子ども会、向陽鼓笛隊の話
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今回は、すすきのにお住まいの田中洋子さんをお訪ねしました。田中さんは、昭和16年、橋本の旭国民学校に女子教員として迎えられました。20歳から11年程小学校に勤められ、戦時中の疎開児童との関わりなど忘れられない体験をされました。また子ども会活動や鼓笛隊設立など、長年小山地区の子ども達の教育活動に携って来られました。今年米寿を迎えられる田中さんが子どもたちからもらったあだなは、ムーミンママです。今日は、戦時中の思い出や小山地区子ども会の設立、向陽鼓笛隊の設立など、当時の状況を伺いました。 |
![]() 田中洋子さん |
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![]() 市子連さがみはら誌 |
相模原市の子ども会は、学校組織とは無関係に地域の子ども育成事業として他の都市とは一味違ったものとして、スタートしました。どの様にしてできたかを伺いました。また、小学校の先生達も積極的に活動を支えていた事を話して頂きました。 向陽小学校の初代校長は、林校長先生でした。林校長先生が一番気をつけたことは、横浜の団地など都会から来ている子どもたちと地元の田舎の子どもたちを仲良くさせることでした。そのため校外指導に力を入れ、少年指導員制度を取り入れました。少年指導員は、県、市より2年間委嘱された父兄が指導にあたっていました。早速、少年指導員として2人派遣してもらいました。 しかし、2人だけでは、地域全部を見きれないので各地域に子ども会みたいなものを作ったらどうかということで林校長先生が考えました。各グループ60名くらいで…。まず宮下が丁度60人、すすきのは人数が多く、すすきの上とすすきの下に分けました。その他は、小山旭台(後に山びこ子ども会に改称)、それと駅前(駅の手前)から清新本町の辺りにも小さなグループ(後の清新ひまわり子ども会)ができました。 PTA地区活動とは別に保護者を2人ずつ、校外の指導員として集め、夏休みはどうしようとか、活動を始めたのが子ども会の始まりでした。この頃は、学校の先生も校外指導に積極的にかかわっていました。 昭和38年〜48年の間に全市に呼びかけ100以上の子ども会ができました。民間の育成会であり、市の職員がやっている訳では無いので、書類を出したり、受付をしたり、行事をしたりするのが難しくなってきました。それで各公民館におねがいして地区子連を作りました。市内に14地区子連が出来て、市子連が結成されました。 |
子ども会ではどんな活動をしたか![]() |
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野球を最初に始めました。すぐ大会が行われました。最初は市全体で11チームくらい。上溝の坂をおりた所のプールの向こう側に野球場がありました。ネットもありません。雨が降ったらぬかるんで出来ませんでした。練習は学校で行われました。 その後始めたのが女の子のためのドッジボール。第1回は、市の体育祭で行いました。昭和48年の大会では、北会場の4ブロックで小山地区が、優勝を独占しました。 体育的なものは盛んでしたが、文化的なものが少ないのではないかということで、子ども会の状況をみんなに知らせようと、1年の活動をまとめて子ども会新聞にのせたりしました。その後、子ども会新聞コンクールとなって活動しています。 親があまり介入しない子ども会を作ることも必要だということで、市の教育委員会にお願いして、ジュニアリーダー(中学生)の研修を行いました。そして50人くらい育成しました。ジュニアリーダーと育成会の連携をはかりました。各地域の公民館で各子ども会の6年生の中からリーダーを育成し、中学に行っても子ども会と連携できる様にしました。藤野に青年の家がありました。(今は芸術の家となっています。)そこに毎年中学生と子ども会のリーダーを集めて、友達同士どうつきあったら良いかなど、こちらの先生に教えて貰いました。「子どものための子どもによる子ども会」を運営出来る様になりました。 子ども会の活動費は、当初は各自で集めました。その後、お祭りの賽銭(さいせん)などは子ども会にまわすなど、自治会の援助を受ける様になりました。廃品回収なども子ども会で行いました。朝早くからお願いしますといって集めました。トラックで集めることもありましたが、危険だということでリヤカーにしました。子どもがいない家でもその日は、新聞など出してくれました。 夏休みのプールは、校外指導の方や親、先生も来てくださり、子どもが怪我をしたことはありませんでした。今、夏休みに学校でプールが使われていないのは残念でしょうがありません。各地区で子どもが花壇づくりや大掃除などもしました。 |
![]() すすきの子ども会ドッヂボールチーム 「すすきののあゆみ」より ![]() ![]() 子ども会新聞コンクール最優秀賞作品 宮下2丁目子ども会 「小山地区子連記念誌」より ![]() |
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@電灯がないお寺でキャンプの話 お寺さんでキャンプしたことがあります。町田市の隣の八王子のお寺さんに行きましたが、電気がありませんでした。行った時どきんとしました。昭和40年頃でした。今は電気がありますけどね。こわいよね。小さい女の子は特にね。お母さんたちも連れて行ったのですが。ろうそくはありました。月の光でごはんをつくり食べました。何とかできましたけど、子ども達にとっても、忘れられない思い出になりました。 A大きな大きなカルタ作り TVで見たんですが、北の国ではね、雪の上で板に絵を描いてカルタをやっていたんです。そこで、大きなカルタ作りを提案しました。庭でもできるし、雨の時は講堂でもできます。「どうだろう?」「やる!」「でも48枚すべて違ったのを描くのが大変だよ。」題は、子ども達の毎月の行事の中から選びました。大判ぐらいの厚い、片方が白で片方がボール板を買ってきました。やめようかという子もいましたが、自治会館に集まってやり始めました。遊びとか行事とか交通安全なども入れ、1人で1枚づつだと大変なので、2人で相談しながら仕上げました。非常に好評でした。まだ大事にとってあります。 |
鼓笛隊ができた時の経緯や苦労話 |
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自分では楽器もひけないと言っている田中さんが、周りの方の応援で鼓笛隊が出来た経緯を話してくれました。 主人が町田市の小学校に勤めており、町田駅前で鼓笛隊をやるのを見にこないかと誘われて見に行きました。各小学校50人くらいでした。「あー良いな。やってみたいな。」と思いました。自分では楽器もひけないのに…。一番心配したのは指導者ですね。それから、地域がどう判断するか。青少年課がどう扱ってくれるか。学校でなく地域でやりたかったので青少年課の課長に相談しました。そうしたら「やりなさい!、やりなさい!そんなことを思いついたの。市の方で青少年指導育成資金があるから心配するな。」と応援してくれました。 また、練習するのに、校庭や体育館を利用しなければなりません。学校に行って校長に相談しました。「心配するな。指導できる教師がひとりいるよ。」と言ってくれました。普通の授業を終えてから、全然鼓笛隊など知らない子ども達を集めて、やりたいのですが。「それは請合う。」学校でなく地域でやりたいのですが。「それは頼む相手次第だ。」ぱっぱっとお金のことも、地域ですから公民館の方にも話したら良いだろうという事で、子ども会や校外指導員、少年指導員の方を集めて相談し、どんどん決まっていきました。募集したらだいたい50人くらいの応募がありました。昭和40年頃のことです。その後、指導する先生は次々と後をついで下さいました。第1回桜まつりに出場した向陽鼓笛隊のすがたは、忘れられません。 その頃、鼓笛隊は、市ではここしか無かったので、コンクールはありませんでした。その後、田名、大沢、中央とか鼓笛隊が次第に出来、市で毎年コンクールが行われるようになりました。 現在、向陽鼓笛隊は隊員が少なくなってきました。10人くらいです。1年生がやっているのを見ると涙が出てきます。でも育成者の方が熱心にやってくださっています。昨年ユニホームが新しくなりました。思い出すと、設立当時は体操着でやっていました。それでもおかしくはありませんでした。皆に拍手で迎えられ、涙が出たのを憶えています。 |
![]() ![]() ![]() 鼓笛祭りのパンフレット ![]() ![]() 向陽鼓笛隊 |
![]() 昭和40年当時の鼓笛隊(「すすきののあゆみ」より) |
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![]() 昔の旭小学校(「相模原市今昔写真帖」より) |
相模原は戦時中、東京や横浜などから疎開してきた子どもたちがたくさん親戚の家などに滞在して学校に通ってきていました。田中さんは、そんな疎開児童の中で特に忘れられない中村君のことを語ってくださいました。 東京の下町から疎開して来た末っ子で中村君というかわいい男の子がいました。当時、直接は言われないけれど、親と一緒に疎開してきていない子は、土曜や日曜は家に帰してはいけない規定になっていました。土曜になると、中村君はトントンと窓を叩いてきました。私は「いいよ」と言えなくて知らん振りしていました。にこにこっとしたら、飛んで家へ帰っていきました。 東京の実家から帰った月曜日の朝になると、「先生一番最初に来た。一番早く来た。」と言って抱きついて来ました。「おはよう。手が冷たいね」とあっためてやったりしました。昭和20年3月10日(土)の東京大空襲があって以来、中村君は帰って来ませんでした。かわいい子でね。あの時、帰さなければ良かったとずいぶんくやみました。中村君は5年生で亡くなりましたので、卒業写真がありません。それでもあの子の顔は忘れられません。今思っても抱きしめたいくらいです。 |
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実家は、八王子千人隊の近く旧甲州街道の北で新町というところ。今の京王線東八王子の近くで、昔は第4高女がありました。 兄とは5つ以上ちがったので学校いった時も、兄弟でも年が離れていたので相手にもされませんでした。うちに帰っても、だれもいないんです。そばに母の実家がありました。おじいちゃんおばあちゃんとばかりでは面白くないでしょう。まわりに女の子の友達が居なかったんです。 畳屋さんや床屋で、はさみ将棋をしたり、幼年クラブなんかも見せてくれました。畳屋さんのおじさんが「洋子ちゃん入っておいで」。八百屋さんでは、冬になるとお釜でさつまいもを焼いて、塩ふって、「もうだいじょうぶだよ」とか言って渡してくれました。ちょうちん屋さんもありました。南向きの甲州街道のはしっこで作るのを見ていました。みんな忙しくてもどけとか、言われませんでした。蛇屋さんもありました。大きなビンの中に入っていたり、四角のビンに入れて焼酎漬けにしていました。旧甲州街道には、そんなお店もありました。 |
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