しろやま歴史めぐり  〜公民館報掲載コーナーのバックナンバーより〜

 第1回〜第2回  第3回  第4回  第5回  第6回  第7回  第8回  第9回  第10回

第11回〜第19回はこちらから

第19回〜第26回はこちらから

第26回〜第33回はこちらから

第33回〜第40回はこちらから

第41回〜はこちらから



 第1回〜第2回  国指定史跡(くにしていしせき)川尻石器時代遺跡(かわしりせっきじだいいせき)

   国の史跡として指定されたのは八〇年前の昭和六年。
石器時代(縄文時代)の竪穴住居跡や大量の土器や石器が出土し、貴重な遺跡として注目され、国の指定を受けました。旧城山町では、国の史跡にふさわしい公園として生かし後世に伝えられるよう整備計画を定め、合併後は新相模原市に引き継がれ、遺跡としての新たな発見が続いています。 


 この遺跡は、県企業庁谷ヶ原浄水場の東隣、川尻バイパス歩道橋の南側に広がる約二・四ヘクタールの区域で古くから土器や石器、石畳のような敷石が見つかることで知られていました。昭和三年地元有志一五〇名が尚古(しょうこ)会を結成これらの遺跡や遺物を守ろうとする運動が起こり、昭和五年には文部省から派遣された専門家により調査が行われ、国指定史跡として認められました。なお、城山総合事務所本館の壁面にある浮彫の模様は、その当時発見された遺物を図案化したもので、川尻遺跡の文化的価値を後世に伝えるため昭和五十五年につくられたものです。


 平成に入ってからの川尻遺跡の発掘調査は、国道413号線のバイパス工事をきっかけに計画的に進められ、新たな成果を重ねながら遺跡の全体像の解明に向かって進められています。この遺跡は複数の住居跡が円形に大きく広がって発掘をされていることから、かなり大規模な環状集落であることがわかってきたことは成果のひとつです。また、県下では数列しか発見されていない縄文時代の墓地と考えられる河原石を並べた配石墓がまとまって発見されたことも大きな成果です。さらに今後の調査により、この遺跡の特徴や全貌が明らかにされ、市民のために活用される歴史公園の建設が待たれます。
なお、現地には神奈川県の作成した説明掲示板や地元谷ヶ原の人たちによって定期的に清掃されている敷石住居跡、配石墓の出土場所には写真のある説明板が掲示されています。



    
【所在地】谷ヶ原二丁目788の2・789の1ほか 
   
遺跡前にある案内板と解説板



城山総合事務所ピロティにあるレリーフ




 第3回  向原遺跡(むかいはらいせき)鉢巻土偶(はちまきどぐう)

   向原から新小倉橋へ向かう広域道路の建設工事で現れた遺跡は、「川尻中村遺跡」と銘名されましたが、「川尻中村」という地名は昔も今も存在しないので、正確な地名で言うと「向原中村・西村遺跡」となります。

 ここからは縄文中期(五千年〜四千年前)の中頃から後半にかけての竪穴住居が24件発見され、県内でも珍しい鉢巻土偶や、釣手(つりて)土器や土鈴(どれい)が中村から発見されています。鉢巻土偶は頭にターバンのような鉢巻を巻いている高さ75センチの可愛らしい女性像です。向原の相模川沿いの大地には谷ヶ原と同様縄文時代中頃の大きな集落があり、縄文人が活発に暮らしていたことがわかります
 
 



 第4回  〜身近なところに古墳時代〜川尻八幡宮古墳石室(かわしりはちまんぐうこふんせきしつ)

   関西に多く見られるような周囲に堀をめぐらした巨大な古墳が造られていた時代が古墳時代で、大和朝廷が国家のもとを形成していた時代でもあります。

 城山地域にも規模はごく小さいのですが、古墳の中心に当たる遺体や副葬品が置かれた石室が川尻八幡宮の境内にあります。この石室は丸い川原石を積み重ねて造られ、長さ約2・5メートル幅1・2メートル、かつては天井石が置かれ、全体は土で覆われていました。

 調査によると石室の形からおよそ直径10メートルほどの円墳ではなかったかと考えられています。相模川流域では最も上流域にある石室をもった古墳で、七世紀前半に造られていたものといわれています。この頃この地域には水田耕作をおこなう村々があり、それらを統括する権力者が現れていたことがわかります。 
   
川尻八幡宮境内古墳(石室)
(『町史の窓(復刻版)』2006年より)
 



 第5回  〜古墳時代の墓地〜『春林横穴墓群』

   相模丘中学校の西側は南傾斜の山林で、手前に墓地があります。昭和四十一年、墓地造成工事のとき、斜面を階段状に掘削していたブルドザーの通った後にポッカリと穴があいて、中をのぞくと直径三メートルほどのほら穴があり、底には丸い河原石が敷きつめてありました。

発掘調査の結果、古墳時代後半(七世紀中頃)から奈良時代(八世紀)にかけて造られたものと分かりました。

 古墳時代は大きな塚を造って墳墓とした時代ですが、八世紀に近づくとこの様な横穴を掘って墓にしたことも行われました。全体の形は、戦争中の防空壕やサツマイモを貯蔵する横穴の様な感じで入口は狭く上から見ると羽子板や徳利の様な形でこの時は五基の墓が確認されました。

 その後、昭和五十二年、同六十一年墓地に続く山林内の分布調査が行われ合計二十三基の横穴墓が確認されています。この事からこのあたりは百基ほどの横穴墓が存在するのではと専門家は考えています。

 七世紀から八世紀にかけて久保沢谷戸には小さな水田を開いて暮す人達の村があり、暮しがあったことが分かります。  
   



 第6回  〜平安時代のちいさな村〜 苦久保遺跡(にがくぼいせき)

 
川尻八幡宮の南隣にある保健福祉センターの建設に先立って平成元年発掘調査が行われ、
平安時代の半ば十世紀の竪穴住居跡が発見され、地名から苦久保遺跡と名付けられました。
住居跡は全部で八軒、さらに地面に穴を掘って柱を建てた(掘建て柱)倉庫と思われる建物跡が二軒現れました。
住居跡の八軒は同じ時期のものでなく、二〜四軒が連続して小さな村をつくっていました。

 この住居跡には、煮炊きに使われた粘土で固めたかまどがあり、焚口(たきぐち)や煙出し(けむだ)もありました。住居の大きさは六畳半ぐらいでワンルームでした。
土師器(はじき)や須恵器(すえき)と呼ばれた縄文土器や弥生土器とは異なる新しい形式の土器が大量に発掘され、その中に「田」・「土」・「平」など墨で書かれた文字のある土器(墨書(ぼくしょ)土器)が見つかり、この地域最古の文字として注目されています。さらに昨年(平成二十二年)、文化ホール建設に伴う発掘調査では、相模丘中学校のグラウンドに近い所から赤い文字で書かれた土器(朱墨(しゅぼく)土器)が現れ平安時代の信仰や祭祀にかかわるものではないかと、大きな話題となっております。
 
   
川尻八幡宮(林の向こう側に)
(城山町史 5通史編 原始・古代・中世より)



 第7回  〜平安時代のちいさな村A〜 風間(かざま)遺跡(いせき)


 平安時代の遺跡は前時代に比べて爆発的に増加します。
この地域が純農村だった昭和中ごろまでの村の様子の原型はこのころ出来上がっています。ところが村といえないような少数の家が隠れるように谷合の山間部に住む人たちもおりました。風間遺跡(かざまいせき)がその一つです。

 ここでは十数軒の竪穴住居が発見されていますが、すべてが同時期のものではありません.。調査を担当した秋山(あきやま)重美(しげみ)さんは次の様に考察しています。十世紀の初めこの谷戸(やと)の上の丘陵部に一家族が住みつき、その後三軒、あるときは四軒、この世紀の末には谷戸の入口の低い所に二軒となり、やがてこの谷戸に人の姿は消えたようだと考えています。

ここに住んだ人たちは、家の北側に作ったかまどを東側に移し替えたり、鉄製の農具を作ったり修繕のための鍛冶を行ったりして当時の地域の文化を取り入れて暮らしていました。
この時代、都では華やかな貴族文化が栄えていますが、関東では平将門(たいらのまさかど)の乱が起り戦場となったり、盗賊の横行や疫病の流行があり、各地に集落が現われる反面人目につかない所に暮らす人もいました。
 



 




 第8回  〜九〇〇年前の観音(かんのん)菩薩像(ぼさつぞう)〜 普門寺(ふもんじ)平安仏(へいあんぶつ)


 「おだやかで豊かな頬、丸味をおびた体、浅い彫り、これは間違いなく平安仏です。」昭和六十二年(一九八七)調査にあたった県立博物館の学芸員の言葉です。  この調査により武相(ぶそう)三十三観音十五番札所(ふだしょ)普門寺観音堂の本尊である木造(しょう)観音(かんのん)菩薩(ぼさつ)立像(りつぞう)が十〜十一世紀平安時代後期、美術史では藤原時代といわれる時期の津久井ではめずらしい仏像であることがわかりました。

  普門寺は遠く天平(てんぴょう)時代(八世紀)の創建(そうけん)と伝えられ、また高尾山(やく)王院(おういん)隠居寺(いんきょでら)としてもよく知られた由緒(ゆいしょ)あるお寺です。 江戸時代にはいくつかの末寺(まつじ)や三嶋神社、(いず)()神社を従えその偉容(いよう)を誇っていました。中沢地区には平安時代の集落跡も発見されていることから、古い時代から村人の信仰の()(どころ)となっていたと思われます。

  この観音像は、高さ一〇五センチの木造、肩幅一七・七センチ、造りは頭と体の主要部分が異なった木材を使った寄木造り(よせぎづくり)ですが、割矧(わはぎ)造りといって一木(いちぼく)で造った体の各部分をいちど割りはなし、()(われ)を防ぐため内側をくりぬいて再び組み立てる技法が施されています。

  目は多く使われている水晶でつくられた(ぎょく)(がん)ではなく、木地を刻み出した調(ちょう)(がん)という古い技法によるものです。(ころも)の部分は(しっ)(ぱく)といって木地に布をはり、(うるし)を塗り重ね、その上に金箔(きんぱく))をはりつけ金色に仕上げています。目、眉、唇は彩色されています。平安仏といっても武蔵(むさし)相模(さがみ)では地方色の豊かなものが多いのですが、この観音像は中央的作風(都風(みやこふう)=京都)を備える貴重なものです。

(城山地域史研究会 山口 清)
 


木造聖観音菩薩像(中沢 普門寺所蔵)

 



 第9回  『戦国時代の山城・小松城』

小松地区のかたくりの里に近い宝泉寺(ほうせんじ)寺伝(じでん)に「寺の背後は城郭の跡で、城主は永井大膳太夫(ながいだいぜんだいう)」という記録があります。また、小松城は「高乗寺(こうじょうじ)(八王子市高尾)出城(でじろ)」という伝承もあります。
 昭和六十年の調査では、空堀(からぼり)(水のない堀)や土を盛り上げた土塁(どるい)などが確認をされており、江戸城を築いた武将太田道灌(おおたどうかん)が活躍した十五世紀のころつくられた山城(やましろ)であろうといわれています。近くには落城のとき武将たちが話し合ったという「評議原(ひょうぎっぱら)」、城主の奥方たちが自害したという「自害谷戸(じがいやと)」という地名の場所もあります。

(城山地域史研究会 山口 清) 
 

小松城空堀 

 第10回  『戦国時代の山城・津久井城 その一』

旧城山町の町名は、津久井の城山に由来しています。昭和三十年、当時全国的に推進されていた町村合併促進法に基いて、いわゆる昭和の大合併によって川尻村・湘南村、三沢村中沢が一つになって誕生しました。新町名については広く住民からの募集によって決められることとなり、「城東」などの案もありましたが、多数をしめた「城山」と決定されました。
 城山と呼ばれた津久井城跡のほとんどは旧津久井町域にありますが、その東側の新しい町域に住む人達にとっては、朝夕眺めている堂々とした城山の姿はかけがえのない故郷の山として愛され親しまれてきたことが銘名(めいめい)の大きな原動力となったようです。
 次回から町名の由来となった城山の戦国時代の様子を連続して紹介いたします。。

(城山地域史研究会 山口 清) 
 
中沢より望む城山と津久井湖