村の歳時記 -その10--


< 大根引く >

 師走の声を聞くと大根のおいしい季節になります。
 私たちの日常の食土活にはいろいろな野菜が使われていますが、根葉、葉菜、果菜などに大別されます。
 土の中に育つ根葉には人参やゴボウなどがありますが、代表格はやはり大根でしょう。真っ白な根の部分はもちろんのこと、葉まで食べられる万能野菜で、野菜の優等土といえると思います。
 この大根のルーツはコーカサスなどが原産地とされていて、中国で分化発達し、10世紀ころ日本に伝来したと言われます。
 日本人の食土活に合う野菜として改良され、目的にあった多数の品種が作り出されました。大きな球形の桜島大根、細長い守口大根、春先に出回る三浦大根、たくあんに適している練馬大根は有名です。最近ではさらに改良されて青首大根などに人気があるようです。
 大根はいろいろな調理方法がありますが、「おでん」や「ふろふき大根」など煮物にしたり、「たくあん」などの漬物に利用されます。自給自足に心掛けた農家の土活は、自家の土産物を最大限に利用し、漬物や煮物にも向かないくず大根は「切り干し」として加土保存するのでした。
 師走の時期、真っ白に洗われた大根が、日当たりのよい農家の庭先や周囲の大きな樹木にかけ連ねられている風景もあまり見られなくなりましたが、まぶしいほど美しいものでした。

身綺麗に  住みて大根を 干しにけり   都北子
午後の日に 切り干縮む  ひとむしろ   桑条
      

『協力:郷土懇話会』
平成12年12月 刊


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村の歳時記 -その 9--


< 雨乞い >

 梅雨が明けて太平洋高気圧が勢力を強めて幾日も晴天が続き、気温が30度を越えるようなカンカン照りの天気になるとなかなか雨が降ってくれません。
 わき水を利用している田んぼはひび割れて稲は痛ましい姿になります。
 焼けた灰のような上に野菜も生気を失い息絶え絶えの姿になってしまいます。畑の作物は乾燥に弱い陸稲が被害にあいやすく、穂が出ないことも度々ありました。
 こうなってしまうと大変です。そこで考えられたのが神様や仏様にすがる思いで行う雨乞いでした。
 田名地区でもこの行事は大正の末まで続き、村議会で議決までされて実施されたといわれています。村長をはじめとして議員、村の主な人たちによって雨乞いが行われ氏神様や水神様に降雨を祈るのでした。その後お析りに使われた石は、相横川に沈められます。願いがかなって雨になると、石を川から出して元のところ(田名ハ幡宮の境内)に安置したと由来書きに記されています。その由来書きによると、雨乞いによって雨は降るものの、時には大雨になって逆に洪水の被害もあったので、雨乞いもなかなか難しい問題だったようです。
 現代の人から見れば非科学的なことのようですが、昔の人たちは真剣に考えたことだったのでしょう。
      

『協力:郷土懇話会』
平成14年8月 刊


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村の歳時記 -その 8--


< 重労働だった田植え >

  • 田名の水田
 典型的な火山灰土壌で、畑作が主力であった相模原台地の中で、水田という米作りのできる耕地は、ごく一部の限られた地域でした。
 田名地区には先年顕彰された江成久兵衛さんの努力で拓かれた久所(ぐぞ)地区の水田と、わき水を利用して作られた半在家から塩田にかけての水田ぐらいで、一部の農家によって耕作されていました。
 昭和20年ごろまで、農業をしながら自分の家で食べる米さえも収穫が不安定で陸稲(*おかぼ)が頼りでしたから、たとえわずかではあっても、この水田耕作をしている人たちは一生懸命だったのです。
  • 苗代づくり
 そのころの米作りは苗代づくりから始まります。
 4月初めごろ水田を耕しますが今のような機械がなかったので、「マンノウグワ」(*)とか 「タオコシマンガ」(*)などと呼ばれる4本の刃のついた道具で一鍬ずつ耕しました。
 水を張り「代掻き」(しろかき)という作業で平らにして5月初めごろ種もみをまきます。
 6月の中旬になると苗が適度に生長しますから、いよいよ田植えにかかりますが、本田も苗代と同様に代掻きをしなければなりません。
 経営規模の大きな農家では牛や馬を飼っていましたから、「マグワ」という道具をひかせていましたが、普通の農家では人力でしたから、それはそれはきつい労働だったのです。
  • 田植え
 代掻きが済むといよいよ田植えです。前もって用意した早苗(さなえ)の束を一面に配って一株ずつ植えるのでしたが、これも腰を曲げどおしの重労働でした。
 この時期は麦の収穫や養蚕の時期でもあり仕事が重なり、天気がよければ畑仕事、雨が降れば田んぼと、それこそ猫の手も借りたいという忙しさでした。

*陸稲・:はたけに作るイネのこと。
*マンノウグワ・タオコシ マンガ・:金属製の4本の刃にほぼ直角に木製の柄が付いている鍬のこと。
      

『協力:郷土懇話会』
平成12年6月 刊


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村の歳時記 -その 7--


< お茶作り >

 昔、小学校のときに唄った唱歌のように、夏もちかづく八十八(*)夜のころ。
 出そろった若芽を摘み取り蒸してから、焙炉(*ほいろ)の上で揉みながら火力で乾燥させることによって、狭特な香りと味を引き出すのが日木のお茶です。
 田名地区の農家でも、納屋の隅などに作ってある焙炉で自家用のお茶を作っていました。すべて手作業でしたから、火力の具合でそれぞれに出来上がりが異なって、名人が作ったものは味も香りも狭群で来客に喜ばれたものです。
 時期になると家中総出でお茶摘みをしますが、一芽づつ摘むのですから大変な作業でした。
 お茶の木場といえば静岡とか埼玉の狭山、京都の宇治などが有名ですが、それらの木場にも負けないほどの、美味しいお茶ができたのです。
 お茶の葉を確保するために、宅地の周りに茶の木を植えましたが、この茶の木という常緑樹は、あまり大きくならず、隣との境界にもなって、一石二鳥にもなりました。
向き合うて  茶摘みの音を   たつるのみ   爽雨
 最近は品種の改良や、製法も進歩して、摘み取りから火入れまで機械化され、また真空パックのお陰で味のよいものが市販されるようになりました。
 今は、田名地区でも自家製のお茶づくりをする家は、ほとんどなくなりましたが半在家の田所保さんのお宅では毎年昔ながらの製法でお茶を作りその味を楽しんでいるそうです。

*八十八夜・:立春の日から 八十八日目 5月1日ころ
*焙炉(ほいろ):・製茶用 に用いる乾燥炉 木炭を 熱源にする
      

『協力:郷土懇話会』
平成12年5月 刊


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村の歳時記 -その 6--


< 稲荷講 >

 節分を過ぎた最初の午の日を初午(はつうま)といって、稲荷様のお祭りの日で、稲荷講と言われてきました。
 この稲荷様は五穀をつかさどるほか、産業の神様として全国的仁祀られ、信仰されてきました。
 特に稲荷の語源とされている稲生(いねなり)と言うように、農業の神様、田畑の神様としての信仰から農家ではそれぞれの宅地内の一番高い所に祠(ほこら)を建ててこれを祀り、作物の豊作を祈ってきました。さらに講中という集まりを作ってのお祭りが、稲荷講といわれ、長い間続けられてきました。
 2月になると、地区のあちこちに「正一位稲荷大明神」と書かれた大きな幟旗(のぼりばた)が立てられます。この旗の立っている家が今年の講中の宿で、講中の家が輪番で勤めることになっていました。
 宿に当たっている家では当日になると、座敷には前もって系統の稲荷神社へ代参していただいてきたお札(ふだ)をまつり、小豆(あずき)飯、お神酒(みき)のほか、稲荷様のお使いと言われているおきつねさまの好物・油揚げなどを供え、講中の人たちをもてなすための支度をしました。
 さらに篠竹で作った筒にお神酒を入れ、講中の家一軒一軒に配って回りました。
 講中の家では配られたお神酒や薬包(わらっと)に盛った小豆飯、魚などを家の稲荷様に供え、入浴をして体を清め一張羅(いっちょうら)の着物を着て、講宿に集まるのでした。
 講宿では座敷に歓談の席を作って、山海のごちそうを並べて講の人たちをもてなし、ともどもにお稲荷様の功徳を話し合うのでした。
初午や  煮しめてうまき    焼豆腐    万太郎
藁苞に  赤飯(あかい)の乾く 午祭     桑 条 
 稲荷講の他にも地神講などの講中があって、農家の生活と密着し、娯楽的な面もあったことから、神様にあやかって交流の場であったようです。
 現代では五穀豊穣の神様としてばかりでなく、海運、面売繁盛、大漁などを祈る人たちで初午の日はどこの稲荷様もにぎわっているようです。

*午の日:・昔の暦に使われ た十二支のひとつ(7番目)
*五穀:主な食用穀物(米、麦、粟、豆、黍(きび)、又は稗(ひえ))
*一張羅・:自分の持っている一番上等の着物
      

『協力:郷土懇話会』
平成12年2月 刊


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村の歳時記 -その 5--


< 注連縄(しめなわ)作り >

 田んぼや畑の収穫やたねまきが終わって、12月も半ば過ぎになると、お正月を迎える準備が待っています。
 注連縄(しめなわ)作りもそのひとつで、暮れの30日には飾るようにしていました。それ以前に作っておいてもこの日と定まっていたようです。
 それぞれの家の風習によって、多少の違いはありましたが、この注連縄やお飾りを作って、毎日の生活と関係のある場所におられるという神様をあがめ、1年間を無事に過ごせるように祈る意味があると考えられていたようです。
 今年取れた新しい稲藁を使って神棚(伊勢大神宮、歳神様)や荒神(こうじん)様(火の神様)をはじめ、床の間などの家の中の神様、井戸神様(水の神様)など外の神様にも飾りました。
 そのほか、日ごろ使っている土蔵、物置、納屋などにも飾りました。
 これらは普通『コボー注連』と呼ばれた簡単なものでしたが、神棚へ供えるお飾りはかなり手の込んだもので、青竹に藁を編み付けて御簾(みす)のように作り、半紙、橙、ゆずり葉、ウラジロなどの縁起物(財産を代々譲るという縁起)を麻を使って結び付けるものでした。
 また神様には、八幡宮で作ってくれる弊束(*へいそく)を立て、新しい手ぬぐいをつるし、お歳暮で頂いた新巻鮭も供えました。
 昔の注連飾りはすべて家長が自分の手で作り、子から子へと受け継いできた素朴なものでしたが、近年は彩りも華やかな物が売られて、お正月を迎える気分を盛り上げているようです。
 また、注連縄はお正月を終え七草を迎えると、どんど焼きの時に燃やされます。

*御簾:・簾(すだれ)の敬語で、神前、宮殿にかけるすだれ
*弊束:・神前に供える祭具で、おはらいをするのに用いる。
      

『協力:郷土懇話会』
平成11年12月 刊


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村の歳時記 -その 4--


< さつまいもが貴重品だった時代 >

 相模川沿いの下段と半在家、陽原(みなばら)にあった水田のほかはすべて畑だった田名地区でとれる作物といえばさつまいもが主でした。
 さつまいもは、南方から九州の薩摩(鹿児島県)に伝わって来た、いもの一種で、日照りに強く収穫量も多く、甘みのあるおいしい食べ物でした。
 相模原は古くから特産地とされ、食料の乏しい時代には、なによりも重要視され、農家の換金作物としても大切でした。
 また、戦中・戦後にかけての食糧難の時代に、飢えから救ってくれたのがさつまいもだといっても言い過ぎではないでしょう。
 種類も豊富で、焼きいもや大学いもに使う『金時』(別名高座赤)、甘みがあって白い『太白』(たいはく)とか『関東六号』などは主として食用に使われました。ほかにも、酒まんじゅうのあんに代用したり、さいの目に切って小麦粉の団子に付けたりといろいろ工夫しました。また乾燥し、粉にして保存食にもしました。
 食糧増産が叫けばれた昭和20年代には品種の改良が進んで、食用にも原料用にも向く農林一号とか、でんぷん原料専用の農林二号、沖縄百号なども作り出されました。
 農協のでんぷん工場(現在の半在家バス停のあたりにあった)では、時期になると毎日のようにさつまいもが運びこまれて、山になったこともありました。
 特産物としてもてはやされたさつまいもでしたが、食糧事情や時代の変化でしだいに食卓に乗ることが少なくなりました。
      

『協力:郷土懇話会』
平成11年10月 刊


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村の歳時記 -その 3--


< まゆに思いをたくして >

 梅雨も明けて7月下旬、初秋蚕(しょしゅうさん)の掃立(*はきた)てが始まります。田名では春蚕、初秋蚕、晩秋蚕と年3回の養蚕が昭和40年ころまでほとんどの農家で副業として行われていました。
 春蚕と晩秋蚕は40日前後で上族(じょうぞく)(蚕(かいこ)が繭(まゆ)を作る準備)し、初秋蚕の上族は20日前後と短期間なので大忙しの毎日でした。
 特に昭和30年ころまでは桑の葉を一枚一枚桑摘み用の爪(つめ)で摘み採っては「びく」に入れ、一杯になると大籠に移し、荷車やリヤカーで家にはこんで蚕に与える桑採りと給桑(きゅうそう)の繰り返しでした。 8月15日のお盆までにはと家族全員子どもたちまでが駆り出されましたが、短期間で高収入が得られたので競って養蚕は行われたのでした。
 その後、桑を枝のまま切って与える方法(条桑)が導入されて、養蚕も楽になった分、人々は多くの蚕を飼育したので忙しいことに変わりはありませんでした。
 田名でも副業ではなく、本業として年6回前後も掃立てる農家も多くありました。初秋蚕は春蚕、晩秋蚕に比べ繭は小さく質も劣りましたが、農閑期を利用した田名の養蚕は昭和30年代まで全盛を極めていました。
 時代とともに絹製品も安い外国産に追われるようになり今では数戸の農家が養蚕を行うだけとなりましたが、畑には当時の面影そのままに、桑の葉が青々と茂っています。
 蚕が桑を食べる音が雨の降る音のように聞こえたのが思い出されるこの時期です。

*掃立て・:卵からかえったばかりの蚕を種紙から蚕座紙に羽根ぼうきで移すこと。
      

『協力:郷土懇話会』
平成11年8月 刊


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村の歳時記 -その 2--


< 大変だった麦の取り入れ >

 6月は梅雨のシーズン、この時期、晴れ間を見ては麦の取り入れに忙しく働く人たちが、昭和40年代まで田名地区でもよく見られました。
 麦刈りは普通、刈りながら麦を横に並べて畑で1〜3日位乾燥をします。刈り取った麦を千歯(センバ)で穂だけを取り、それをクルリ棒で打ち、箕(みの)であおって実と殼を選別していました。
 夏の厚い時、一家総出の棒打には、小学校5年生のころから子どもたちも手伝いをしました。クルリ棒も慣れるまではよく肘に当たって痛かったこと、麦の穂先のノゲ(ノギ)が体に入って汗と一緒になり痛かったこと、そして幾日も雨が続いた時など、麦の乾燥ができず、家の中一杯に広げてにおいが辛かったことなど、本当に大変な時期だったのです。
 昔の農家は、畳を上げると板の間になっていて、春から秋まではここが物置代わりとなり、麦の乾燥が終るまで座敷中が麦だらけで、家族は皆部屋の片隅で寝ました。
 田名では脱穀のことをボーチといっていました。
 「脱穀は終ったか?」を「ポーチ(棒打)は終ったのかよ?」というように隣近所であいさつが交されました。
 昭和14、15年から20年代ごろまでは足踏みの脱穀機で、その後はさらに動力による脱穀をしてきました。
 そして今ではコンバイン(農業機器)が刈り取りから脱穀までのすべてを行ってくれる便利な時代になりました。
 また写真左の包丁のようなものは少量の麦や、豆類のポーチに使用した片手用の用具です。
      

『協力:郷土懇話会』
平成11年6月 刊


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村の歳時記 -その 1--


< 春は屋根替えの季節 >

 昭和30年代まで相模原一帯のほとんどの家は藁葺(わらぶき)屋根でした。
 夏に涼しく冬は暖かい藁葺き屋根の難点は5〜10年に一度ふき替えなければならないことでした。
 茅葺(かやぶき)だと50年は持つといわれますが、田名ではそれだけ大量の茅が取れないので毎年必ず収穫のある小麦のわらを利用しました。
 屋根替えはふき替え職人によって行われ、田名には望地、四ツ谷に数人の人たちがグループを組んでいて、3〜5月ごろの農閑期の仕事としていました。冬の間、暇を見ては屋根替えに必要な縄や竹などの準備をしていました。片面を仕上げるのに3〜5日位を必要とし母屋普請ともなると手伝いの人も多く、お茶出し、食事の支度とお祭り騒ぎのようでした。
 家の中は囲炉裏(いろり)で火を燃やすので煙が屋根裏から藁葺きに伝わつて虫の発生を防ぎ乾燥して住み良い家を保っていました。2、3階は田名で盛んであった養蚕には、乾燥と温度の面で最適でした。
 時代は変わり、わらの入手が困難になったことや建築様式の変化などによってしだいに藁葺き屋根はその姿を消していきました。
      

『協力:郷土懇話会』
平成11年4月 刊


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