村の歳時記 -その43-


< グウグウ(牛蛙)捕り>



  昭利20年前後、現在の田名テラスから塩田に至る田んぼや八瀬川沿いのワサビ田、用水堀などにグウグウは沢山いました。食糧難の時代にこの食用蛙は最高の蛋白源の捕給で、5〜10月頃まで子供達は昼夜にそれを競って捕りに行きました。昼間は穴や草木の中に潜み夜になると水辺を歩いていました。牛蛙は鳴き声がグウグウと牛に似ているので牛蛙といわれたそうです。
 大正7年に北米より輸入し、それがやがて日本全国に広がったといわれています。田名では昭和18年頃より繁殖して赤蛙と共に食用にしました。
 味は鶏肉やスッポンに似て栄養価がありスープ、フライ又は焼いたりして食べました。
 黒褐色の斑紋があり、雄は暗緑色で体長は20センチ程あります。6〜7月頃産卵してオタマジャクシのまま越年するので10センチ程になり通常の蛙とは異なります。
 今では環境の変化により、赤蛙のみ見かけますが、田名でもこんな時があったのが懐かしく思い出されます。

『協力 郷土懇話会』
平成25年 5月 刊


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村の歳時記 -その42-


< 田名に来ていた行商>



 田名地区の「行商」は、昭和30年代までが主でした。当時の田名は農家が多く、商店は上田名に数軒で、買い物は水郷田名か上溝が中心でした。それ以外は行商に頼っていました。
 行商の歴史は古く、大化の改新(645年)以前の第29代欽明天皇(539〜571)の時代にはじまり、江戸時代がピークと言われています。
 行商ではいろいろなものを売りに来ました。食料品(主に魚)、衣類、薬、豆腐、座敷ほうき、戦後はキャンディ等々。又、ほしい品物を注文すれば次回には持ってきてくれました。特に農繁期には買い物に出る時間もなくほとんど行商に頼っていました。
 自転車での行商は主に鮮魚や豆腐類、リヤカーを自転車で引いての行商は昆布や干物、鰹節などのすぐには腐敗しないものが多かったようです。リヤカーの場合は、道路に止めて隣近所皆に声をかけてその場で商売です。衣類は風呂敷にいっぱい入れて背負ってきて、家の座敷に広げては、隣近所に知らせ皆で品定めその場で商売をし、また夕方売れ残りがあるとその家に預けておき、翌日取りに来ました。そしてまた商売です。今となればのどかな風景です。
 戦中戦後の一時期には、農家の生産物との物々交換も盛んに行われていましたが、これも懐かしい思い出です。
 その他鍋釜の修理をする鋳掛(いかけ)や、番傘の修理など当時は一度購入すると、ほとんど修理をして一生使うこころづもりでしたから、年配者はいまでも物を捨てない人が多いのだと思います。
 昭和40年代には短期間ですが、車による行商も行われていましたが、田名でも徐々に店舗行商に移行していきました。
 今はスーパーやコンビニ等もあり便利な世の中となりました。
 時には昔が懐かしく行商に来た人たちの顔や話し方などが今でも思い出されます。

『協力 郷土懇話会』
平成24年11月 刊


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村の歳時記 -その41-


< 田名の水田開発と米作り>



田名の水田開発は久所、上田名耕地、望地水田の3か所で行われました。
江戸時代後期・久所地区の江成久兵衛による水田作りは洪水と取水用トンネルの掘削(540m)を経て開発。
また、昭和12年に完成した上田名耕地整理事業(25町歩)はドブ田と言われた場所での暗渠(あんきょ)排水設備の設置に大変な苦労がありました。
望地水田は安政3年(1856)に中島万平により水田開発が始まり、万延元年(1860)に一部完成しましたが洪水により流出。昭和22年から再度水田開発が始まり、昭和29年に完成。望地水田は河原の水田開発なので、土を入れる作業や堤防作りなど苦労の連続でした。田植えはすべて一株ずつ穴を掘って植え、石で押える手作業でした。
当初収穫量は少なく一反当たり1〜2俵位でしたがそれでも皆大喜びで美味しい田米だと言って食べました。
陸稲が主だった田名は3か所の水田により、相模原でも屈指の米の収穫ができるようになりました。
今は休耕田を利用して昔の方法で水田体験学習での米作り、酒米用としての耕作などおこなっています。
それら田作りの中で、先人たちの苦労や米作りの大変さが多少でも解っていただければと思います。

『協力 郷土懇話会』
平成24年8月 刊


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村の歳時記 -その40-


< 節分と害虫の口焼き>

節分は本来季節の変わり目に年4回あるのですが、特に春の節分が重んじられる様になりました。冬から春への境として【注】物忌みに籠もったのが本来の行事だったといわれています。
 この行事は追儺(ついな)といって平安時代の宮中で大晦日の夜に悪鬼を払い疫病を除く儀式でした。それが7世紀頃民間に伝わり、近世に節分の行事となったといわれています。
 立春になると、「福は内、鬼は外」と言いながら豆をまきます。まいた豆を歳の数だけ拾って食べたり、残った豆をお茶に入れて福茶として家族で飲んだりします。また、鰯の頭をヒイラギの小枝に刺して戸口にさし、いり豆をまいて悪疫退散、招福の行事を行なう風習が今もあります。
田名では、むかし節分の日に「害虫の口焼き」といって鰯の頭5匹を大豆の茎に刺して囲炉裏であぶり「桑虫葉虫その他害虫の口焼き」と早口で言いながら、ペッペッと唾をかけ、それをまた焼いて同じことを何度も繰り返しました。鰯を害虫に、豆の茎を作物に見立て休んではまた繰り返し行ない、最後には囲炉裏で燃やしてしまいました。親が早口で言うので何を言っているのか分からず大人になってようやく分かりました。
 作物の豊作祈願と害虫から守るために行なったのですが、今のように消毒などしない時代には本当に真剣でした。
 今では、囲炉裏も無くなり、懐かしい行事となってしまいました。(この行事は、田名地区内でも家庭によって多少の違いがあったようです。)
 【注】物忌み(ものいみ)⇒ある期間飲食行為をつつしみ、身体を浄め不浄をさける事。

『協力 郷土懇話会』
平成24年 2月 刊


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村の歳時記 -その39-


< 蚊 帳(かや)>

 蚊帳の歴史は古く奈良時代(710〜784)に作られた日本書紀に記録されているほどで、中国から伝来したと言われています。一般庶民が使用したのは江戸時代からでした。
 蚊帳は蚊を防ぐ寝具で、目の粗い麻や木綿などで作り、虫は通さず風を通す利点があり、6〜8畳の部屋いっぱいに四隅(大きいものは6箇所)を吊って覆います。
 昭和30年代までの田名は農家が多く、様々な作物を作っていましたが、農閑期になると養蚕を通常年3〜4回は行なっていました。特に、夏に飼育する夏蚕(なつご)の時は、 母屋がいっぱいになるほど蚕(かいこ)を飼育し、昼夜を問わず雨戸や障子を開けっ放しにしていたので、当然蚊の出入が多く、蚊帳は無くてはならないものでした。
 蚊帳に入るとその独特の麻の香りがありました。また、雷が鳴り、稲光(いなびかり)がひどい時には蚊帳を吊り、その中で線香をたき雷が過ぎるのを待っていました。 子どもの頃「この中に入っていれば雷は落ちないよ」と良く母親に言われたものです。また、一人用の蚊帳は、主に赤ちゃん用で、手軽に折り畳みができ、便利で時にはに大人の昼寝にも使用しました。
   生活環境の変化、殺虫剤や下水の普及による蚊の減少、機密性の高いアルミサッシの普及に伴う網戸の採用、空調設備の普及により昭和後期以降は殆ど使われなくなりました。
 しかし、最近エコロジーや節電対策、薬品アレルギーなどで見直されているようです。
      

   遠き日に  思いを馳せて  蚊帳を吊る        篠ア光子

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊


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村の歳時記 -その38-

< 地鎮(神)講(じちんこう)>

 田名地区では、江戸時代からいろいろな講中が行われてきました。お伊勢講、稲荷講、二十三夜講、二十六夜講、地鎮(神)講などです。その中の一つ地鎮(神)講は半在家では今も行われています。
 その目的は「農民が相寄り農家の守護神である地鎮様をご本尊として、春秋に豊作物の豊穣を祈り、近隣和合して農家の生活向上・共存共栄の実を上げる」と過去帳に記されています。
 明治十九年の二十三夜講、同時代二十六夜講の参加者名等が、掛け軸と共に大切に保存されています。過去帳には、昭和二十六年再開当時の様子、当番を各戸順にして米三合・会費百円を集め酒三升・豆腐三丁で飲食したと記録されています。地鎮講が行われて来た状況が五十四年間にわたり記録されていてその時々の様子が良くわかります。
 昭和二十年前後の戦争や食料難によって中断していましたが、半在家では、生活もある程度安定した昭和二十六年に、十二戸が相談して地鎮講を再開しました。その時に、地鎮様の掛け軸を作り、以前からあった二十三夜講の掛け軸と共に飾り、お香をたき、収穫物を供えて五穀豊穣を祈りました。昭和六十二年までは、各戸や自治会館で行っていましたが、その後は、会費を集め食事処で秋一回家内安全と健康を祈りながら、年間の出来事や家族の様子などの話しで楽しいひとときを過ごしています。
 当時の目的が今とは大分変り、田名地区で行われてきた講がほとんどなくなってしまいました。これも時代の変遷かと残念に思います。

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊


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村の歳時記 -その37

< 臼(うす)>

 一口に臼と言っても、調べてみると何通りかあって、餅搗き用の搗き臼、粉を作る挽き臼、稲籾を取る摺り臼などがあります。
 その代表的なものが搗き臼で、一軒に一個、代々使われてきました。正月や節句などの祝いごとに餅は欠かせず、また保存食としても重要なものでした。年末には正月の雑煮用の餅の他に、年の神様に供える鏡餅用と家族総出の餅搗きは大変な仕事でした。
 欅の木をくりぬいて作った大きな臼を据えて、力自慢の若い者が腕を振るい、何十キロもの餅を搗きました。
 年の暮はもちろんのこと、 小正月に搗く寒餅、三月は雛祭りの菱餅、四月の草餅、七月には夏バテ防止に土用餅を搗く家もあって、臼の出番は度々ありました。それほど働いた餅搗き臼も、最近とみに出番が減って物置の隅で眠っています。
 また、米の粉を作るための「挽き臼」は、溝を切った円筒形の石をこすり合わせて米を砕く道具で、繭玉団子や草団子を作る時に使いました。玄米を白米にする臼は「ふみがら」と言われて、てこを利用した足踏みの道具で、昔は物置の隅に仕掛けてありましたがどちらも今では機械化されたためにほとんど使わなくなりました。
 今は見る事もなく昔を知る者には寂しい思いです。

昔は、奥さんのお産の時に旦那は臼を抱えて家の周りを回り、苦しみを共にしたという話もあり、臼には生活に密着した特別の重みがあったようです。

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊


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村の歳時記 -その36-


 

< 火の番(夜回り)>


 私たちが生きていく上で必要なものに火と水がありますが、どちらも「食」には欠くことのできない物で、私たちの生活に役立ってきました。
 特に、冬には、火は暖房としても使われ、無くてはならないものでした。エネルギー革命といわれた石炭、石油の出現までの長い間、植物(まき)を使っていましたが、むき出しの火ですから常に火災の危険も多くついて回ったものでした。
 まきを燃やしていた頃は、灰に残っている火の不始末による火災が非常に多く発生し、それを心配して考えられたのが「火の番」でした。特に、火災の多かった冬の季節には、何軒かが一組となって[宿]といわれた所に詰め、受け持ち区域の見回りをしてもらうのはとても頼りになりました。世間話に花を咲かせたり、少々のお酒で体を温めてから夜回りに出かけました。拍子木を打ち、冬の夜、静まった地区内を回るのでした。昭和の初期の頃は、屋敷内にある納屋・物置に立ち入っても暗黙の了解で、それをとがめる事はありませんでした。
 今では、自治会単位で、年末警戒と併せて行われますが地区によっては子ども達の「火の用心 マッチ一本…」の声が聞かれるところもあります。
 火難除けの戒めとして家庭では台所に荒神様(かまどの神様)を祀り、火の用心に心がけるのでした。
 ・・・余談・・・
 ことわざに、怖いものを並べたら地震・雷・火事・親父という言葉があります。地震や雷は、天災で防ぎようがありませんが、火事は人災で、心がけ次第で防げるという戒めとして教えられました。

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊


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村の歳時記 -その35-


 

< 秋まつり >

 へき易とした残暑もようやく和らいで、涼しい風が吹くようになると、八幡様の秋のお祭の日がやってきます。
昔からこの秋祭りは、作物の実りに感謝する祭りとされているようです。夏の間の手入れのかいがあって、たんぼの稲は穂を垂れ、畑の作物も順調に育ち、暑い中での畑仕事も一段落した休息日と収穫期の近付いてくる楽しみが、祭を育ててきたのでしょう。
村の鎮守様の年に一度の大祭ですから「おおまち」とも言われ、各家庭では酒饅頭を作って親せきへも配り、祭りへの招待にも回りました。
一方、八幡様では、前日から総代さんが準備に出てのぼり旗を立てたり、神楽殿を飾ったりして本番に備えるのでした。
奉納する獅子舞も伝承されていましたから、この踊り場作りも大変でした。(昭和のころは、稲わらを束ねて直径約5メートルの輪が作られました)

♪♪村の鎮守の神様の
今日はめでたいお祭日♪♪
とか、
♪♪治まる御代に神様の
恵み仰ぐや村祭♪♪

などとうたわれているように、神様とのつながりを有難く感じたのです。
 子ども同士で誘い合って出掛けた八幡様の境内には露天が出ていて、親からもらったこずかい銭で買ったセルロイドのお面をおでこにかぶり、綿菓子をなめながら、獅子舞やお神楽を見物して祭を楽しみました。
   また、村を形作っている集落でも小さいながらそれぞれに祠(ほこら)をまつり、八幡様の祭に近い日を定めて例際を行ってきました。戦後の一時期には、各集落競って田舎芝居を奉納したり、素人演芸会を催して秋の一日を神様と共に過ごすのでした。

 直会(なおらい)の  神酒(みき)生ぬるき  秋まつり   幸男
 獅子舞の      土俵に秋陽      濃かりけり  幸男

獅子舞 お神楽


『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊


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村の歳時記 -その34-


< 畦焼き(あぜやき)>


 早春の仕事の一つに「畦やき」という作業がありました。
 冬枯れの田圃(たんぼ)の畦道や用水堀の土手などにはびこった雑草を焼くことで、潜んでいる害虫の駆除を目的とし、草むらに産み付けられている卵などを焼いてしまうこと、また、春の農作業に備えて、耕地周辺の清掃目的がありました。 主に田圃の周りで行われて、畑作地ではあまりはなかったようです。
 晴天で乾燥の続いた静かな日に動員がかかり、耕作にかかわる組合員総出で焼きました。
 戦後に開拓された望地の水田ではこの畦を焼く他に堤防の萱(かや)を焼く仕事もあって、なかなか大変な作業だったのです。  
 人間の背丈よりも高く伸びている萱に火を付けると、恐ろしいほどの炎が上がって、とても側へは寄り付けません。その反対に田圃の畦道は細くて、枯れ草も小さいので、なかなか燃えてくれません。
 枯れた竹の先に付けた種火で手分けして火をつけてゆくのでしたが、多く生えている所から刈り集めたり、かき寄せたりして、残すことのないように燃やしました。
 一斉に火がつくと煙が渦まいて太陽を隠すようなこともあります。
 戦後になって食糧増産と農業の省力化のため、田圃の整備が進められ、畦道も用水路もコンクリートで固められて雑草のはびこる所は減ってきました。
 とはいっても、雑草は生えてくるので時期になればこの「畦焼き」はしなければなりません。
 畦を焼くという行為は、農耕(特に水田の米作り)に励む人々の長い年月から生まれた生活の知恵だったのでしょう。 青空に上がる「畦焼き」の白い煙は、春が来たといううれしい知らせでもあったのです。

頃合の  風の日和や  畦を焼く  幸男  

豪快に  焔の渦や   堤焼く  幸男


2月8日(日)に望地河原で畦焼きが行われました。

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊


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村の歳時記 -その33-


< 餅つき >


 12月も半ばを過ぎるとお正月の準備で忙しくなります。
 餅つきもその一つで、家の周りの掃除が済んだ25日過ぎから始めるものでもあって、あちらこちらから景気の良い杵の音が聞こえました。
 晴天の日を選んで朝早くからかまどに日をおこし、むしろで蒸したもち米を、臼と杵でつきつぶすと柔らかい餅が出来ました。
 杵で打つ人と臼の中の餅米が均等につぶれるように「てあし」と言われた介添えの人が必要で、息のあったコンビが大切でした。
 リズムが狂うと怪我につながるので、よほど注意が必要でした。出来上がるには杵を何百回と持ち上げなくてはならないので、かなりの重労働でした。
神様に上げるお供え餅(鏡餅ともいう)や、お正月の雑煮やお汁粉に使いましたが、手軽な保存食でもあったのです。
 餅つきの極め付きは、最後のひと臼で作る「あんころ餅」や「きな粉餅」で後片付けの終わったところで、家族一緒に食べるのでした。
また、田名では、米の収穫が期待できない土地柄から、もちあわを混ぜる方法もあって、 通称「いとこ」と呼ばれましたが、粘り気が少なく味もおちました。
 餅をつく日は暗黙に伝えられて、九のつく二十九日は嫌われ、干支の兎の日は、月の兎の伝説から避けていたようです。
 今では機械で餅を練るようになり、杵をつく音を聞くことはほとんど無くなりました。
相伝の  杵の重さよ  餅を搗く 幸男

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊


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村の歳時記 -その32-


< 夜なべ >


♪♪母さんが夜なべをして
 手袋編んでくれた
 木枯らし吹いて冷たかろうと
 せっせと編んだだよ♪♪
針仕事の道具

 という歌があります。やさしい母の愛情のこもった歌詞とメロディーが郷愁を誘います。この歌に出てくる「夜なべ」は懐かしい言葉ですが、今の時代には、なかなか感じられない情緒かもしれません。
 「夜なべ」という言葉を調べてみると、鍋で作った夜食を食べながら仕事をすること「夜鍋」すなわち「夜業」に通じるといされています。十月になると日が暮れるのが早い分、夜が長くなり、穏やかで過ごしやすい気候は、読書や仕事にもってこいの時期です。明るいうちは外仕事に手一杯ですが、夕食後の一時も貴重な時間を惜しむように「夜なべ」に励むのが昔の農家の生活でした。
 この歌の2番のように、お父は土間で藁(わら)を打ち、筵(むしろ)を敷いて縄を綯(な)い、草履を作り俵編や養蚕用のまぶし作りに励みました。それぞれの生活や、生活活動に必要なものは自分で作り、出費をおさえて自給自足に心掛けることが、家計につながったのです。
 また、お母は新しい着物を買うのは大変だったこともあって、家族の衣類などのほころびや破れを繕(つくろ)う針仕事に追われ忙しく夜を過ごしました。腹巻きや靴下などを編むのもまたお母の仕事でした。「夜なべ」というと「縄綯(な)い」「針仕事」を思い浮かべるほど親しまれた言葉ですが、反面貧しさの象徴のようなくらい感じも受けますが、昭和の始めのころの農家の生活に染み込んだ言葉なのです。
わら草履 鉄瓶に  湯気しゅんしゅんと  夜なべの灯  幸男

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊


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村の歳時記 -その31-


< 素人演芸会 >


 戦後のこれといった娯楽の無かった時代に、村の青年たちの作った演芸会がありました。地域のお祭の余興として催され、春は堀之内の蚕影山、9月には四ツ谷の石神社、葛輪の金比羅神社など、それぞれに趣向をこらして行われました。
 過去に経験したことのない敗戦という現実は、私たちの生活を混乱の渦に巻き込みました。食料の不足、犯罪の多発、やみ市の横行など、今では考えられない世相でした。
そんな中で生まれたひとつに、娯楽会と言われた青年たちの素人演芸会がありました。特別な娯楽もなかった田舎の若いエネルギー発散の目的と、地域の交流のための催しで始まったものと思いますが、近郷近在大変に流行しました。
 地区内の適当な広場を利用して仮設の舞台を作るのでしたが、青年たちだけでは手に余る作業でしたから、自治会に応援を求め、地区総出で各々が保有している丸太(屋根がえの時に使う杉やヒノキの長い棒)や厚板、戸板を借り集め、丸太を縄で結んで組み立てて舞台を作りますが、仮設とはいえ花道の付いた立派な踊り舞台でした。
 衣装や小道具は芝居の一座から借り受け、拡声装置は近くの電気屋さんに依頼するなど、当事者にとっては大変な作業でした。
そのころの素人演芸の主流は股旅物が多く、東海林太郎の「赤城の子守歌」などの赤城山シリーズ・田端義夫の「かえり船」などの船シリーズなどは人気がありました。しまの合羽を肩に掛け、一本刀を差し、三度笠をかざす姿は、若い女子青年の心をゆすぶったものです。しまのシャツでマドロス物を踊る女子青年も魅力でした。
 こうした青年たちの活躍は、暗い世相を跳ね除けていく希望を地域の人たちに与えてくれたのです。また、青年男女の社交の場となったことも否めないことで、多くのロマンスも生まれました。

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊



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村の歳時記 -その30-


< 置き薬 >


 越中富山の置き薬は、時の殿様が奨励して盛んになったと聞きますが、置き薬という商法は誰の発案なのか、お医者さんも少なく、近くに薬屋さんもなかった時代のことでしたから、頼りになる存在でした。
 毎年、春になると富山の薬屋さんがやってきました。薬の一杯入ってる柳行李を積み重ねた風呂敷包みを持って、契約している家を一軒一軒回り、かねてから配置してある家庭用常備薬の使用した数を確認して、補給して、使った分の代金を集めていくシステムで、「越中富山の薬屋さん」と言われ親しまれてきました。
 置いてある薬は多種多様とはいかず、熊の胆嚢(たんのう)を干して作ったという『熊の胆』(くまのい)。 江戸時代からの売薬といわれてる『赤玉』などの胃腸薬や、せき止め、熱さましの風邪薬。婦人用に産前産後の妙薬といわれた『実母散』(じつぼさん) 《この薬は現在でも使われているといわれています》などの煎じ薬。『六神丸』『救命丸』という気付け薬。肩こりや腰痛に効くといわれた『按摩膏』(あんまこう)という張り薬などと、漢方薬が主体でしたが、結構重宝なものでした。
 いくつも重ねた大きな行李をあがり框(かまち)に広げて、手際よく処理していく姿は、いかにも行商人らしく、お世辞も交えて子供たちには四角い紙風船をくれたりしながら、愛想よく商売をしていました。この風船に糸をつけて竹ざおに結び、たこのように遊んだこともありました。
西洋医学の驚異的な進歩によって次々と新薬が開発され、ドラッグストアの進出によって、これに押され最近まで回ってくれた富山の薬屋さんから廃業したという知らせが届いたことは淋しいことです。
 ちなみに、俳句の世界では5月5日を『薬の日』としていますが、昔はこの日に野山にでて薬草を採取したとされています。この日採った薬草は特に効き目があるとされたそうです。田名地区内にも薬草、草木がありますが、一般的な野菜、果物、魚介類なども薬として使用しました。
 昭和30年以前は、祖父母、両親が、子どもたちの体調が悪くなると、いろいろな漢方薬を作ってくれたのが思い出されます。 

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊



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村の歳時記 -その29-


< 小正月 >


 年が明けて元旦から三が日、七日を七草、十一日を鏡開きと、いろいろな大正月(当地では初正月と言いました)の行事が終えてやって来るのは『小正月』といいます。
 この時期は、農耕生活に関連する正月行事が多く見られ繭玉作り、餅花作りなど庶民の間の豊作祈願をはじめ、五穀(ごこく)の豊凶(ほうきょう)を占う筒粥(つつがゆ)の神事など地方によって様々でしたが、農業を基本とした形の行事をする所が多くあります。
 また『女正月』とも言われるように、この日は大正月の期間中に年始客などの接待に忙しかった女衆が、すべての家事から開放され休息を与えられる日でもありました。

 松とれて  世ごころ楽し 小正月   一茶
 芝居見に  妻出してやる 女正月   芳次郎

 十五日の朝ご飯に小豆粥(あずきがゆ)を作った時点で家事から開放されるのがしきたりで若い嫁さんはもちろんのこと、普段は実家へいくのも勝手に出来なかった嫁さんたちにも束の間の自由が与えられ実家帰りが許されて、泊まってくることも認められました。
 農家の嫁という封建的な社会構成の一人として表面に立つことを許されず、家事一切を取り仕切り労働力とも考えられていた女の人を、使用人に与えられていた十六日のやぶ入りと併せて休息を与え、精神的にも救うための農村独自の習わしだったのでしょう。

  ※粥占の神事とも言われて神社で一月十五日に小豆粥を作る時、細い青竹または茅を入れて炊き、その管に入った米粒または小豆の数によってその年の五穀の豊凶を占う神事で、各地の神社で行われています。

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊



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村の歳時記 -その28-


< 木の実ひろい >


♪静かな静かな里の秋  お背戸に木の実の  落ちる夜は
  ああ母さんとただ二人  栗の実  煮てます囲炉裏端♪


 懐かしい童謡の歌詞です。この歌に出てくるように秋になると、色々な木の実が落ちます。
 木の実を広辞苑で調べてみると、木に生る実または果実となっていますから、カキ(柿)もリンゴ(林檎)もみんな木の実と言えますが、イメージ的に木の実と言えばこれらは似合いません。
 俳句歳時記でも、果樹を除いた木の実とされており、さらに細分してくぬぎ(櫟)の実はどんぐり(団栗)という固有名があるし、なら(楢)の実、しい(椎)の実、かや(榧)の実などと細分して呼ばれているようです。
 かつてはこの時期、雑木林に入れば沢山拾うことも出来ましたが、開発によって減ってしまいました。拾ってきたくぬぎやならなどの実は、爪楊枝を刺してコマを作って回す競争をし、針金に刺してヤジロベーを作ったりして遊びました。
 ツバキ(椿)の実は髪の毛につける油が取れたし、茶の実は敷居に塗って滑りを良くしたりと、木の実を利用しましたが、ずっと昔の話です。
 銀杏(銀なん)とち(栃)の実のように食べられるものもありますが、ほとんどは渋くて食べられないようです。
 栗やくるみ(胡桃)は優等生でしょう。木の実を落とす雑木林は減ってしまいましたが、公園などに行けば拾うことも出来ます。沢山拾ってきてコマなどを作って静かな秋を楽しみましょう。

 よろこべば  しきりに落つる 木の実かな   風生
 木の実独楽  回して童べ   心かな     幸男

『協力 郷土懇話会』
平成  年  月 刊



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村の歳時記 -その27-


< まき取り >
 冬から春にかけてしなければならないことの一つにまき取りという大仕事がありました。
 石炭や石油、ガスなどが出現するまでは都会生活、田舎生活にかかわらず、炊事も暖房もすべてまきや木炭でした。
 煮炊きに*「へっつい」で燃やすまきは一日に一抱えは使うし、囲炉裏にもかなりの量を使いますから、年間では相当のまきを必要としたのです。
 田名地区は平地林が少なく、まきを取りに相模川を隔てた、 三栗山(葉山島や三増(みませ))まで行きました。
 山を所有する人は少なく、山持ちの地主さんにそれなりの代金を払うので、安くはない買物でした。
 まきを確保するため、暮れのうちから山に入り、なら楢やくぬぎ櫟などの落葉樹を伐採しました。
 伐採するのは山の中なので大八車やリヤカーの所までは、「やせ馬」と言われた背負いはしごで運び出すほかありませんでした。
(あの二宮金次郎の銅像を思い出して下さい。)
 背負いはしごで直接家まで運ぶ人もあって、滝地区と対岸の葉山島を結ぶ渡し舟は、重要な交通手段だったのです。
 冬の時期のことで、日は短く雪でも降れば山には入れず、3月ごろまでずれこむこともあって大変な作業だったのです。
 こうして運んだまきは細かく割って、まき小屋に積み込むのですが、まき小屋のない家では、納屋のひさしはもちろんのこと、母屋のひさしにまで積み上げて、その量に一種の豊かさを感じたものです。

 ※へっつい なべやかまを乗せて火をたき、煮炊きをする設備

『協力 郷土懇話会』
平成18年3月 刊


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7

 

村の歳時記 -その26-


< 草の花団子 >


 太陽が光を増してきて温かい南風が吹くようになると摘み草の季節です。
 この時期に摘む草には、せりやつくし、よもぎなどのほか変わったものにつばな(つばね)などがありますが、代表的なものはやはりよもぎでしょう。
 よもぎは山野に自生する雑草のひとつですが、田名では「草の花」とも呼ばれていたように、白い綿毛の生えたそれこそ花のようにかわいい草でした。
 昔から私たちの生活の中に取り入れられて、春先によもぎの新芽を摘んでは、団子や餅に混ぜて食べました。
 畑作地帯でもち米の収穫の乏しかった田名では、おかぼのうるち米で作る団子が主でした。「しんこ」と言われた米の粉によもぎをまぜこみ小豆あんを包んで丸めたり、柏餅のようにふたつに包んだもので柔らかく、よもぎの匂いがして、草の花団子は、本当に春を思わせるものでした。4月8日のお釈迦様祭のころ、仏さまに供えた団子の青かったのが思い出されます。
 今は保存技術が進んで、一年中食べられますが、春が来たと実感出来る三月から四月初めが本当の旬と言えるでしょう。

手作りの  不揃いもよし  草団子   幸  男

よもぎの葉草の花団子


『協力 郷土懇話会』
平成17年3月 刊


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村の歳時記 -その25-


< 干し柿つくり >


 晩秋から初冬へかけての景色の彩りに、柿や柚子がありますが、柿はこの時期の代表的な果物です。澄みきった青空に浮かぶ柿の色のうつくしさは最高と言えるでしょう。
 柿は、中国を原産地とする東南アジア固有の果樹と言われ、何種類かあり、形も大きさもまちまちです。中には渋くてとてもそのままでは食べられない柿もあります。
 先人の知恵でいつの頃からか、この渋い柿を干して甘くするという方法が考えられ、甘い柿とは違った味を楽しむことができるようになりました。
 気温が下がり空気も乾燥する頃になると、この干柿作りが始まりました。
皮をむいた柿を細く割った竹串に刺し、日当りが良く雨の当らない物置のひさしや軒先に吊しておくと一ヶ月程で食べられるようになります。
 思い出に残っていることの 一つに、柿をさす割竹になぜか古びた番傘の骨を使っていましたが、一種の廃物利用だったのでしょうか?……。
   出来上がった干柿は、少し固いという難はありましたが、暮から正月にかけてのご馳走として重宝されました。
 むいた皮は干して、子どものおやつにしたり、漬物に加えると、ほどほどの甘味のある味の良い沢庵漬けや白菜づけができました。
 また、渋柿の実を絞った液は耐水・防虫効果があり水桶、和紙、天井板などに古くから使われて来ました。

  午後の陽の  廂(ひさし)に乾く  吊し柿      幸 男
  柿干して    山裾に富む    門構       幸 男

干し柿つくり1干し柿つくり2

『協力 郷土懇話会』
平成16年12月 刊


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村の歳時記 −その24−


< 桑の実(ドドメ)>


 田名で盛んだった養蚕に使われた桑の木は、30年ほど前までは地区内いたるところに植えられていました。
 この桑の木は、クワ科の落葉樹で、雌雄があり、雌の木に実がなります。実は最初白色で除々にピンクになり熟して赤紫色になると食べられます。学校の帰り道友達とよくとってオヤツがわりに食べました。
 口の中が紫色になり、食べたことがすぐに親に分かってしまい「沢山食べるとお腹をこわすと」怒られたものです。
 5月31日朝のNHKの生活ホットモーニングによると、桑の実は糖尿病の血糖値を抑え、血圧の安定などに良いとされ若葉を天ぷらや、おかゆに入れたり、またゴマ和えなどにも同じ働きがあって体に良いということを言っていました。
 古木から作る箸は最高級品といわれ、皮は布に加工したり、紙の原料にも出来ます。
 古木が枯れると秋には、キノコが出てこれがまた絶品!期間が10日間位いと短いうえ出る場所が限られているので,なかなか食べることが出来ません。あまりの美味しさにきのこの取れる場所は絶対に他の人には教えないそうです。

桑の実を  食うは鳩と   山童子(わらし)  保彦
桑の実を  食うべ少女の 日にかえり    康子

桑の実

<桑の実>

『協力 郷土懇話会』
平成16年8月 刊



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村の歳時記 −その23−


< 餅アラレ >


 忘れられないおやつに餅アラレがあります。
田名では通常年2回の餅つきが行われました。お正月と3月3日の雛祭り用です。お正月にはお供え餅、雛祭りには白、赤、緑の3色の菱餅を作りました。 菱形に切ると餅に半端が出来、それをさいの目に切って日陰で10日位干すとアラレが出来ます。
 正月用の餅でもアラレは作りましたが、菱餅のほうが3色で綺麗なので人気がありました。 よく干すと保存も出来たので、春から夏頃まで子供達には最高の「おやつ」でした。
学校から帰ると母親が囲炉裏で焙烙(ほうろく)を使いアラレを炒ってくれたのが思い出されます。
炒ったものをそのまま食べる事が多かったのですが、醤油、砂糖等をまぶしたり、油で揚げればさらにおいしくなりました。
 雛祭りの頃になると当時の事が懐かしく思い出されます。
※焙烙(ほうろく)・・・食品を炒ったり、むしやきをするのに使う鍋

餅あられ


『協力 郷土懇話会』
平成16年3月 刊 

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村の歳時記 −その22−


< さつまダンゴ >


 昔のおやつもいろいろありますが、その中で特に思い出されるのが「さつまダンゴ」です。秋に収穫したさつま芋を水洗いし、それを5mmくらいの薄切りにして、5〜7日程天日干しにします。
 当時は、多量に作ったので、専用の切干し用の道具がありました。干し上がるとそれだけでも、当分は保存出来ますが、それを石うすで挽き、粉にしたものはさらに長持ちがしました。
   粉を水で溶き、やや堅めに練り25分程蒸すとダンゴが出来上がります。小麦粉を多少入れたり、塩を少々加えたりすれば更にねばりと味のあるものが出来ます。
 農作業の忙しい中、急いで作るので、ていねいに丸めている時間などなく、指の跡が残ったダンゴの出来上がりです。面白いのは、白っぽい粉で作ったものが、何故か蒸すと黒いダンゴとなることで、今でも、それを知る人達の間では語り草となっています。 (何故そうなるかわかりません。お分かりの方はお知らせください。)砂糖がなかなか手に入らない時代に甘味がありおやつとしては、なかなかの傑作でした。
 田名地区の特産物のさつま芋で粉にしておけば保存が出来て、いつでも使えるので大変便利でした。
忘れられない「おやつ」の一つです。>

『協力 郷土懇話会』
平成15年12月 刊 

さつまダンゴ1
△原料から完成品へ

さつまダンゴ2
△黒く蒸しあがったさつまダンゴ

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村の歳時記 -その21-


< 石垣ダンゴ >


 昭和30年代まで、田名で良く作られたおやつに焼きもち(3号で紹介)さつまダンゴ、石垣ダンゴなどがあります。なかでも、田名の特産物だったサツマイモ、小麦粉を利用した石垣ダンゴは、砂糖の貴重な時代にサツマイモの甘さを利用したのと、小麦粉も節約できたので、どこの家庭でもよく作りました。
 サツマイモはさいの目(1〜2cm四方位)に切り、小麦粉に塩少々、重曹又はイ−スト菌を入れ水でやや堅めに練ります。そこにサツマイモを入れて拳(こぶし)ぐらいの大きさに丸め、20分ほどせいろう蒸籠で蒸すと出来上がりです。
蒸し上がりのサツマイモが丁度石垣のように見えるところから、「石垣ダンゴ」と呼ばれました。 子どもの頃、学校から帰って食べるのをとても楽しみにしていたことや、「おこじゅう(おやつ)」として大人たちも好んで食べていたのが思い出されます。
飽食の時代に昔の素朴なおやつを、お試しになってはいかがでしょうか。

☆ポイント  重曹の匂いは酢を少々加えると気にならなくなります。

『協力:郷土懇話会』
平成15年10月 刊


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