小山の昔語り(3月)


すすきの保育園設立のお話 Part2

 Part1にひきつづき、戦後のすすきの保育園がバザーを始めたことや卒園した子ども達を学童保育のように受け入れていた話などをうかがいました。 重本和子さんの写真
重本和子さん

大変!学童保育も始めちゃった!
みんなで落書きしている写真
みんなで落書きの様子
すすきの保育園創立60周年誌より
  親が帰ってくるのが遅い為、電気が点いている保育園に卒園した子が「先生、入ってもいい?」とやってくるようになりました。たちまち小学生が30人くらい集まりました。そこで漢字の練習、トランプ、百人一首・・、学童保育のようでした。西門に商店がぽつぽつできだしてみかん箱を(昔は木箱でした)もらいに行きました。どうやって持ってくるかといったらみんなでおでこと肩に乗っけてきました。そしてそれを解体し、釘を上手に抜いたり、のこぎりのひき方も教えました。そして、机やパトカーなどをつくり、机は1週間くらい使って、ほしい人は持って帰ってもいいよと申しますと全員の親が持って行きました。男手がなかったから、もちろん私が教えました。
 昭和42年くらいのある日、清新小学校の教頭さんから電話がありました。すすきの保育園の学童が各学年各クラス1.2.3番をみんな握ってますと。嬉しかったですね。子ども達に毎日勉強を1時間から1時間半くらいばっちり教えてましたから。格好は汚いけれど頭はちっとも悪くないんだって証明できましたからね。


すすきの保育園の名物「バザー」の始まり
 戦後、ララ物資※というのが届けられました。海外の人が寄付金を集めて脱脂粉乳、砂糖、小麦粉などを送ってくれたのです。また、米軍のご婦人達がいらなくなった衣類を出してくれましたね。だぶだぶの服でしたので皆さんに自由に持っていっていただきました。それがバザーの始まりですかね。昔は真冬に夏物を6,7枚着ていた子もいました。バザーの中から適当なものを貧しい子達に渡したりしました。当時、この辺も雪が1Mは積りましたからね。また、手袋もないし冷たくて泣きながら来る子がいましたね。ストーブのお湯をとり、よく手を浸させました。

ララ物資
 英語でLARA(Licensed Agencies for Relief of Asia:公認アジア救済連盟)といいます。
 戦後、日本を救済するために、アメリカはもとより、カナダ、中南米の各地から集まった資金や物資を一括し対日救援物資として送り出す窓口として、1946年6月に一本化された組織が、この「ララ:LARA」でした。
 そして同年11月、アメリカの有力NGOの協力を得て、輸送を開始し、全てのララ物資は無事横浜港に到着しました。
 『なお、この「ララ」の設立と活動のかげには、カリフォルニア在住の日系アメリカ人の浅野七之介氏の献身的な努力があったという。また、多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったため、その救援総額は不明であるが、膨大な額であったと思われる。(注:推定では当時のお金で約400億円)』 外務省HP資料より








本当にあったいい話
 昭和32、33年ころ、あるお母さんが夜8時くらいに「まだ子どもたちに何も食べさせていないんです」って言うんです。その一言で分かりますよね。だから、ララ物資のものや、お金を少し添えて渡しました。「これでお野菜買ってすいとんとかしたらいかが。」って。園児を入れて6人の子どもがいるご家庭でした。そんな事が4回くらいありましたね。そしたらね、新しい園舎が昭和47年に建ったんですけど、その一年後くらいにそのお母さんがみえて「一番末子が職につきました。おかげであの時は本当に助かりました。」って言ってね。20万円持ってきてくださいました。嬉しかったですね。 相撲をしている写真
相撲をしています。

親の意識の変化
変わったことと言えば30〜40年前から親の意識が変わってきました。「子ども」より「自分」になりましたね。昭和37、8年あたりから「じいちゃんばあちゃんが来ても子どもを渡さないで下さい。」ってそういう言葉が出てきましたの。「どうしてですか?私は大家族好きですよ。いろんな声と言葉の中でひととなりっていうのはね、幅広く育っていくんですよ、愛も育っていくんですよ。」って、お話ししています。環境とか子育てとかの心根は変わっていませんが助成費が増えました。子ども達が豊かになり、自己中心になりつつある様に思えますね。

そのころの暮らし
●どこまでも歩く

 戦争中、鉄は全て弾丸となりました。だから自転車が登場したのは昭和33,34年くらいからじゃないでしょうか。それまでみんな歩きました。今は津久井湖に沈んでしまいましたけど、あのあたりは昔、三工区のつり橋というのがかかっていて清流が流れていて、桜の名所でした。この辺の人はそこまでお弁当持ちでお花見に歩いていきました。
 私も弟の小学生の友達と相模川まで泳ぎに歩いていきました。市役所の前の道路を通って上溝を下りて、田名へ、夕方大山に夕日が沈む頃あがって帰ってきたものです。これも良き時ですね。おかげで丈夫になりました。

●竹馬で登校!!

 戦争中やその後も衣料や靴なんかは配給でした。配給券はあっても品物がなかったんです。農家ならわらじも作れますけど、その他の子ははだしで歩いていました。また、捨てられた牛用のわらじを履いている子もいましたわ。びっくりしましたね。昭和25,26年までははだしで行っていた子がいるんじゃないでしょうか。学校ではどうするの?と聞きましたら、入り口に雑巾がおいてあって足を拭いてあがるんだそうです。

 竹馬で学校へ通っている子を見ましたよ。宮下には竹がいっぱいあったのでね、すぐ作れるじゃない。道は、じゃり道じゃなく黒土なんですよ。竹馬で1Mくらいの水たまりなんてホイホイって越えていけちゃうのよ。竹馬でかけっこもできますよ。竹馬での登校も楽しいですよね。

●おいはぎがでた!!

 昔は、向陽小学校の運動場の半分まで雑木林だったんですよ。ガスタンクがありましたから長い細い道が斜めに通っていました。横の奥の今の防衛庁の官舎の所は牧場でしたね。牛が何頭もいましたね。そして雑木林の辺はおいはぎが出ました。だから夜警団がたちましたね。宮下の男性の方達が2〜3人と組んで出てくれましたね。だって本当に一点の光もなく闇なんですから。







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