しろやま歴史めぐり〜公民館報掲載コーナーのバックナンバーより〜

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第41回  『江戸時代の津久井 その一』


        〜徳川家康関東へ進駐〜

               家康江戸城へ入城

 
 天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉が目指す全国制覇に抵抗する小田原北条氏を二十万余りの軍勢で包囲します。小田原北条氏の当主氏直(うじなお)はやがてその重圧に耐えられず七月に降伏し、城を明け渡します。秀吉は抵抗勢力の中心であった小田原北条氏四代目の氏政(うじまさ)、その弟の八王子城主氏照(うじてる)に切腹を命じ、氏直を高野山へ追放します。さらに秀吉の天下取りの強力なライバルであった徳川家康に次のような処置を命じます。その内容は家康の生まれ育った根拠地である駿河、三河、遠江、さらに甲斐、信濃を召し上げ、敵国であった関東への移動でした。しかも移動は八月一日まで。大名の移住はその親族はもとより多くの家臣とその家族が伴う大移動です。このような過酷な処置に不満を表せば、さらに厳しい処置が待っているのが戦国の世の常でした。ところが、この処置に家康は喜んで対処したように行動しています。次々と家臣とその一族を江戸へ移住させ、しかも八月一日を「江戸御打入(おうちい)り」と称して徳川政権の祝いの日としています。
 歴史家の磯田道史氏は「家康の行動の基本には自分の生き残る処世術がある」と著書(注1)に述べられています。
 この年の八月一日は秋晴れに恵まれ、家康は多くの家臣を従え江戸城に入城しました。時に家康は四十九歳でした。

       (注1)磯田道史著「司馬遼太郎で学ぶ日本史より」

      参考資料 「城山町史」「津久井町史通史編」「大磯町史」 

                 城山地域史研究会 山口 清
 


第42回  『江戸時代の津久井 その二』


        〜新しい時代を築く秀吉
                        引き継ぐ家康〜
              

 徳川家康の江戸への移動命令は、豊臣秀吉の天下取りの手段の一つで有力大名を地方へ遠ざける処置でした。秀吉はそのほか武士以外の者が武力を持つことを禁じる「刀狩り」を行い兵農分離を図ります。また、農民からの生産物納入の徹底を図るため田畑の調査(検地(けんち))を行っています。それらの施策は我が国の近世を意味しています。
 飛鳥・奈良の遠い昔、天皇中心の国家を支える官僚が土地を私有していました。鎌倉時代以降武士が土地の所有者となり、武士の頭領である源頼朝が征夷大将軍となります。室町時代以降も戦乱の時代で、秀吉による武家支配の国家が再編されようとした時代です。秀吉は武家の血筋ではなかったので、太閤(たいこう)という特別な名称を朝廷から得て権力を振るいます。秀吉没後、その子秀頼が豊臣政権を引き継ぎます。
 家康が征夷大将軍の(くらい)を得て、関ケ原の合戦・大阪冬・夏の陣を経て、徳川家を中心に我が国の近世・江戸時代を迎えたのは皆さんご承知の通りです。
 これから津久井の江戸時代に入ります。
 
      参考資料 「城山町史」「相模湖町史」 

                 城山地域史研究会 山口 清
 


第43回  『江戸時代の津久井 その3』


        〜家康の施策と津久井〜
              

 江戸に移った徳川家康の領国は、武蔵・相模・上総・下総・上野・下野(むさし・さがみ・かずさ・しもふさ・こうづけ・しもつけ)など二四〇万石余りとなり、江戸を中心に家臣を配置する領国の知行割り(ちぎょうわり)を行います。家臣に土地を与えて収入の保障を図ることです。

 原則として江戸を中心にした地域は直轄地。江戸から一夜泊りと言われた距離十里(約40q)ほどの地域は幕府直轄の家臣いわゆる旗本領。その外郭部は譜代大名領(家康直属の大名)とし、軍事上の配備と経済や社会情勢に対応するもので、近世を通じて徳川氏知行割りの基本としました。

 江戸より西方十里に当る旧相模原市域は、江戸時代を通じて幕府直轄領、大名、旗本領が混在しています。旧津久井領二十二ヶ村には、若柳村(貴志正吉(きしまさよし))、青山村(井出源蔵)の旗本領がありましたが、共に跡継ぎがなく廃絶となり、全域が幕府直轄地となります。それでも青山には今も「井出」を名乗る家があります。

 津久井城主内藤氏の下に結束していた地侍(ぢさむらい)津久井衆のうち指導的地位にあった者はそれぞれ村名主(むらなぬし)となって土着し、今日に至っています。

 牧野村伏馬田(ふすまだ)城主であったと伝えられる日連(ひづれ)村の尾崎掃部介(おざきかもんすけ)は又野村に移って名主となります。憲政の神様と仰がれる尾崎行雄(おざきゆきお)はその子孫と伝えられています。牧野村の井上主計助(いのうえかずえのすけ)御家中(ごかちゅう)(家来)と呼ばれていた九人を伴って当時牧野村の一部であった根村に移っており多くの井上家を今日に伝えています。

 徳川家康の江戸移転に伴って、新たに所領を得た配下の大名や旗本たちが、まず行ったのは、経済的な基盤になる土地の調査で、田畑の場所・地主・耕作者を記録し、年貢の総領を把握することでした。武士が農民を支配する上で必要不可欠なことです。豊臣秀吉の後世に残した施策として検地と刀狩りがあります。家康の関東入国の翌年当麻(たいま)村の地域を与えられた旗本内藤清成(ないとうきよなり)は検地を実施しています。この時期多くの新領主となった家康配下の大名、旗本が一斉に土地の調査を実施し、秀吉の示した「太閤検地」の内容に準じた調査の結果が旧市の村々に残されています。
 津久井を中心とした江戸時代の話を続けてみます。

【出 典】
 @『春林文化 第8号』(平成25年)村の成り立ち
 A『私たちの相模原』(平成31年)相模原市教育委員会
 B『歴史の視点』中巻(昭和50年)日本放送出版協会


                 城山地域史研究会 山口 清
 


第44回  『江戸時代の津久井 その4』


        〜400年前の記録発見〜
              

 今回は、勝手ながら筆者(私)の少々私事(わたくしごと)になりますが、しばらくお付き合い下さい。私は若いころ城山町立相模丘中学校の社会科教員として務めており、学校付近の歴史的事件に幸運にもお付合いの機会に恵まれ、同好の方々とお付合いすることができました。学校の南側にある横穴墓(よこあなぼ)(当時は横穴古墳と言っていた)の発見者の三人目となり、当時の生徒と発掘のお手伝いができました。八幡宮境内の古墳石室の調査参加、中沢普門寺(ふもんじ)の平安仏であることの確認にも立ち会うことができました。
 
 今回のテーマの「400年前の…」記録発見も、町役場の経済課長さん(後の町長さん)にお願いして、現在の庁舎裏にあったトタン張り物置小屋で偶然木箱の中から発見した当地の今のところ最古の古文書です。「水帳」とありますが「見図帳」一般的には「検地帳」です。昭和30年からおよそ50年「城山町」と名付けて暮らしてきた私たちと同じ場所で、400年前どんな人たちが、どのような社会を構成していたかを話してみます。

参考資料
   相州津久井之内河尻之郷御地詰水帳(かわしりのごうおんちづめみずちょう)
      慶長八卯ノ九月廿八日  案内者 図書(ずしょ)他1名



                 城山地域史研究会 山口 清
 



第45回  『江戸時代の津久井 その5』


        〜家康の施策と津久井〜

 豊臣秀吉が配下の大名を率いて、小田原北条氏を降伏させ、戦国動乱の時代を終わらせます。秀吉はその存在が気になる徳川家康を本拠の遠江(とうとうみ)や駿河から追い出し、関東へと配置変えさせます。関東へ下った家康は、慶長八年(一六〇三年)、鎌倉時代の源頼朝の例にならって征夷大将軍となり、幕府を開きます。武蔵、相模、甲斐三国に隣接する津久井二十二ヶ村の住民たちは関東平野や中部山岳地帯の勢力とどのように戦国の時代をすごしてきたのでしょうか。
 慶長八年に作成された当時の公文書が幸い今日まで無事に残されています。それが「相州津久井之内河尻之郷御地詰水帳(そうしゅうつくいのうちかわしりのごうおんちづめみずちょう)」です。
 その「河尻之郷水帳」は江戸時代を経て、明治・大正・昭和と伝えられ、平成の年号に入ったころ、当時の城山町役場の物置で発見されたものです。昭和の合併で川尻村の名称が消えることから町役場の倉庫に保管されていたものと思われます。
 この貴重な資料から近世初期の村のようすを知ることができます。川尻村に田畑を持って耕作していた者が九十一人、そのうち村内に家を構えて年貢を納めていた者は四十五人、惣兵衛とか善右衛門といったいかにも農民らしい名の多い中で、高山、加藤、高城、清水、米山といった姓を名のっていた者がおります。また、対馬(つしま)玄蕃(げんば)、右近、隼人(はやと)織部(おりべ)などの名もあり、いずれも武士を思わせる姓や名です。このことから、村に武士が住み、家臣である下人(げにん)がおり、日常は主人の畑を耕作し、戦があれば主人に従って戦闘に参加する。兵農未分化の状況が想像できます。

※西国の大名 信長、秀吉等の家臣は戦をする専門職として扱われている様子がう かがわれますが、東国ではそれが遅れているようです。戦国末期の落城の様子を 見ても納得できる点があります。そんな観点から戦国の世を眺めるのも興味が湧い てきます。
 
 
資料「相州津久井之内河尻之郷御地詰水帳」 

                 城山地域史研究会 山口 清
 



第46回  『江戸時代の津久井 その6』


        〜家康の施策と津久井〜

 なみ木 畑七拾七文 助左エ門 
 これは『相州津久井之内河尻之郷御地詰水帳』の1行目の記録です。「なみ木」は川尻八幡宮の参道で、それに沿って並木があり、それが地名になっていたところと思われます。その土地を農地として耕作していた助左エ門が七十七文を年貢として納めたという記録です。
 年貢の負担を生産物でなく、(ぜに)で納める形式を「永高制」といい、徳川家康が新たな支配地の津久井の村々などの抵抗を避けるため行っていた処置の一つでした。
 ここで突然紙面に豊臣秀吉を登場させます。秀吉は小田原北条氏を征服して天下を統一すると、家康を関東に移動させるような武力による統治のほか、庶民の生活に直結する畝歩(せぶ)制の基準を改めるなど行い、それに基づくいわゆる太閤検地(たいこうけんち)を強行しています。
 このような秀吉の圧倒的な状況の中で、征夷大将軍として幕府政治を遂行するために、家康の実行する銭で年貢を納入させるという永高制はどのような意味があったのか。津久井領などで行われていた永高制を成立させた当初の徳川幕府が行った理由について@採用された地域が山間部で比較的未発達の地域であった。江戸時代に入っても戦国時代以来の力が根強く残っていた。A新領主である徳川氏は新たな政策を強制的に押し付けるのではなく、戦国期に用いられていた永高制を妥協的に採用された。B幕府は当初、意図的に水田地帯は米納年貢、畑作地帯は金納年貢という方針であった。さらに銭の種類を当時良銭としていた永楽銭に統一していた。これにより近世的な制度として機能しているといわれてる。なお、武相の地域は大部分が水田を持たない村で現実的に米納は不可能であり、金納による年貢は津久井領にもっとも適合したものであったと言われていました。
 徳川家康は、「農地から離れた武士」という新しい階級が出来上がっていた西日本から移って、信長、秀吉など強力大々名との交流や戦いの中で、武家の支配や天下取りのイロハを津久井衆のような兵農未分離の実態を足もとに見ながら、徳川の行く末を案じていたのではないでしょうか。次はいよいよ江戸時代に入ります。

 
 
 参考文献「城山町史」6近世通史編

                 城山地域史研究会 山口 清
 



第47回  『江戸時代の津久井 その七』


        〜津久井県二十九ヶ村〜

  江戸時代(近世)の行政上の単位は国=郡=村で、実例で言えば、「相模国高座郡相原村」などとなります。しかし、全国の中で、元禄四年〜明治二年(1691〜1869)の179年の間、津久井は全国でも唯一で全く例外の「県」という単位を用い、「津久井県」と称しています。それ以前の津久井は津久井領、あるいは愛甲郡津久井、高座郡津久井などと両郡に含まれていました。例えば、現存している慶長二年〜明暦七年(1598〜1656)幕府の実施した諸村の検地帳には津久井領はじめ単に津久井あるいは時には津久井郡とあり、必ずしも確定した単位ではありません。
 その後、寛文四年(1664)、江戸幕府が諸大名に発行した朱印状によると、津久井はすべて高座郡と愛甲郡に含まれています。高座郡は城山町域の小倉村、葉山島村にはじめ計二十三ヶ村が属しています。幕府発給文書によると代官 小川貞清の支配となりますが、この時、小川貞清は津久井を「津久井県とせよ」と命じ、これにより明治二年(1869)まで全国で唯一の単位である県が続き、翌三年に至って郡に改正され、ここに津久井郡が成立しました。
 津久井領(県)を構成する村数については、津久井領には、江戸幕府開設の翌年、慶長九年(1603)幕府の代官頭 伊奈忠次によって総検地が行われ、これにより当時の津久井領は二十二ヶ村と確定されました。その後、さらに分村が行われ、津久井領二十九ヶ村が成立しました。
 津久井の村々は、大別すると領内を横断する相模川を中心に南北に二分されます。北部には十三ヶ村、その西部には相模川に沿った甲州道中が走り、小原宿など四ヶ村が、また道志川を境にした南部を下津久井と区分されるとらえ方もあります。

 参考資料「城山町史」2資料編 近世

                 城山地域史研究会 山口 清
 


第48回  『戦乱の世が終わってー混乱から安定へ』

 戦国時代における関東以北の武士は、兵農未分離という武士でありながら農民という状況が見られます。田植えとか稲刈りをすませてから殿様の命ずる戦場に参加するという状況です。武田信玄や上杉謙信が関東へ攻め込んできますが、農民の仕事が少ない冬季の行動です。
 豊臣秀吉の大軍に包囲されて落城した小田原北条氏も滅亡し、戦国時代は終わります。津久井城を守った津久井衆も農民に戻っています。
 その中にただ一人だけ徳川家康の家臣となり、武家として津久井地方の代官となった人がおります。そしてこのことが川尻村の久保と原宿の市の対立に影響してくるようです。そこがまた歴史の面白いところでしょう。

 参考文献「城山町史」6近世通史編

                 城山地域史研究会 山口 清
 


第49回  『戦乱の世が終わってー混乱から安定へ』  その二 


 豊臣秀吉の軍勢に囲まれて滅亡した小田原北条氏の後の天下は、秀吉のものとなり、家康は故郷の三河から江戸へと移動を命じられます。広い領土を持った家康は、それに応じた人数の家臣を必要とし、日常は農業、戦(いくさ)の時は侍(さむらい)として戦う津久井衆から佐野川村や吉野村の土豪(どごう その土地の有力者)の守屋行広(もりやゆきひろ)、その甥行吉(ゆきよし)が家康の家臣として選ばれました。
 家康の家臣としての代官になりました。戦国の世では、武士の移動が勝つために優先されますが、平和が訪れれば、平地と山地の物資の移動が生産者の願いとなります。幸い城山の地域は背後に山地、目の前は広々とした平野、それに物資を運べる大きな河川もあります。
 ここに出てくる代官というと、テレビドラマ水戸黄門に出てくる悪代官ではありません。津久井衆出身の代官は、半分武士で残りの半分は農民です。それが徳川幕府の代官でよいのでしょうか。
 江戸時代が終わると明治・大正・昭和と続きます。文明開花と浮かれているうちに、
日清・日露、太平洋戦争とわが国は不幸な戦争を体験しました。封建社会といわれた江戸時代が見直されています。江戸時代は面白いという人もおります。しばらく一緒に勉強しましょう。

 参考文献 城山町史5 通史編原始・古代・中世

                 城山地域史研究会 山口 清
 


第50回  『戦乱の世が終わってー混乱から安定へ』  その三 


 日常は農業、戦争の時は侍として戦う「津久井衆」と前回書きましたが、「津久井衆」を守る戦力としての「津久井衆」の内容は複雑でした。徳川家康の命じた津久井衆が、「佐野川村や吉野村の土豪(その土地の有力者)」とも書きましたが「津久井衆」から選ばれた守屋行広やその甥行吉はそのような身分の低い武士ではありませんでした。
 守屋氏は小田原城北条氏に仕えて、主家滅亡後は領内日連村に移住土着します。その後江戸幕府の代官として幕府代官伊奈忠次に従い津久井領はじめ相模、武蔵等幕府領の調査に従いました。
 江戸に下った徳川家康は、幕府という武家政治の拠点江戸の中心江戸城に置きました。物資の交流を図る計画が商人だけでなく庶民の生活を見守る武家の間にも起こり、政治を統括する代官や商品の流通を見守る商人や農民の行動力が新しい時代の波を乗り越えて動き出します。川尻地域はまさに山地の生産物と平地の物資を交換させる場、市の発生にかかわり、新しい時代を迎えます。津久井地域への平地への出入口は新しい時代を迎えて土農工商が重なり合って活動する時代を迎えていました。


 参考文献 城山町史5 通史編原始・古代・中世

                 城山地域史研究会 山口 清