しろやま歴史めぐり〜公民館報掲載コーナーのバックナンバーより〜

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第26回  『戦国時代の山城・津久井城その十六』


      〜津久井城主とその家臣たち@〜

              〜戦国時代の推移と津久井城〜


  武田信玄の死は、戦国の世を急速に変化させました。長篠の戦いの敗北は武田氏を滅亡させ、同じ年に織田信長は本能寺で非業の死を遂げ、天下は豊臣秀吉の手に移り始めます。
 最後まで抵抗を示した関東の覇者小田原北条氏は、秀吉配下の大名、二十万の大軍に囲まれ関東各地の北条氏の支城は次々と攻め落とされ、八王子城も天正十八年(1590)六月二十三日前田利家、上杉景勝の北陸勢に攻められ激戦の末落城、津久井城も徳川家康の軍勢に攻められ六月二十三日あるいは二十四日落城を迎えます。城山地区城北には八王子城からの使者が落城を知らせるため下馬したところという伝説(下馬梅)が残っています。
 また、市内下溝の番田(ばんだ)には次のような穂打唄(ぼうちうた)が残っています。「津久井の城が落ちたげな 弓と矢と小旗の竿が流れくる」このあたりから見る津久井城は、津久井の連山を背にひときわ大きくそそり立って見えます。朝夕この山城を眺めていた人たちは、この落城をどのように思ったのでしょうか。

 (参考資料「城山町史」5通史編)
 

                 城山地域史研究会 山口 清
 




第27回  『戦国時代の山城・津久井城その十七』


       〜津久井城主とその家臣たちA〜

              〜津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)景豊(かげとよ)のこと〜


  内藤景定・景豊父子二代が津久井城主として信じられ、津久井の小中学校の副読本にもそのように記されていました。津久井城山頂の石碑「築井古城記(文化十三年1816)」の記述がその根拠です。これには戦国時代およそ百年を親子二人の城主だけというはおかしい、景豊の戒名が江戸時代の代官の戒名とよく似ているなど多少の疑問がありました。 しかし「古城記」の内容を否定する積極的な根拠もないということから津久井の歴史として定着していました。
 戦後、地方の歴史研究が進み、戦国期の資料には景定・景豊の名は見当たらないことがわかってきました。
 そのころ、地元の研究家辺見嘉一(へんみかいち)さんが、内藤を名乗る人物たちの花押(かおう)(署名)から、「これは実在の津久井城主たちではないか」という報告がありました。(『築井文化』第6号1979年)。このことがきっかけとなって、佐々木秀明(ささきひであき)氏が論文(『神奈川県史研究』42号1980年)に、景定・景豊は江戸時代に創作された人物で、景豊が差出人の文書も偽文書(ぎぶんしょ)であることが確認されました。以後二人の城主の名は津久井の公的な歴史書からその姿消します。次回からは最近の研究の成果から戦国時代の津久井を語ります。
 
 (参考資料「城山町史」5・『戦国大名の領国支配構造』黒田基樹)
 

                 城山地域史研究会 山口 清
 




第28回  『戦国時代の山城・津久井城その十八』



       〜津久井城主とその家臣たちB〜

              〜大和入道と朝行のこと〜


  『城山町史』や『津久井町史』などの自治体史を見ると津久井城主を左のように示しています。津久井城主の(あるじ)である小田原北条氏と比較して見ると、五代続いて共に慶長一八年(一五九〇)夏、豊臣秀吉の軍に攻められ落城し、戦国時代の終了を迎えています。

津久井城主内藤氏=内藤大和入道(やまと にゅうどう)朝行(ともゆき)康行(やすゆき)綱秀(つなひで)直行(なおゆき)
小田原城主北条氏=北条早雲(そううん)(伊勢宗瑞(そうずい))―氏綱(うじつな)氏康(うじやす)氏政(うじまさ)氏直(うじなお)


 山梨県富士吉田市に伝わる『妙法寺記(みょうほうじき)』によると、大永五年(一五二五)武田信虎(信玄の父)と北条氏綱(早雲の嫡男(ちゃくなん))が、相模・甲斐(かい)の境目津久井領の小猿橋(こさるはし)(旧藤野町吉野)で絶え間なく戦っていたが、「津久井の城未だ落ちず」とあり、津久井城のことが初めて資料に登場してきます。

 同じ時期の大永四年(一五二四)内藤大和入道なる人物が、光明寺(こうみょうじ)(旧津久井町関)に菜園を寄進しています。その文書に「光明寺に参る 津久井」とあって、大和入道が津久井城主であったことを示していると言われています。大和入道の名以外本名はわかりませんが、その嫡男が朝行で、父親はすでに隠居して入道名(仏門に入る)になっています。武田信玄の父信虎と戦っていた小田原北条氏綱の家臣である津久井城主は二代目の内藤朝行であることがわかってきました。


 (参考資料 『城山町史1資料編』 『津久井町史』 通史編原始―古代・中世)
 

                 城山地域史研究会 山口 清
 




第29回  『戦国時代の山城・津久井城その十九』



        〜津久井城主とその家臣たちC〜

               〜康行(やすゆき) 綱秀(つなひで) 直行(なおゆき)のこと〜


  津久井城主三代目の内藤康行の名は、主君小田原北条氏康(うじやす)の「康」の一文字を拝領されたとかんがえられています。主君の名の文字を頂戴し、君臣の絆を固くすることです。北条氏康は小田原から相模、武蔵へと進出し、関東地方を支配していた上杉氏の領国を攻め、河越城(かわごえじょう)の戦いに勝利して戦国大名としての地位を獲得しています。
 四代目城主内藤綱秀の時代になると、津久井城主の署名(花押(かおう))のある文書が見られるようになります。戦場で手柄をたてた家臣に与える文書(感状(かんじょう))などを、津久井城主が支配する地域の武士には、小田原本城の主に代って与えています。このことは津久井城主が小田原本城の権限をあたえられたことで、津久井城主の地位が高まったことがわかります。
 五代目城主内藤直行の「直」は、小田原北条氏五代目当主氏直(うじなお)から拝領されたものとされています。
 小田原落城の際、津久井城主直行は小田原城におりますが、その後の消息は不明とされていましたが、石野孝さん(城山地域史研究会員)の長年の研究により、小田原落城後前田利家の家臣として、加賀に移住していたことがわかりました。


      (参考資料 『城山町史1資料編』 『津久井町史』5・1)
 

                 城山地域史研究会 山口 清
 



第30回  『戦国時代の山城・津久井城その二十』



        〜津久井城主とその家臣たちD〜

               〜津久井城の守り 津久井衆のこと


 戦国大名小田原北条氏は、本城の小田原城を中心に相模、武蔵などそれぞれの領国に支城を置き、それらの地域に居住する地侍に領国を守らせました。当時の村には農民を支配すると共に自ら農地を所有し、平時には農耕、必要により(あるじ)に従って戦場に赴く家臣を持つ地侍が村々をまとめておりました。江戸時代のように兵(侍)農が分離していませんでした。
 相・武・甲と境を接する軍事上重要拠点である津久井には、津久井城主の(もと)津久井衆(つくいしゅう)と呼ばれた地侍の軍団がおりました。
 津久井衆の侍たちは、旧津久井郡内相模川の支流、沢井川、秋山川、道志川、串川などの流域に集落と耕地が存在する農村を守っていました。かれ等は津久井城主の家臣というよりも小田原北条氏に直属する侍という意識が強かったようです。津久井衆の人たちは北条氏にどのような主従としての関わりを持っていたか当時の資料から見ることにします。


      (参考資料 『津久井町史』 5・1 『体系日本史叢書生活史U』)
 

                 城山地域史研究会 山口 清
 



第31回  『戦国時代の山城・津久井城その二十一』



        〜津久井城主とその家臣たちE〜

               〜津久井衆は村の土地所有が認められていた


 小田原北条氏は、領有する支配下の村々の寺社や家臣である侍たちについての帳簿を作成しています。『小田原衆所領役帳』(永禄二年1559)で、寺社や家臣に農地や屋敷地などの土地を与え、年貢や軍役を負担させる基準としました。
 一例として、津久井衆の若柳村(旧相模湖町)について紹介してみます。土地は正覚寺(しょうがくじ)のほか、山口大炊助(おおいのすけ)とその一族の雅楽助(うたのすけ)、その侍者(家来)、そのほか鈴木、三富という侍、野呂左京亮(さきょうのすけ)と、同中納言の屋敷地(野呂氏は三ヶ木村に農地などの土地が与えられていた)。末尾の大和守は、津久井城主で、若柳村のおよそ三分の一を支配していました。このように津久井の戦国時代の村々は寺社や家臣に知行地として土地が与えられていました。北条氏の租税制度は銭の単位である貫高制で、それだけの生産が年貢として取れる土地を知行として与えられたという意味です。



      (参考資料 『津久井町史』 5・1 『体系日本史叢書生活史U』)
 

                 城山地域史研究会 山口 清
 
 



第32回  『戦国時代の山城・津久井城その二十二』


        〜津久井城主とその家臣たちF〜

               〜敵国に年貢を納める村もあった

 前回(第三十一回)紹介した『小田原衆所領役帳』小淵村には「小淵之村」に続いて「敵知行半所務」とあって、敵が村の半分の田畑を所務(耕作権)しているとあります。戦国時代の初めのころの様子がそのまま記載されており、相模の北条と甲斐の武田が国境をめぐって争っていたことがわかります。したがって、「役帳」の記載も簡単で、地元の津久井衆の中村隼人佑(なかむらはやとのすけ)、同帯刀左衛門(たてわきさえもん)と津久井城主の大和守(内藤氏)が三三二文ずつ合計十貫の知行地としています。敵半所務ですので武田側もこの村から十貫文の収益があったわけです。後には、相甲の同盟が成立し、国境も話し合いにより明確となり、信玄の長女は小田原の北条氏にこの道を経て三千人の供をつれ嫁入りしています。



      (参考資料 『津久井町史』 5・1 )
 

                 城山地域史研究会 山口 清
 
 



第33回  『戦国時代の山城・津久井城その二十三』


        〜津久井城の落城@〜

               中沢村・三井村紺屋脱税のこと


 
 天正十四年(1586)小田原北条から紺屋の同業者組合の頭領に次のような書状が届いています。
 「次の紺屋(染物業者)は、領主への紺屋役(こうややく)(紺屋への税)は免除という法は誤り、犯す者は厳罰に処す。他国へ逃亡している者は、行き先をつきとめ、納税させよ」というものです。この書状の紺屋役未納の中に当地の中沢村と三井村が記されています。中沢村は甲州と結ぶ交通の要地、三井村は相模川の河岸場(かしば)で共に宿場として賑わい戦国時代になってさらに人や物資の行き交う場所となっていました。
 天正十四年は津久井城が落城する四年前です。小田原北条氏の武力を背景に、津久井城主の地域住民に対する政治的な権力行使も容易と思われますが、津久井城の目の前の二つの村の紺屋役未納という実態も戦国時代の事実なのです。津久井城落城の一要素として生産、流通にかかわる業者の台頭も見逃すことは出来ない事実です。
 武力による支配は、徳川氏により幕藩体制を維持して幕末を迎え、生産・流通の経済を支配した者は、西国大名を動かして、幕府を倒して明治を迎えます。その芽はすでに戦国時代の一地方の混乱の歴史の中に見いだすことが出来ます。


      (参考資料 『津久井町史』 5・1 )
 

                 城山地域史研究会 山口 清