しろやま歴史めぐり〜公民館報掲載コーナーのバックナンバーより〜

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第19回  『戦国時代の山城・津久井城その十』


        三増(みませ)合戦 その一〜

永禄十二年(1569)十月一日二万の大軍で小田原城を包囲した武田信玄は、 城下の町に放火し、城攻めの作戦をとります。しかし、城の守りを固めた北条勢に長期の作戦を取り止め、同月四日には小田原の囲みをといて撤退を始め、鎌倉方面にむかう態勢を見せます。上杉謙信が小田原攻めの後、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝した例にならった様にみせかけますが、北条勢の兵力分散の攪乱(かくらん)作戦だったようで、相模川を北上し、三増峠(みませとうげ)(現愛川町三増、相模原市緑区根小屋との境目にある)にむかい、そこで関東各地の支城にいた北条勢との間で合戦を展開します。



          (参考資料『城山町史一資料編』) 

                 城山地域史研究会 山口 清
 


城山公園展望広場から三増峠を望む
提供:県立津久井湖城山公園


第20回  『戦国時代の山城・津久井城その十』


        三増(みませ)合戦 その二〜
            
                〜脱出武田・待ち伏せ北条〜

 小田原城の囲みを解いた武田勢は、敵国の中から一日も早く脱出しなければなりません。しかも今の暦では11月中旬のことで冬の寒さも迫っています。そこで最短距離の相模川を逆上り、津久井を経て甲府に至るルートを選びました。北条勢にとっては、武田勢を滅ぼす絶好の機会です。小田原から、本隊が追跡し、途中の三増峠で、関東各地の出城の軍勢を集結させ待ち伏せして、挟みうちの作戦をたてます。
 待ち受ける主力は、小田原北条氏の総大将北条氏康の次男八王子城主の氏照(うじてる)、三男鉢形(はちがた)城主氏邦(うじくに)(埼玉県寄居町)など北条勢を代表する軍団でした。
 三増合戦についての史料は乏しく、江戸時代の初めに書かれた武田の武将高坂弾正信昌(こうさかだんじょうのぶまさ)の『甲陽軍艦(こうようぐんかん)』が詳しいので昔から多く引用されています。内容が武田びいきであるとか史料として信用性に疑問があるとされていますが、次回はこの本から合戦の様子を紹介してみます。



          (参考資料『城山町史一資料編』) 

                 城山地域史研究会 山口 清
 
 

「大日本地誌体系23新編相模国風土記稿」
第5巻 雄山閣刊行より


第21回  『戦国時代の山城・津久井城その十一』


        三増(みませ)合戦 その三〜
            
                〜待ち伏せ北条が謎の転進〜

 前回に続いて武田の兵学書(へいがくしょ)甲陽軍艦(こうようぐんかん)』から三増合戦の様子を眺めてみましょう。相模川に沿って北上した武田勢は、津久井への入口に当たる三増(みませ)に近づいたので捕えた生け捕り(捕虜)から様子を聞き取ると、北条勢が三増峠(みませとうげ)一帯に、陣を()しているとのことでしたが、信玄は小田原の北条本隊においつかれては、一大事を強行突破を命じます。ところが、三増峠(みませとうげ)に近づいてみると、何と北条勢は陣を引き払い、中津川を渡って半原に移動していました。難なく武田勢は峠の高所に陣構えし、峠の(ふもと)に取りついた北条勢と戦いながら帰路を急ぎます。
 峠を下り串川を渡ると、正面に北条勢の出城(でじろ)津久井城が構えているので、そのおさえとして沼(現緑区長竹(ながたけ))に一隊を配置しました。本隊は現在信玄道(しんげんみち)といわれている道を西へ青山、三ケ木(みかげ)を経て道志川を渡り、反畑(そりはた)(現緑区寸沢嵐(すあらし))で首実験を行い勝どきの声をあげました。三ニ六九の首をとったとされていますが、今も首塚(くびづか)、首洗いの池があります。



          (参考資料『城山町史一資料編』) 

                 城山地域史研究会 山口 清
 
 



第22回  『戦国時代の山城・津久井城その十二』


       〜戦国女性の生き方@〜

              〜「北条氏政(うじまさ)」夫人・信玄の娘「黄梅院(おうばいいん)」の生涯〜


 甲州武田と小田原北条は、つねに戦をしていたわけではなく、平和な同盟を結んでいたときもあります。越後の上杉が勢力を増して川中島の合戦を繰り返していた時期です。武田は背後の小田原北条と平和な関係が必要であり、信玄は長女黄梅院が十二歳のとき、北条三代目の当主となる十五歳の氏政に嫁がせます。黄梅院は八年後二十歳になってから四人の子に恵まれましたが、戦国の世は大名の娘には残酷でした。信玄が北条との同盟を破棄したからです。黄梅院は夫や四人の子との情愛を絶たれ、甲府の実家へ帰され、半年後には亡くなっています。哀れに思った信玄は一寺を建てて菩提を弔っています。
 嫁入りのとき甲州街道を華やかに三千人の供に守られて津久井の吉野―青山を通過していますが、後に信玄はこの道を逆に行進し、三増峠(みませとうげ)で戦っています。
 子煩悩だったといわれる信玄は、娘の夫や子どもたちのいる北条一族と戦ったことになります。この時信玄は何を思ったのでしょうか。



          (参考資料『城山町史一資料編』) 

                 城山地域史研究会 山口 清
 
 


第23回  『戦国時代の山城・津久井城その十三』


       〜戦国女性の生き方A〜

              〜武田信玄の娘たち〜


 信玄の長女黄梅院(おうばいいん)については前号で紹介しました。次女見性院(けんしょういん)は穴山梅雪(ばいせつ)夫人、三女真竜院(しんりゅういん)は木曽義昌夫人で、それぞれ信玄の有力家臣に嫁いでいますが、信玄没後は後を継いだ勝頼に背いて武田家滅亡に加担しています。四女桃由童女(ちょうゆうどうじょ)は幼くして亡くなりました。五女大儀院(たいぎいん)(菊姫)は上杉謙信の後を継いだ景勝(かげかつ)夫人として、徳川の平和の時代の大名夫人として天寿を全(まっと)うしています。
 六女信松尼(しんしょうに)は松姫で、八王子の名菓の名で知られています。幼くして織田信長の長男信忠と婚約、本能寺で信長父子の没後、婚約は自然消滅されました。
 織田、徳川の連合軍と相次ぐ家臣の裏切りにより、周囲を全て敵に囲まれた武田勝頼(かつより)は天正十年(1582)三月十一日、わずかな供の者と天目山の麓、田野(たや)に在り、自決を覚悟します。その時松姫は北条氏の勢力下にある八王子への脱出をすすめられます。脱出の経路は諸説ありますが、四月十六日八王子恩方の尼寺に姿を現わし、その後徳川の世になり台町の信松院の庵主となります。



          (参考資料『城山町史一資料編』) 

                 城山地域史研究会 山口 清
 
 


第24回  『戦国時代の山城・津久井城その十四』


       〜戦国女性の生き方B〜

              〜「武田勝頼」夫人桂林院の選択〜


 武田信玄の後継者勝頼は、長篠の合戦の惨敗以後、織田・徳川の連合軍に攻め立てられ、さらに相継ぐ有力家臣の裏切りにあい(NHK大河ドラマ「真田丸」のように)、戦国大名武田家終焉の地となる天目山(てんもくさん)にたどり着きます。妹松姫(信松院(しんしょういん))は勝頼に説得されて、八王子へ脱出します。勝頼の妻桂林院も実家の北条家へ帰るよう勧められますが、夫勝頼とともに自害することを選びます。
 桂林院は、小田原北条氏の当主氏政の娘で、十四歳で、三十二歳の勝頼へ嫁ぎます。「黒髪の乱れたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒」という辞世の歌を残しています。※三十一歳でした。生前夫勝頼の戦勝祈願の願文を武田八幡宮に奉納しているなどを見ても、決して「政略結婚の犠牲となった不幸な運命」だったのではなく、養子や人質となった男性と同様な、戦国の大名家に生まれた人間として、大名間の外交官的な役割を自覚していたので、本懐を遂げたという見方もあります。
             (※誤記  誤 三十一歳 → 正 二十一歳)

          (参考資料『城山町史一資料編』) 

                 城山地域史研究会 山口 清
 


第25回  『戦国時代の山城・津久井城その十五』


      〜戦国女性の生き方C〜

              〜戦国時代の村の女性たち〜


 戦乱に明け暮れた戦国時代の村の女性たちの様子をみてみましょう。相模の青根郷(あおねごう)(村)を襲い、女・子供・年寄り百人を捕えたという記録(『勝山記』)が山梨県にあることを第17回で紹介しました。同じ資料に次のような記述もあります。
 男女生け捕りされ(そうろう)てことごとく甲州へ引っ越し申し候さるほどにニ貫(にかん)・三貫・五貫・十貫にても身類(親類)ある人は()け(買い戻す)申し候

 相模の国に侵入した武田信玄の軍勢は、他国に侵入すると、そこに住む領民を生け捕りにしすべて甲州に連れて行ったというのです。目的は、捕えた人たちを売るためです。捕えるのに抵抗力が弱く、高値で売れる女・子供はよい獲物でした。
 このような災難を避けるため、領民は城主(領主)に年貢を納めているのだから戦いの時は城内に入れるよう要求したり、敵側と事前に交渉して金銭で侵入しても乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)はしないと約束させた制札(高札)を立てさせたりして、村人の知恵で自分たちの生命財産を守りました。
 落城の際激戦のあった八王子城では、多くの非戦闘員がいたといわれています。津久井城については発掘調査が進められていますが、まだよくわかりません。

 参考  一貫文=銭千文  当時 米一斗四升の値段 職人の日当 五十文

 (参考資料「西さがみ女性の歴史」「津久井町史 通史編近世現代」「城山町史―資料編」「神奈川の歴史」1996年山川出版)
 

                 城山地域史研究会 山口 清
 


第26回  『戦国時代の山城・津久井城その十六』


      〜津久井城主とその家臣たち@〜

              〜戦国時代の推移と津久井城〜


  武田信玄の死は、戦国の世を急速に変化させました。長篠の戦いの敗北は武田氏を滅亡させ、同じ年に織田信長は本能寺で非業の死を遂げ、天下は豊臣秀吉の手に移り始めます。
 最後まで抵抗を示した関東の覇者小田原北条氏は、秀吉配下の大名、二十万の大軍に囲まれ関東各地の北条氏の支城は次々と攻め落とされ、八王子城も天正十八年(1590)六月二十三日前田利家、上杉景勝の北陸勢に攻められ激戦の末落城、津久井城も徳川家康の軍勢に攻められ六月二十三日あるいは二十四日落城を迎えます。城山地区城北には八王子城からの使者が落城を知らせるため下馬したところという伝説(下馬梅)が残っています。
 また、市内下溝の番田(ばんだ)には次のような穂打唄(ぼうちうた)が残っています。「津久井の城が落ちたげな 弓と矢と小旗の竿が流れくる」このあたりから見る津久井城は、津久井の連山を背にひときわ大きくそそり立って見えます。朝夕この山城を眺めていた人たちは、この落城をどのように思ったのでしょうか。

 (参考資料「城山町史」5通史編)
 

                 城山地域史研究会 山口 清