村の歳時記 -その43-
< グウグウ(牛蛙)捕り>
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昭利20年前後、現在の田名テラスから塩田に至る田んぼや八瀬川沿いのワサビ田、用水堀などにグウグウは沢山いました。食糧難の時代にこの食用蛙は最高の蛋白源の捕給で、5〜10月頃まで子供達は昼夜にそれを競って捕りに行きました。昼間は穴や草木の中に潜み夜になると水辺を歩いていました。牛蛙は鳴き声がグウグウと牛に似ているので牛蛙といわれたそうです。 大正7年に北米より輸入し、それがやがて日本全国に広がったといわれています。田名では昭和18年頃より繁殖して赤蛙と共に食用にしました。 味は鶏肉やスッポンに似て栄養価がありスープ、フライ又は焼いたりして食べました。 黒褐色の斑紋があり、雄は暗緑色で体長は20センチ程あります。6〜7月頃産卵してオタマジャクシのまま越年するので10センチ程になり通常の蛙とは異なります。 今では環境の変化により、赤蛙のみ見かけますが、田名でもこんな時があったのが懐かしく思い出されます。 |
『協力 郷土懇話会』
平成25年 5月 刊
村の歳時記 -その42-
< 田名に来ていた行商>
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田名地区の「行商」は、昭和30年代までが主でした。当時の田名は農家が多く、商店は上田名に数軒で、買い物は水郷田名か上溝が中心でした。それ以外は行商に頼っていました。 行商の歴史は古く、大化の改新(645年)以前の第29代欽明天皇(539〜571)の時代にはじまり、江戸時代がピークと言われています。 行商ではいろいろなものを売りに来ました。食料品(主に魚)、衣類、薬、豆腐、座敷ほうき、戦後はキャンディ等々。又、ほしい品物を注文すれば次回には持ってきてくれました。特に農繁期には買い物に出る時間もなくほとんど行商に頼っていました。 自転車での行商は主に鮮魚や豆腐類、リヤカーを自転車で引いての行商は昆布や干物、鰹節などのすぐには腐敗しないものが多かったようです。リヤカーの場合は、道路に止めて隣近所皆に声をかけてその場で商売です。衣類は風呂敷にいっぱい入れて背負ってきて、家の座敷に広げては、隣近所に知らせ皆で品定めその場で商売をし、また夕方売れ残りがあるとその家に預けておき、翌日取りに来ました。そしてまた商売です。今となればのどかな風景です。 戦中戦後の一時期には、農家の生産物との物々交換も盛んに行われていましたが、これも懐かしい思い出です。 その他鍋釜の修理をする鋳掛(いかけ)や、番傘の修理など当時は一度購入すると、ほとんど修理をして一生使うこころづもりでしたから、年配者はいまでも物を捨てない人が多いのだと思います。 昭和40年代には短期間ですが、車による行商も行われていましたが、田名でも徐々に店舗行商に移行していきました。 今はスーパーやコンビニ等もあり便利な世の中となりました。 時には昔が懐かしく行商に来た人たちの顔や話し方などが今でも思い出されます。 |
『協力 郷土懇話会』
平成24年11月 刊
村の歳時記 -その41-
< 田名の水田開発と米作り>
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田名の水田開発は久所、上田名耕地、望地水田の3か所で行われました。 江戸時代後期・久所地区の江成久兵衛による水田作りは洪水と取水用トンネルの掘削(540m)を経て開発。 また、昭和12年に完成した上田名耕地整理事業(25町歩)はドブ田と言われた場所での暗渠(あんきょ)排水設備の設置に大変な苦労がありました。 望地水田は安政3年(1856)に中島万平により水田開発が始まり、万延元年(1860)に一部完成しましたが洪水により流出。昭和22年から再度水田開発が始まり、昭和29年に完成。望地水田は河原の水田開発なので、土を入れる作業や堤防作りなど苦労の連続でした。田植えはすべて一株ずつ穴を掘って植え、石で押える手作業でした。 当初収穫量は少なく一反当たり1〜2俵位でしたがそれでも皆大喜びで美味しい田米だと言って食べました。 陸稲が主だった田名は3か所の水田により、相模原でも屈指の米の収穫ができるようになりました。 今は休耕田を利用して昔の方法で水田体験学習での米作り、酒米用としての耕作などおこなっています。 それら田作りの中で、先人たちの苦労や米作りの大変さが多少でも解っていただければと思います。 |
『協力 郷土懇話会』
平成24年8月 刊
村の歳時記 -その40-
< 節分と害虫の口焼き>
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節分は本来季節の変わり目に年4回あるのですが、特に春の節分が重んじられる様になりました。冬から春への境として【注】物忌みに籠もったのが本来の行事だったといわれています。 この行事は追儺(ついな)といって平安時代の宮中で大晦日の夜に悪鬼を払い疫病を除く儀式でした。それが7世紀頃民間に伝わり、近世に節分の行事となったといわれています。 立春になると、「福は内、鬼は外」と言いながら豆をまきます。まいた豆を歳の数だけ拾って食べたり、残った豆をお茶に入れて福茶として家族で飲んだりします。また、鰯の頭をヒイラギの小枝に刺して戸口にさし、いり豆をまいて悪疫退散、招福の行事を行なう風習が今もあります。 田名では、むかし節分の日に「害虫の口焼き」といって鰯の頭5匹を大豆の茎に刺して囲炉裏であぶり「桑虫葉虫その他害虫の口焼き」と早口で言いながら、ペッペッと唾をかけ、それをまた焼いて同じことを何度も繰り返しました。鰯を害虫に、豆の茎を作物に見立て休んではまた繰り返し行ない、最後には囲炉裏で燃やしてしまいました。親が早口で言うので何を言っているのか分からず大人になってようやく分かりました。 作物の豊作祈願と害虫から守るために行なったのですが、今のように消毒などしない時代には本当に真剣でした。 今では、囲炉裏も無くなり、懐かしい行事となってしまいました。(この行事は、田名地区内でも家庭によって多少の違いがあったようです。) 【注】物忌み(ものいみ)⇒ある期間飲食行為をつつしみ、身体を浄め不浄をさける事。 |
『協力 郷土懇話会』
平成24年 2月 刊
村の歳時記 -その39-
< 蚊 帳(かや)>
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蚊帳の歴史は古く奈良時代(710〜784)に作られた日本書紀に記録されているほどで、中国から伝来したと言われています。一般庶民が使用したのは江戸時代からでした。 蚊帳は蚊を防ぐ寝具で、目の粗い麻や木綿などで作り、虫は通さず風を通す利点があり、6〜8畳の部屋いっぱいに四隅(大きいものは6箇所)を吊って覆います。 昭和30年代までの田名は農家が多く、様々な作物を作っていましたが、農閑期になると養蚕を通常年3〜4回は行なっていました。特に、夏に飼育する夏蚕(なつご)の時は、 母屋がいっぱいになるほど蚕(かいこ)を飼育し、昼夜を問わず雨戸や障子を開けっ放しにしていたので、当然蚊の出入が多く、蚊帳は無くてはならないものでした。 蚊帳に入るとその独特の麻の香りがありました。また、雷が鳴り、稲光(いなびかり)がひどい時には蚊帳を吊り、その中で線香をたき雷が過ぎるのを待っていました。 子どもの頃「この中に入っていれば雷は落ちないよ」と良く母親に言われたものです。また、一人用の蚊帳は、主に赤ちゃん用で、手軽に折り畳みができ、便利で時にはに大人の昼寝にも使用しました。 生活環境の変化、殺虫剤や下水の普及による蚊の減少、機密性の高いアルミサッシの普及に伴う網戸の採用、空調設備の普及により昭和後期以降は殆ど使われなくなりました。 しかし、最近エコロジーや節電対策、薬品アレルギーなどで見直されているようです。 |
『協力 郷土懇話会』
平成 年 月 刊
村の歳時記 -その38-
< 地鎮(神)講(じちんこう)>
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田名地区では、江戸時代からいろいろな講中が行われてきました。お伊勢講、稲荷講、二十三夜講、二十六夜講、地鎮(神)講などです。その中の一つ地鎮(神)講は半在家では今も行われています。 その目的は「農民が相寄り農家の守護神である地鎮様をご本尊として、春秋に豊作物の豊穣を祈り、近隣和合して農家の生活向上・共存共栄の実を上げる」と過去帳に記されています。 明治十九年の二十三夜講、同時代二十六夜講の参加者名等が、掛け軸と共に大切に保存されています。過去帳には、昭和二十六年再開当時の様子、当番を各戸順にして米三合・会費百円を集め酒三升・豆腐三丁で飲食したと記録されています。地鎮講が行われて来た状況が五十四年間にわたり記録されていてその時々の様子が良くわかります。 昭和二十年前後の戦争や食料難によって中断していましたが、半在家では、生活もある程度安定した昭和二十六年に、十二戸が相談して地鎮講を再開しました。その時に、地鎮様の掛け軸を作り、以前からあった二十三夜講の掛け軸と共に飾り、お香をたき、収穫物を供えて五穀豊穣を祈りました。昭和六十二年までは、各戸や自治会館で行っていましたが、その後は、会費を集め食事処で秋一回家内安全と健康を祈りながら、年間の出来事や家族の様子などの話しで楽しいひとときを過ごしています。 当時の目的が今とは大分変り、田名地区で行われてきた講がほとんどなくなってしまいました。これも時代の変遷かと残念に思います。 |
『協力 郷土懇話会』
平成 年 月 刊
村の歳時記 -その37
< 臼(うす)>
『協力 郷土懇話会』
平成 年 月 刊
村の歳時記 -その36-
< 火の番(夜回り)>
『協力 郷土懇話会』
平成 年 月 刊
村の歳時記 -その35-
< 秋まつり >
へき易とした残暑もようやく和らいで、涼しい風が吹くようになると、八幡様の秋のお祭の日がやってきます。
『協力 郷土懇話会』
平成 年 月 刊
村の歳時記 -その34-
< 畦焼き(あぜやき)>
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早春の仕事の一つに「畦やき」という作業がありました。 冬枯れの田圃(たんぼ)の畦道や用水堀の土手などにはびこった雑草を焼くことで、潜んでいる害虫の駆除を目的とし、草むらに産み付けられている卵などを焼いてしまうこと、また、春の農作業に備えて、耕地周辺の清掃目的がありました。 主に田圃の周りで行われて、畑作地ではあまりはなかったようです。 晴天で乾燥の続いた静かな日に動員がかかり、耕作にかかわる組合員総出で焼きました。 戦後に開拓された望地の水田ではこの畦を焼く他に堤防の萱(かや)を焼く仕事もあって、なかなか大変な作業だったのです。 |
頃合の 風の日和や 畦を焼く 幸男
豪快に 焔の渦や 堤焼く 幸男
『協力 郷土懇話会』
平成 年 月 刊
村の歳時記 -その33-
< 餅つき >
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12月も半ばを過ぎるとお正月の準備で忙しくなります。 餅つきもその一つで、家の周りの掃除が済んだ25日過ぎから始めるものでもあって、あちらこちらから景気の良い杵の音が聞こえました。 晴天の日を選んで朝早くからかまどに日をおこし、むしろで蒸したもち米を、臼と杵でつきつぶすと柔らかい餅が出来ました。 杵で打つ人と臼の中の餅米が均等につぶれるように「てあし」と言われた介添えの人が必要で、息のあったコンビが大切でした。 リズムが狂うと怪我につながるので、よほど注意が必要でした。出来上がるには杵を何百回と持ち上げなくてはならないので、かなりの重労働でした。 |
神様に上げるお供え餅(鏡餅ともいう)や、お正月の雑煮やお汁粉に使いましたが、手軽な保存食でもあったのです。 餅つきの極め付きは、最後のひと臼で作る「あんころ餅」や「きな粉餅」で後片付けの終わったところで、家族一緒に食べるのでした。 また、田名では、米の収穫が期待できない土地柄から、もちあわを混ぜる方法もあって、 通称「いとこ」と呼ばれましたが、粘り気が少なく味もおちました。 餅をつく日は暗黙に伝えられて、九のつく二十九日は嫌われ、干支の兎の日は、月の兎の伝説から避けていたようです。 今では機械で餅を練るようになり、杵をつく音を聞くことはほとんど無くなりました。 |
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『協力 郷土懇話会』
平成 年 月 刊
村の歳時記 -その32-
< 夜なべ >
♪♪母さんが夜なべをして 手袋編んでくれた 木枯らし吹いて冷たかろうと せっせと編んだだよ♪♪ |
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