村の歳時記 -その20--


< 焼きもち >

 昭和35年ごろまで、子どもたちのおやつ(*おこじゅう)によく作られたのが「焼きもち」でした。これは餅を焼いたものではなく、小麦粉を主にして作ったものです。
 相模原は畑作中心だったので小麦の生産が多く、サツマ芋と同様に主力の農産物でした。食糧難時代にはこの小麦粉を利用して、色々な加工品を作りました。うどん、酒まんじゅうなどは今でも作られています。
 当時の子どもたちのおやつの中で高級品だったのが焼きもちでした。小麦粉、重曹、砂糖、塩、卵等を入れて水を加えながら、とろとろになるまでよく混ぜます。それを囲炉裏(いろり)にかけた焙焙(*ほうろく)に油を少々敷いて流し入れます。小サジー杯程度のゴマを振りかけます。フタをして弱火で5分ほどしたら、反対にして更に5分焼きます。少し焦げ目が付けば出来上がりです。
色や形は今のホットケーキに良く似ています。砂糖の無い時代はサッカリンや味噌等を入れました。家によって味に工夫をし、焼きもち作りの名人と言われたりしました。冷たくなった焼きもちは、囲炉裏の中の鉄器に乗せて焼いて食べました。表面がカリッとして香ばしくとてもおいしいものでした。
 3月の三色餅のアラレと共に当時のおやつとして、今でも懐かしく思い出されます。

*おこじゅう・:田名や大沢地区などで使った言葉で、食間に食べたおやつのこと。主に3時ころのおやつ
*焙焙・:食品をいったり、むしやきをするのに使う鍋
      

『協力:郷土懇話会』
平成15年3月 刊

 

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村の歳時記 -その19--


< すすはき(大掃除)>

 昭和35年ころの話です。12月も半ばを過ぎると田名の各農家では暮れのすすはきを必ず行っていました。
 田名で盛んだった養蚕は、春から秋まで数回繰り返し飼育をしました。そのほとんどが家の中で棚といわれる2階(中棚)、3階大棚)で行っていたので、蚕から出る塵(ちり)と囲炉裏(いろり)で燃やす灰などが棚一杯に積もるほどでした。ですから暮れのすすはきはお正月を迎える前には、欠かせなかったのです。
 天気の良い日を選び早朝より家の中の物全てを外に出し、建具や畳を上げ(家によっては蚕を室内で飼うため春から畳を敷かなかった)天日干しをしました。
食器などは全て洗剤の代わりに灰をつけて洗いました。すすはきの準備ができるとホコリが外に出ないように雨戸を閉め破風(*はふ)だけを開けておきます。ホコリだらけになるので、頭から顔まですっぽり手ぬぐいでおおいます。大棚は長めの竹で、中棚は短いものを使い、大棚から下にすすはきをして行きます。すすはきは午後までかかり柱、床などの拭き掃除と一日では終らないほど大変でした。
掃除が済むと建具をいれ畳を敷き終わると「ああ正月が来る」と感じたのでした。きれいになった室内(土間)で餅をつきお飾りを作り終えると、ますます正月を迎える気分になったものでした。
 今では囲炉裏もないし、それに掃除機で吸い取るのでホコリもたたず、すすはきの必要もなくなりましたが、一年の区切りとして暮れの大掃除をして正月を迎える家もあるようです。

*破風・:切妻(きりつま)の屋根に八の字になっている板で、風の出入り口のこと
      

『協力:郷土懇話会』
平成14年12月 刊


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村の歳時記 -その18--


< 桑の木の皮はぎ >

 明治、大正、昭和と相模原全域、特に田名は養蚕が盛んでした。半原、八王子、上溝方面から横浜港、そして海外へと生糸の輸出は日本全国はもとより、田名地域の経済も潤っていました。
 ところが、度重なる戦争により世の中は不況の時代を迎えます。 物不足の中で考えられたのが、桑の木の皮を利用して作られた軍服、背嚢(*はいのう)、カバン、脚半(*きゃはん)などでした。(戦前から作られていたが、昭和17〜19年ころが最も盛んであった)その皮はぎは主に子どもたちの役割で、学校全員で作業をしたり、夏休みの宿題として、各自に割り当てられたりしました。
 皮はぎは2本の杭を立て、その間に桑の枝を通して引き抜くと簡単にはぐことができます。春から秋まで、桑の皮を乾燥させるため、農家の軒先に吊してあるのがよくみられました。
 こうして乾燥した桑の皮を学校に持ちよりそれらは業者に引き取られましたそして加工製品化したものが、配給されました。服は、麻製品と比べるとごわごわと堅くて不評でしたがカバンなどは丈夫で利用価値はあったと思います。
 養蚕の盛んな土地柄だからこそ考え出された桑の木の利用方法も知つている人は今では少なくなってしまいました。
      

『協力:郷土懇話会』
平成14年8月 刊


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村の歳時記 -その17--


< 麦の手入れ >

 前の年の秋に蒔いた大麦や小麦も冬の寒さに耐え抜いて、4月になるとぐんぐんと伸びて50センチぐらいになります。
 比較的成長の早い早生(わせ)種の大麦は、5月の初めには穂も出てきます。
 このころは、麦の手入れの忙しい時期で、一番耕(ごう)・二番耕というそれぞれに違った方法で中耕(ちゅうこう)が行われました。
 この中耕という作業は、麦の畝間(うねま)を耕して土の中の空気の流れを良くすることによって根の発達を促し、穂の充実を図る一番耕と、後作として作付けする陸稲やさつまいものための地ごしらえの二番耕とで、鍬やレーキという道具を使って行われました。昔は主食だった小麦も最近は加工され、手打ちうどんや酒まんじゅうなどに使われています。
 一番耕は畝間を柔らかくするために、鍬を大きく振り、斜めに打ち込むのでなかなか力のいる作業でした。
 二番耕は土寄せと言われたように、麦の根元に土を寄せて倒伏を防ぐことと同時に後作準備のために土を細かくするのも目的でした。
 こうして目的の違う作業に合わせて、鍬を使いこなすことのできる人が、一人前といわれた時代もありました。 夏作のさつまいもと並んで農家の大きな収入源でしたから、一粒でも多く収穫できるように一生懸命でした。
 広々として青い麦畑の中で、雲雀(ひばり)の声を聞きながら働くこともなかなか楽しいことでした。

風たてば  風に従ふ    麦の丈   桑条 
青麦の   吹かれる丈を  揃えけり  桑条。
      

『協力:郷土懇話会』
平成14年5月 刊


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村の歳時記 -その16--


< さつまいもの苗床づくり >

 太陽が輝きを増し、暖かい南風が吹くようになると苗床づくり(温床)が始まります。
 地域の特産品として農家の大きな収人源となっていたさつまいもの苗づくりは手のかかる仕事で、読んで字のごとく床そのものを暖かくしなければなりませんから、材料を用意するのにも暮れのうちから始めました。
 3月半ばころ、庭の適当な位置に必要な広さを決めて木杭を打ち込み、竹を結(ゆ)わきつけた枠に麦わらを並べ、細竹でおさえて外形を作ります。
 温床の原理は有機物の発行熱を利用するものですから、醸熱材として落ち葉や稲わらなどを敷き込みます。発酵を促す米ぬかや人糞尿をかけながら何層か重ね最上部には完熱した堆肥(たいひ)や肥えた上を敷いて出来上がりでした。
 1週間も経つと発酵が始まって熱が出ますから種いもを伏せ込み、わらなどを掛けておくと芽が出てきます。これでいも苗づくりは成功でした。
 発酵が悪く温度が低いと発芽が悪く、高温過ぎると種いもが腐ってしまうので、この床づくりは経験とカンを頼りの難しい仕事でした。
 こうして出来た苗は5月の末ころまで育てて畑に植えつけられました。こうした苗床の作り方は、昭和30年代ころまで行われていました。
      

『協力:郷土懇話会』
平成14年3月 刊


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村の歳時記 -その15--


< 恵比寿講 >

 七福神といわれる神様のひとつとして知られている恵比寿様のお祭りは、1月20日(ところによっては10日)に行われます。この恵比寿様という神様は烏帽子(えぼし)をかぶり、釣竿を担いで大きな鯛を抱えた姿が絵や像になってるように、もともとは海上安全、豊漁の神様としてあがめられ、一方では商売繁盛の神様として商家の信仰を集めてきました。また、農村部では田畑の神様として豊作を祈願してきたようです。
 作物の出来がよければそれだけ懐具合も良くなるわけですから、それぞれの信仰はあつく経済の神様として、同じ福の神の大黒様と一緒に、家庭の台所などに作った神棚に祭られてきました。
 当地方の恵比寿講は、1月20日が普通で座敷に祭壇を作り、お神酒(みき)と、大福帳(収支の帳簿)、算盤(そろばん)、筆・すずりなどを並べ、小豆御飯に尾頭付きの鯛を供えてお祭りをしました。また、この日は出費を控えるように心掛けたそうです。
 普通は1月20日と収穫の終った秋に行われましたが、新年早々の恵比寿講は豊作、豊漁、商売繁昌を祈願し、秋にはそのお礼の意味もあったようです。
      

『協力:郷土懇話会』
平成14年1月 刊


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村の歳時記 -その14--


< お盆 >

 祖先の霊をお迎えして供養をするという盆の行事は、仏教を信仰する人たちが伝えてきた習慣です。
 都会では7月15日を中心とし、地方によっては月遅れの8月15日が一般的なようです。 8月に盆行事をするのは田舎だと笑われたこともありましたが、農村では稲の草取りも終え、畑の作物の手人れも済み、夏のお蚕も終ったこの時期が最適だったようです。また暑さの厳しい時期の休息という意味もあり、八月になったのだと思います。薮(やぶ)入りと言われて商家や農家の奉公人にも休暇が出ました。
 盆の行事は地域や家によってさまざまでしたが、基本的には13日に盆棚を飾り、迎え火をたいてご先祖様の霊を迎えることから始まります。
 座敷に飾った盆棚には13仏(仏・菩薩等の描かれた掛軸)を掛け、その前に個人の位牌を並べ、時期のものとして収穫されたスイカ・トマトなどの野菜や果物をお供えし、茄子(なす)や胡瓜(きゅうり)の馬や生花、盆花と言われた蓮(はす)の造花などを飾りました。
 縁側には提灯(多くは岐阜提灯)をつるなどして、用意の整ったところで迎え火をたきました。屋敷内にお墓のある家ではお墓で、そうでない家は門口などでたきましたが、俳句でいわれる門火とはこの様子なのでしょう。
 広辞苑では麻幹(おがら)(麻の皮をはいだ茎)をたくとされていますが、このあたりでは麦藁(むぎわら)を燃やしました。
 お盆の期間中には分家したり、嫁いだ人たちが集まって思い出話に故人を忍ぶのでした。また、棚経といって檀那寺のお坊さんがお経を上げに回ってきてくれました。
 新仏のある家ではこれらのほか、さらに特別な供養をするのでした。

四肢(よつあし)を ふんばって   茄子の馬  桑条
一人暮らし    なれば一人で  門火焚く  桂太郎
      

『協力:郷土懇話会』
平成13年8月 刊


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村の歳時記 -その13--


< 梅干づくり >

 6月になると梅干づくりの味期です。
 梅の実を漬けて保存食とする日本人の生活にあったことから、大いに発展してきた食品といえるでしょう。
 普通は塩漬けにしてから赤紫蘇の葉を加えて染めあげ、天日に干した梅干が主流ですが、その他に焼酎に漬けて作る梅酒とか、砂糖漬けなどに加工して保存する方法が伝えられてきました。
 漬け方にしてもそれぞれの家の秘伝のようなものがあって、塩加減によって微妙な味の違いもあったようです。
 塩漬けにした汁は梅酢といって食あたりに、梅干の黒焼きは風邪薬に、梅肉のエキスは腹痛に効果があると言われるように、元来は薬として利用するため、原産地の中国から伝えられたもので、いくつかの種類があるようです。
 日の丸弁当という言葉は懐かしいものの一つですが、戦争のため食料が不足していたころ、四角の弁当箱の真ん中に梅干をのせると、日の丸の旗のように見えることから付けられた面白い呼び方です。
 梅干婆という悪い表現もありますが、じっくりと貯蔵した梅干は塩も馴染んだ良い味になり、年輪を重ねたほめ言葉と解釈すればよいでしょう。

塩吹きし  ひね梅干を   珍重す    桑条
もぎためて ずしりと重き  実梅かな   風生
      

『協力:郷土懇話会』
平成13年6月 刊


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村の歳時記 -その12--


< 端午の節句 >

 山も野原も縁に包まれて、風薫るころになると、あちこちに高いのぼり竿が立ち大きな鯉のぼりが泳ぐようになります。
 男の子の成長を祈りお祝いをする端午の節句の光景です。
 特に初節句の子のいる家では、4月の早い時期から競って鯉のぼりをあげるのが通例となっていたようで、五色の吹き流しとともに初夏の風をうけて泳ぐのが見られました。
 昭和の初めころまでは武者のぼりという勇ましい武者絵の旗をあげる家もありました。座敷には金太郎や鐘馗(しょうき)様の人形を飾りました。
 この時期には、南の風が一定して吹くので、一部の家ではお祝いの凧もあげられました。
 お祝いをもらった親戚には、『かさご』と呼ばれた魚の干物と『柏餅』を添えてお返しに歩き、家ではお祝いをして、男の子の健やかな成長を祈るのでした。

お坐りが  出来て端午の  主役かな
祝ひ凧   端午の風を   よろこべる      桑条
      

『協力:郷土懇話会』
平成13年5月 刊


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村の歳時記 -その11--


< 麦ふみ >

 戦後の食糧難は田名地区でも例外ではありませんでした。二毛作の裏作として麦作りは盛んに行われていました。
 麦には大麦、小麦があり大麦は西アジア地方が原産とされI〜3世紀頃渡来栽培、米の収穫の少ない田名では米と混ぜて栗(あわ)と共に、主食としていました。
 一方小麦も歴史は古く稲と同じころ渡来したとされ、味噌、醤油の原料、うどん、酒まんじゅう、水団(すいとん)、焼きもちなど用途は多くありました。
 この麦の増産のため、冬の間の重要な仕事として、12〜2月ころまで2〜3回麦踏みが行われました。これは麦の伸び過ぎを押さえ、根張りをよくして霜から麦を守る役目をするのです。人々が手を後に組み一株ずつ麦を踏む光景がよく見られたものです。
 最近は麦の作付けはほとんどなく、したがって麦踏みも見られなくなりましたが、昭和20年前後、田名では学校の生徒全員で、横一列になり、麦踏みをしたこともありました。
 学校では、麦の取り入れ(6月)と稲の収穫期(10月)には農繁休暇があり、子どもたちは家の手伝いをし、農家でない人たちは農家に手伝いにも行きました。
 現在も内水田の3ヘクタール余りの麦作が見られますが、50年前より気温の上昇、種まきの時期、品質改良などにより麦踏みは行われなくなったようです。
 「山の懐の段々畑、麦踏みながら見た雲は、あれは浮雲流れ雲、一畝(ひとうね)踏んで振り向けば……」というラジオの歌謡がヒットしたように田名でものどかな麦踏の光景が良く見られたものです。
      

『協力:郷土懇話会』
平成13年2月 刊


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