだ。あんたがたが捕まえるなら出たところで捕まえなさい、って。実際そうだもん。逃げてきたもんを機動隊までが中に入って、ホームまでいって捕まえた。だから鉄道関係のほうも親方が来るわけだ。一番上から八王子から東京からも来るわけだから、それで、出てって、きょうは誰の指図に従うだ?って。うちの駅長の指図に従ってくれよって。そうしますって言うだよ。 (^=^) おれは国鉄でね、ストには反対だよ、って。一般のお客さんに対して申し訳ないから。だからね相模原駅はにらまれた。他の組合からなー |
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![]() 昭和37年の米軍相模原補給廠西門 「写真集相模原」より |
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![]() 向陽小学校のタイヤ ![]() 現在のウサギ小屋 |
向陽小学校の林にあるタイヤは霧生さんが子ども達のために埋めたそうです。また、ウサギ小屋のウサギはお友達からもらってきたウサギだったそうです。 (^=^) 向陽小学校の林のところにタイヤをうえてやんべって。それでそこへタイヤをうえてやった。小使いさんによ、足の邪魔になるやつがあっちこっちにあるでしょ。コンクリのかけらとかなんだかんだとか。それを集めといてくれよ。そいつを半分から下にいれりゃあ、ひっくり返りゃあしねえ。それで型枠を作ってきてよ、おばあと二人でな。小使いさんがうまいのがあるから霧生さんとってやるから来なよって。そしたらなんだ。カレーうどんだよ。カレー食ったことが無かった。うまかったよ。 (^=^) そこにウサギ小屋があるべ、あのウサギなんかは俺が持ってきただよ。いなかっただよ、うさぎなんか。町田市にいただよ。友達が、そこへ行ったらいるだよ、ウサギが。おい、このウサギどうしただ。静岡からもらっただ。それじゃ、子どもができたらよ、くれよって。それで家で飼ってただよ。 |
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横浜鉄道(東神奈川・八王子間横濱鉄道會社) 明治41年私鉄として開業。横浜港への貨物需要。 東神奈川〜小机〜中山〜長津田〜原町田〜淵野辺〜橋本〜相原〜八王子9駅を結ぶ全長42.6q、蒸気機関車連結3両編成、1日7往復、1時間40分。 昭和 7年10月、 東神奈川〜原町田が電化。 昭和 8年10月、 原町田〜八王子間がガソリン機関車で運転。 昭和16年 4月、 横浜線全線電化。 昭和16年11月、 軍都相模原の中心として相模原駅が開業。 昭和21年 1月、 駐留軍専用車(白帯車)走る。昭和26年廃止。 昭和24年 6月、 日本国有鉄道発足「国鉄横浜線」 昭和32年10月、 矢部駅開業。 昭和47年 6月 小机〜八王子間複線化工事着工 昭和53年10月 小机〜中山間複線化完成 昭和54年 4月 東神奈川〜橋本間複線化完成 昭和62年 4月 JR誕生(JR東日本) *ホームページ「横濱鉄道と幻の相武鉄道」「横浜線の歴史」より引用 |
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